お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2019年2月4日月曜日
アルビ サントセシル司教座聖堂
食後天空のコルド(コルドシュルシエル)を出発。
最後に天空のコルドを見上げると、サンミシェル教会の鐘楼がはっきりと見えた。
D600号線をひたすら走る。周囲はゆるい傾斜地でそこには農地が広がるばかり。
葡萄畑が多い。フランスでも早いころからブドウが栽培されてきた地方だという。
アルビに近づいた頃踏切で足止め。
アルビの中心へはタルン川(Le Tarn)を渡る。1944年8月22日橋(Pont du 22 Août 1944)の手前から渋滞していた。
アルビ観光協会発行の地図より
橋にさしかかると、斜めに切った堰や古橋(Pont Vieux、ポンヴィユ)、そしてその奥の鉄橋も眺められた。渋滞していると、ゆっくりと景色を見ていられる。
アルビを流れるタルン川もまた清らかな水には戻っていない。正面にはサントセシル司教座聖堂がどっしりとその威容を誇っている。
タルン川のずっと下流、直線距離で90㎞弱のところに回廊やタンパンで有名なモワサックの町がある。
コルドからアルビまでは30分ほど。
橋からリス・ジョルジュ・ポンピドゥ(Lice Georges Pompidou)を直進。
サントセシルのある旧市街はバスが入り込めないので、噴水前の道路を右折後下車すると、トゥールーズで案内して頂いたかおりさんが待っておられた。かおりさんは忘れずに私がトゥールーズのオーギュスタン美術館の係員のストのおかげで買えなかった図録を代わりに買ってきて下さった。その中には沢山の絵葉書がおまけで付いていた。
かおりさんの案内で旧市街へ。
ヴェルデュス通り(Rue de Verdusse)に入る。ここがメインストリート、日本右に言えば四階建ての建物が並ぶ。今回の旅行では、トゥールーズに次ぐ大きな町。特にコンクやコルドからやって来た者にとっては街に感じる。
公衆トイレを指すかおりさん。自由行動の時に有り難い情報である。
ソナル(R.de Saunal)通りとの交差点に青いメガネのマーク。狭い通りの入り組んだ街なので、これが散策の目印に。
我々はさきほどの通りがサントセシル(Saint-Cécile)と名を変えた方へ直進。左にサントセシル司教座聖堂の鐘楼が見えてきた。やっぱり大きな街ではない。
進行方向の先にはベルビ館という現在はロートレック美術館となっている建物が。
デリス・ラマルク(DELICES LAMARQUE)というお店。ここで翌日お土産を買うことに。
写真を撮っていて、右手に開口部があるのが気になった。サンサルヴィ教会回廊への入口という。
少し入ってみると、
左手に教会への南扉口、その隣には礼拝堂のようなものが。そして回廊らしい小円柱と中庭。
北回廊はすぐに終わり、
東も西も回廊は残っておらず、南側に双円柱のアーケードが並んでいる。
柱頭など詳しくは後日
通りを突っ切ると左前方にサントセシルと奥にベルビ館(やっぱり変な合成)
サントセシルは司教座聖堂
『中世の街角で』は、アルビは、12、13世紀の南フランスに広まったキリスト教の異端、マニ教の流れを汲むカタリ派(アルビジョワ派)の、中心地として名高い。しかしカタリ派は、ローマ法王インノケンティウス3世の呼びかけに応じて来たフランス諸侯の「アルビジョワ十字軍」により、13世紀を通じて鎮圧されてしまう。この戦いは、ゲルマン的世界に属する北フランスと、ラテン的地中海世界に属する南フランスとの最初の熾烈な南北戦争であった。
フランスの南北戦争はその後も、北のイギリス勢と南のフランス勢の百年戦争(14、15世紀)、北のカトリックと南のプロテスタントの宗教戦争(ユグノー戦争、16世紀)などとなって現れる。
しかし、忘れようとしても忘れられないのが、石の文化の宿命なのであろう。長さ115m、幅34mという巨大なサント・セシル大聖堂が、1282年から1世紀かかり、カタリ派鎮圧の記念として、ローマ・カトリック教会により建てられている。赤い煉瓦のどっしりとしたいかにも重量感のあるその姿は、異端をはらおうとする城砦そのものであり、敵地に乗り込んできた大戦艦のごとく、あくまでも人を威圧し睥睨し続ける。13世紀はすなわち現在であり、中世がその形式のまま、現在と共生しつづけているという。
確かに、これまで見てきた教会堂とは比べものにならない威圧感である。
ゴシック建築の割りにステンドグラスの窓が小さいのが仏南西部の様式の特色。
細長い窓の上部にはロンバルディア帯が発展したような飾りアーケード、窓のない扶壁にはガーグイユ(英語読みでガーゴイル)の樋口が飛び出している。細い矢狭間も一定間隔で開いている。
下部は円筒状の扶壁と、軽やかさのない壁体を支える分厚い基部。
サントセシル司教座聖堂の平面図(『中世美の様式下より』)
平面図にあるように、後陣の南側から南扉口までが複雑な造りになっている。
『Albi』は、単廊式で翼廊のない仏南西部のゴシック様式、長さ97m、幅19m高さ30mという。
トゥールーズのサンセルナン聖堂が長さ115mなので、それには及ばないが、高さと外観に威圧感がある。
まず最初の門。その横には監視塔があって、聖堂というより城館に入る感じ。門の上にも胸壁に矢狭間。
ドミニクドフロランス外門(avant-porte de Dominique de Florence)
『Albi』は、司教座に就いた1277年より、ベルナール・ド・カスタネ(Bernard de Castanet)は新しい司教座聖堂の建立計画を立てた。それは異端の風が吹き荒れた地方にカトリック教会の力を見せつけることを意味した。教会は司教の権威を強め、ベルビ司教館もまた支配力を宣言した。
現在ではなんの痕跡もなくなった古いロマネスク教会の傍に、この土地で得易く安価なレンガでの建物を建造し始めた。広大な建設現場ではゆっくりと作業が進み、ベルナール・ド・カスタネ(1276-1308年)の後はベロー・ド・ファルグ(Béraud de Fargues、1313-34)、そしてベルナール・ド・カミア(Bernard de Camiat)が継いだ。14世紀半ばのペストの流行で中段の後再開された。1世紀を少し越えて荘厳な司教座聖堂は落成し、ドミニク・ド・フロランス(1397-1410)が扉口へと導く階段に威厳のある門を建立したという。
立像が1体しかないのは、フランス革命の時に壊されたから。
大きくは四重の飾りアーチ、数えていられないくらい細かい飾りアーチのタンパン部分が透彫で、諸像が安置されている。
中央のナツメヤシの葉を持つのが音楽の守護神サントセシル(聖女セシリア)
次の門前のポーチは天蓋が付いている。
同書は、16世紀に建造されたフランボワイヤン様式の天蓋の形の扉口という。
透彫のすごさに圧倒される
天蓋の装飾的なリブはフランボワイヤン様式ならでは。
右を向くと南扉口がまた装飾的。
半円アーチや尖頭アーチの重なりが4列、その中央柱に聖母子像が飾られている。
繊細な透彫の間には天使像が嵌め込まれ、ロマネスク期のような動物が出没する楽しさはない。
堂内に入る。右が内陣側。
外からは半円の付け柱に見えた扶壁は、内部では小壁となって屋根の荷重を支えている。その一つ一つの細長い空間は、色石のモザイクではなく、フレスコ画で文様が描かれ、細長い窓には当初はステンドグラスで飾られていた。
交差ヴォールトは紺色の地一面に、装飾文様や聖人などが描かれる。
窓の下は小礼拝室が並ぶ。
横断図では側廊とされているが、実際は小礼拝室が並んでいるので、ロマネスク期の側廊のように通り抜けることはできない。
平面図では西ファサードに扉口があるのだが、現在は閉じられているらしい。
西壁には上部に18世紀のパイプオルガン、全体の1割しか見えていないという。その下には両側に膨らんだ壁面にはフレスコ画が描かれている。
『Albi』は、15世紀の南仏で最も大きな絵画で最後の審判を表している。北フランスの画家が描いた。
残念なことに、18世紀にグ・ド・ラ・ベルシェール(Goux de La Berchère)が鐘楼の基壇に礼拝室を設けるために、1柱間を壊したために、最後の審判の中央部分が失われたという。
同書は、上部で十二使徒たちが玉座に坐り、続いて選ばれた者たちのうち主要な者たち、枢機卿に伴われたローマ法皇、司教、皇帝、王、托鉢修道者の代表、聖人と聖女たちも中段にいるという。
そして下段には、蘇ったものたちが、裸で地から手を合わせて行列をつくっている。それぞれの生涯が記された開かれた書物を胸の高さで持っているという。
天井画は1509年から5年かけてボローニャから呼ばれた画工が描いたという。
いろんな方向から描かれている。一度も修復されていないのだとか。
さて、東側には内陣がある。ビザンティン教会のイコノスタシスのような板壁で隔離されてはいないが、内陣は聖職者しか入れなかった。
ここからは料金がかかる、4€。
各柱には旧約聖書の聖人たちの像が安置されている。
後陣の周歩廊に入ると、外側に並ぶ小礼拝室の壁面は大理石や色石のモザイクのように見えるフレスコ画だった。
途中の扉口から内陣へ。
向こうの出入口上はシャルルマーニュ大帝像。
反対側の開口部脇にあるのが司教座付聖堂(カテドラル)の元になった司教の坐る椅子(カテドラ、フランス語ではカテドル、cathédre)
一般信者たちの坐る身廊と聖職者しか入れない内陣を隔てる仕切り
司教区各地の聖職者が腰掛けた椅子がずらりと内陣を囲む。
中央の赤い石板は司教の墓石だろう。
上部の赤と黒の壁面の境にはそれぞれ別の物を持った天使が立っている。
西側からすぼまっていく東側(後陣)に続く天井画
東向きのものを逆に見ると、上が天上で神に冠を授けられる聖母戴冠、下は賢い乙女たちと軽率な乙女たち
すぼまり始める柱間の天井には栄光のキリストと四福音書記者の象徴。
天使たちの支えるマンドルラはややゆがみ、その中のキリストも斜め向きの姿勢で坐る
内陣の東側はミサが執り行われる祭壇があるだけ。最奥部の中央に立つのはゴシック期らしく聖母子像。その左右の柱にはパウロと洗者ヨハネ。こんな風に両出入口まで十二使徒の像が立っている。
内陣巡る尖頭アーケード形の障壁。目の前にぶら下がっているのは吊り香炉。
午前中なら後陣からもっと光が差し込み、ステンドグラスも鮮やかだっただろう。
内陣を出て周歩廊へ。
小礼拝室の後陣のように放射状のリブがある。
複合柱にも入念な彩色が施される。バックはキリスト伝
アルビジョワ十字軍の勝利
ステンドグラスの一つを撮影したら後補のものだった🤔
ダビデ像
内陣東端の外側中央はシメオン、両脇の柱にはザカリアとヤコブ
ある小礼拝室には、尖頭アーチを形作る木型や
巨大聖堂の雛型
その反対側に回ると建築の様子が再現されていて興味深かった。尖頭交差ヴォールトを造る様子はわからなかったが、仏南西部のゴシック様式である扶壁が建造されていく段階が示されている。
南通路は先が通行止め。
外に出て別方向から後陣を眺める。
ガーゴイユが気になる。
犬でもライオンでもない怪獣の下に人頭があった。ロマネスク様式のモディヨン(軒下飾り)の名残かな。
別方向から。尖頭アーケードは補修を受けているようだが、それを支えていたのはやはり人頭だったらしい。
この下がプチ・トランの発着場になっている。
『中世の街角で』は、喘ぎ喘ぎ、355段を上って大聖堂の鐘楼の上に出れば、晴れた空にタルン川が深いエメラルド色に光り、向こう岸の連なる赤屋根が、目に鮮やかであった。
いやそれ以上に眼下には、異名「赤のアルビ」にふさわしく、旧市街の赤屋根が美しく寄り合い重なり合って、狭い露地に押し合いへし合いしている。その一画にはトゥールーズ・ロートレックの成果もあり、大聖堂に隣接する13世紀の司教館、ベルビー宮殿は、ロートレックの美術館で名高い。町全体が、歴史を通して生きる文化そのものであるという。
その鐘楼に登ってみたいと思って事前に調べたがガイド付きツアーもなさそうで、現地で確認することにした。そして、やはり現在では登ることはできないとのことだった。
天空のコルド(コルドシュルシエル)2← →アルビ ロートレック美術館
関連項目
アルビ タルン川クルーズと旧市街
アルビで朝散歩1 目覚める街
参考文献
「中世の街角で」 木村尚三郎 1989年 グラフィック社
「中世美の様式下 ロマネスク・ゴシック美術」 オフィス・ド・リーブル編 大高保二郎・岡崎文夫・安發和彰訳 1991年 連合出版
「Albi GUIDE TOURISTIQUE CONNAÎTRE」 DANIÈLE DEVYNCK 2011年 ÉDITIONS SUDOUEST