お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2019年5月23日木曜日

カルカソンヌ サンルイ地区


カルカソンヌに戻ってナルボンヌ門(Porte Narbonnaise)からシテ地区に入った。
中世の街シテ(観光局発行の地図、○番号は(『LA CITÉ DE CARCASSONNE』以下『CARCASSONNE』より)
いつも通る観光客で溢れたクロ・メルヴィエイユ通り(R.Cros Mayrevieille)を避けて左折、サンセルナン通り(R.Saint-Sernin)へ。
この通りも土産物屋と観光客だらけだったが、その先のマルク広場(Place Marcou)はカフェのテントや椅子で埋まっている様子。
内周壁側は人が少なく、近づくとナルボンヌ門が間近に見えた。
正面はサンセルナン聖所の塔の内側だった。ということは礼拝堂のようなものがあった場所で、時代の下がる十字架の基壇は旅人たちの腰掛けになっている。
『LA CITÉ DE CARCASSONNE』(以下『CARCASSONNE』)は、1793年に壊されたサンセルナン小教区教会の後陣の一部だった。1441年にフランボワイヤン様式の装飾のある窓が開かれたという。
これが礼拝堂の後陣で、外からもよく見えていた。
周壁の続きはここまで。やっぱり柵があって、登れないようになっていた。

プロ通り(R.du Plô)も賑わっていて、
歩き続けると内周壁のバルタザール塔と、外周壁ヴァドの塔(Tour de la Vade)。外から見た写真はこちら
ヴァドの塔について『CARCASSONNE』は、外壁で最も重要な防御の建物。本丸或いは前進主塔の一種とされてきた。1240年の包囲で破壊された町の代替として、ピュシュ・サンミシェルの丘を管理するために1240-45年に建造されたという。
それは小さな井戸広場(Place du Petit Puits)近くだった。大きな井戸の方は朝まだ日が射さず暗い時に見ただけだが、これよりは大きかった。

その後プロ通りを通ってホテルに戻り、再び外出。
空中廊下をくぐってサンナゼールの小径(R.du Four Saint-Nazaire)へ。ここは日中でも人通りが少なく静か。
またしても例のものが見えてしまった。
オード門を出て凸壁越しにサンルイ地区を眺める。
パネルの地図
説明パネルは、今日「バスティード・サンルイ(bastide saint Louis)」と呼ばれる下の町は、レイモン・ロジェ・トランカヴェル(Raymond Roger Trencavel)が町の住民たちと、フランス王の代官から町を奪い返す企てに失敗した1240年の陣地が起源となっている。王の軍隊は町に火を付け、ルイ9世(聖王ルイ)が7年後にやっと、オード川の対岸に町の再建を許可した。
新しい町は迅速に発展し、14世紀初めにはラングドックの毛織物業の一大中心地となった。町は正方形で、現在バスティードを囲む大通りの位置に中世の要塞があった。
19世紀初頭に一つの共同体となるまでは、2つの町で絶え間なくいざこざが起こっていたという。

右手の道を下って行く。
黄色い輪っかを写そうと集まる人々。
どんどんと坂を下っていくと、昨夜は暗くててよく写せなかったサンジメ教会(l'Église Saint-Gimer)が。後陣は仏南西部ゴシック様式が残っているが、
その他は修復箇所が目立つ。残念ながら教会の門には柵があった。
バルバカヌ通り(R.de la Barbacane)から
オード川沿いの通りへ。

サンルイ地区(観光局発行の地図より)

古い橋(Pont Vieux)を渡る。昨夜はライトアップを見に来た橋である。
新しい橋(Pont Neuf)側が下流で
こちらが上流。オード川は東方向に流れて、大きな川に合流することなく地中海に出る。
橋を渡った左手に小さな礼拝堂。その日陰で休んでいる人たち。
その角に柵の中に聖母子像(1875年)が。
こちら側に入口があったが、矩形の教会とは不思議。
ノートルダム・ド・ラ・サンテ礼拝堂(Notre-Dame De La Santé、健康な聖母礼拝堂)という名称だった。
説明パネルは、1497年に町の病院の近くに建立された。16世紀にオード川側に拡張された。
建物は、ファサードが少しだけ残るが、かつては柱状の装飾や尖塔があった。
この礼拝堂はサンティアゴデコンポステラへの巡礼路の出発点で、カルカソンヌの多くの住民が洗礼を受けたという。
身廊は2柱間で内陣と共に太いリブで装飾されている。

礼拝堂前の3つの王冠通り(R.des 3 couronnes)を行くと、門のようなものが見えてきたが、現在は駐車場のよう。
そのまま歩いて行くとバスティードの周壁の角に着いた。
石落とし?
南側の市壁は所々欠けていて、建物が並んでいたりする。
部分的に残っている。
ドゴール将軍広場(Pl.du Général de Gaulle)の噴水が涼しげ。

その正面にあるジャコバン派の門(Portail des Jacobins)からサンルイ地区に入る。
クルトジェル通り(R.Courtejaire)は狭く、右の凹んだ建物は何か分からなかった。
最初のヴォルテール通り(R.Voltaire)との交差点。自転車で旅する人はよく見かける。
ヴォルテール通りを左(西)へ。二輪車のパーキングはあるが、狭い上に駐車の列でやっと車一台が通れる。歩行者には狭いが歩道がある。
しばらく歩くとカルカソンヌの司教座聖堂、サンミシェル(Cathédrale Saint-Michel de Carcasonne)の塔が見えてきた。
その後陣は深い扶壁と尖頭アーチの長い窓という仏南西部ゴシック様式
その下にはこんな水飲み場が。
内部
壁面はレンガ状に描かれ、付け柱やアーチの枠は様々な文様で装飾されている。照明の形が面白い。
閉じられた西ファサードの扉口と、その上にはパイプオルガン。
外に出て休戦広場(Square de l’Armistice)から西ファサードを撮影。
鐘楼は八角形。正方形から八角形に導く工夫が外からうかがえる。
バラ窓にはステンドグラスがあるが、内部からはパイプオルガンが邪魔して見える教会はほとんどない。
広場の西端にゴシック様式の二連アーチが置かれていた。かつての教会の窓枠は、第一次世界大戦の戦死者の記念碑となっていた。
ゴシック様式のようだが、あまり古くはなさそう。
柱頭に女性の頭部があったり、
二段のアカンサスの変形のような浮彫など。

T字路の交差点で遠望すると、本日の目的の一つであるサンヴァンサン聖堂の鐘楼が見えた。
アルベール・トメ医師通り(R.Doctor Albert Tomey)を1区画歩いてサンミシェル聖堂の鐘楼を振り返る。
エメ・ラモン通り(R.Aimé Ramond)の東北角には立派な市場。
市場はコの字形に続いており、その間は駐車場になっている。
ヴェルダン通り(R.de Verdun)側。
通りを西へ歩いてみると、おしゃれなお店が大売り出し中。
色合いも私好みだけど、とても持ち帰れない。




ここで一区画
その角にも水飲み場があった。

通りを戻り、
市場の建物を通り越して、一つ東のシャルトラン通り(R.Chartran)。写真は東南の角にある農家(La Ferme)という名前の食材店。高級そう。
通りを北へ向かうとカルノ広場(Pl.Carnot)の手前にもおしゃれなお店が。メゾン・ボル(Maison Bor)というカフェテリア。
カルノ広場は思ったより広くはないが、日陰で憩うのは観光客よりも住民が多そう。
噴水で写真を撮っているのは観光客かも。
広場からアントワーヌ・ダルマニャック通り(R.Antoine d’Armagnac)と名が変わる。郊外型の大型スーパーカルフールの小さな町中店舗、初めて見た。
カルノ広場の北側のヴィクトール・ユゴ通り(Victor Hugo)はやや上り坂。
アントワーヌ・ダルマニャック通りを北進。左前方に目指すサンヴァンサン教会の後陣が見えてきた。
傍まで来て緑色のものは修復のためのネットと判明。


修復が外側だけなら良いのだが・・・
9月4日通り(R.du 4 Septembre)に入る。
北扉口は閉まっている。
北壁の西側
アルベール・トメ医師通りに入って、
教会に入ろうと西ファサードの扉口へ行くと閉まっていた。
修復中なのか、お知らせの紙も何もなかった。
残念😢
アントワーヌ・ダルマニャック通りに戻り、北に向かうと噴水が見えてきた。
オメ・サロ大通り(Boulevard Omer Sarraut)の北側はアンドレ・シェニエ公園(Jardin André Chénier)になっていて、複数の噴水があった。
これはマル・ジョフル通り(R.Mal Joffre)角にある噴水。湿気はないが暑いので水で涼をとっている人たちがいた。
噴水を回り込むと遠くに仏国鉄(SNCF)のカルカソンヌ駅舎が、そして手前にはミディ運河があった。ここもサンルイ地区に来る目的の一つだったのだ。
駅にはこれ以上近づかず、
ミディ運河の方を向くと、運良く水面も向こう側と変わらなくなっていた。閘門に留まっている船のうち、左は観光船、右は個人の持ち物のよう。門が開いたら、きっと右の方が先に出発するだろう。しばらく様子を眺めることにした。
川の閘門は直線的だったが、運河では、ひょっとするとカルカソンヌだけかも知れないが、馬蹄形になってなっている。
真下の水面が下流部の水面。高低差はかなりありそう。
門が開ききると、意外にも先に出ていったのは観光船の方だった。左の船が先に行くというルールでもあるのだろうか。それとも馬力の違い?
下流側にも船が幾つか停泊している。


そろそろ帰る時刻。昔は周壁のあったところが大通りになって町を囲んでいる。
その大通りを左方向に行くか、バスティードの町中の道を行くか。やっぱり町中のジョルジュ・クレマンソー通り(R.Georges Clémenceau)を歩いてみよう。
やっぱりこの通りも狭いが、歩行者専用道路になっているので歩きやすい。
アイスクリーム屋を見つけて思わず買ってしまった。
カルカソンヌ最後のアイスクリームは、塩キャラメルと甘草(réglisse)でした。
食べながら歩いていると、左手にカルメル会の教会があった。西ファサードにバラ窓ではなく、尖頭アーチ窓があった。
扉口のタンパンはマギの礼拝?一人しかいないけれど・・・
ちょっと入口を写させてもらう。
カルノ広場をすぎると賑わいがなくなっていく。ヴェルダン通りまで下がってきた。
真っ直ぐ歩いていくと右手に古風な木の設えの店と、右の戸口から画材屋か画廊らしきものが見えた。
そのまま南下するとジャコバン派の門に出てしまうので、エメ・ラモン通りを東へ。
通りの右角の装飾的な建物は貯蓄銀行(Caisse d’Epargne)だった。
ガンベッタ広場(Square Gambetta)
ガンベッタ広場から南方向を眺める。
左斜め前の古い橋通り(R.du Pont Vieux)へ。シテの周壁が見えている。
ジョルジュ・ブラサンス通り(R.Georges Brassens)との交差点にも水飲み場があった。
古い橋の手前、ノートルダム礼拝堂のある交差点を左折、カルキエール通り(R.des Calquière)からカルキエール袋小路(Impasse des Calquière)入っていくと、オード川の川岸に出た。
また戻るのもめんどくさいなあと新しい橋(Pont Neuf)のトンネルをくぐり抜けると、
幸いなことに新しい橋に行ける階段があった。
橋の上に着いたところでシテを撮影。あの黄色いのがなければ・・・
新しい橋からでないと写せないシテの二重周壁と古い橋。
古い橋とオード川
同じ葉っぱの木がたくさんあるなと見ていたら、
それは桑(mûrier)だったことが、実(mûre)でわかった。桑畑なのかな?クワの実ジャムがあるらしいけど。セミハードタイプのチーズに付けると美味しいことを、帰国して知った。というよりも、桑がフランスにあることを知らなかったのだ。カルカソンヌでは養蚕していたのかな?

古い橋をくぐって、
バルバカヌ通りからはコンタル城が見え、
オード門への登り道(Montée de la Porte d’Aude)を行く。ホテルがもう見えている。
やっぱり黄色い輪っか撮影ポイントには人が集まっている。
そこまで行ってこの先が通行止めであることを確認。
そして、大いに不満はあるが、やっぱり写してしまった。現在ではなくなっているはず。


夕食はミシュランのフォーク付きレストラン、コント・ロジェ(Comte Roger)で。
アミューズ
自家製フォワグラ
メインは鱒
鱒の下に野菜がたくさん隠れていた。
デザートはマスカットクリームのパイ乗せ
フランス各地を旅行された方たちは、フランス料理はいつも美味しいが、今回の食事は他で食べたよりも美味しかったという感想だった。
ゆっくりと給仕されるので、見学時間のことを思うと心配になることもあったが、ゆったりと食事をすることの大切さが分かった旅となった。

     ソレーズ(Sorèze)←     →カルカソンヌ 朝散歩2

参考にしたもの
カルカソンヌ観光局発行の地図