お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2019年10月17日木曜日
ターラント(Taranto)
長靴のようなイタリアの南端はかかとの部分とつま先の部分に分かれている(GPSの軌跡)。ヒールの外側にあるブリンディシから内側にあるターラントへ。
オリーブ畑や
耕作地の間の高速道をバスは走って行く。
不毛の石灰岩台地が現れ初め、洞窟住居で知られるマテーラから遠くないことが実感できた。
ターラントに入ると工場も見え始めた。
ターラントの地図(地球の歩き方より)
ポルタ・ナポリ(ナポリ門)橋を渡って旧市街のマーレ・グランデ(外海側)を通っているとターラントのドゥオーモ(司教座聖堂)の側廊がちらり。
渋滞のおかげで街の建物がよく見えた。
ドーリス式神殿跡が見えたかと思うと、
こんな庶民の生活風景も。
小さな島なのに、海沿いの建物の奥は一階分高くなっている。
地図にものっているラ・パランツァというお店で昼食
ガス入りとガスなしのミネラルウォーター。ガス入りは微炭酸なので飲み易かった。
ムール貝の蒸し物 イタリアのムール貝は小さめ
自家製パスタのヴォンゴレ パスタはモチモチで美味しかったが、アサリの身はいずこ?
レモングラニータ
食後海岸へ。マーレ・ピッコロ(内海)側は漁船が犇めいていて、奥の高い建物群とは別の暮らしを感じた。
マーレ・ピッコロの上を通る高速道の白い橋の手前には白い船。
港に戻ってムール貝をむく漁師さんたち。皆若い。
旧市街とされている小さな島は、マーレ・ピッコロとマーレ・グランデを繋ぐナヴィガヴィーレ運河を1481年に掘削してできたという。もとは繋がっていたのだった。
向こうの橋はポンテ・ジヴィオレ(ジヴィオレ橋)。1958年に架けられた大型船が通る時には開く旋回橋という。
向こう岸の端、その左手には先ほどの白い船。
橋を近くから見る。船が通る時には90度横向きになるのだとか。
橋からマーレ・ピッコロ側
なんと橋の上でバスを降りた。
正面には赤いウフィッツィ宮殿(Palazzo Uffici)
ガリバルディ広場(Plazza Garibaldi)の上で旋回しているのはカモメ。
ここでも見つけたナツメヤシの実。生で食べてみたい。
左にそれて国立考古学博物館へ。
勝手口のようなところから入る。館内の展示品については別記
中に入ると、早速アルカイック期の彫像が迎えてくれた。
男性像頭部 前6世紀第4四半期
説明パネルは、若さに満ちた顔で正面観で表される。カールした前髪が冠のように並び、房状の髪を垂らしているという。
典型的なアルカイック期の作品。前髪は粘土で作ったような柔らかな質感。
男性坐像 前6世紀末
ディアデムには大きな玉あるいは果実を模したものが並ぶ。顔は細部描写はせず、長いあごひげが前に突き出しているのが珍しい。体も筋肉などは強調せず、薄い衣を着けているよう。
2体の女性像 アルカイック期
説明を写し損ねたのでよくわからないが、神殿のペディメント(三角破風)に、主神の両脇に配されていたような左右対称の姿勢である。違いといえば頭部のディアデムあるいは帽子のような被り物くらい。
見学後、旧市街の方へ橋を渡り、
観光案内所の前ですぐにバスを降りる。
通りを渡って円塔のある建物に沿って歩く。
古代ギリシア時代からあった要塞跡に、15世紀末アラゴン王家が改築したのだという。
アラゴン王子フェルナンドとカスティーリャ王女イサベルが結婚して1479年にスペイン王国が誕生している。
若い頃にスペインを旅した時、イタリア語ができるアメリカ人が、イタリア語とスペイン語はよく似ているのでイタリア語でも通じると言っていた。他にも、地理的には近いフランスよりも、離れているイタリアとスペインの方が言葉が似ているという話はよく聞いた。それがこの歳になって判明、スペインのイタリア統治時代に伝わったのだと。
大きな円塔を回ると、もう一つの円塔と城内への通路が見えてきた。
通路と庭園。
合成するとこうなった。
空から見ると円形監視塔は4つだった。
無料のガイド付きツアーが、毎日午前1時30分まであるという。
ブリンディシ(Brindisi) 旧市街←
関連項目
ターラント国立考古学博物館 墓の変遷
ターラント国立考古学博物館 ガラス
ターラント国立考古学博物館 金色の装身具
ターラント国立考古学博物館 土器・テラコッタ
参考文献
「地球の歩き方2017-18 A13 南イタリアとマルタ」 ダイヤモンド・ビッグ社