養源院は三十三間堂の東、昔のパークホテル、現ハイアットリージェンシー京都の南側にある。「養源院略由緒」によると、元和7(1621)年徳川秀忠が伏見城の遺構を移建したのが今の本堂ということだ。
宗達の象は見たいが、なかなか足が向かないのには理由がある。それは養源院が宗達の杉戸絵を所蔵しているのと同じくらいに有名なものがあるからだった。門の右側の立て札に大きく書かれている通り「血天井」が売りの寺なので、学生時代近くに住んでいたにも関わらず行くのが躊躇われた。
血天井というのは、同書によると、鳥井元忠以下の将士が城を死守し、最後に自刀した廊下の板の間を天井として其の霊を弔ったものということだ。
ずっと後年に鷹ケ峰の源光庵を拝観した時に、血天井というのが、戦で殺された人たちを供養するためにお寺の天井の材として使っていることを知ったので不気味さはなくなったものの、すすんで行きたいとも思わなかった。
今回は久々に近くまで来たので、勇気を出して拝観することにした。

すると、白い部分が盛り上がっているように見えてきた。もっと見ていると、右の象の腰に表された3本の線が、描かれたものではなく、白を描き残したのではないかと思えてきた。背景の板と同様に、その線にも木目が現れていて、きっとそうだと思うに至った。しかし、帰りに購入した絵葉書を見ると、黒っぽい色が所々残っていた。



養源院ではそのような環境で見ることになるので、宗達の杉戸絵は、絵葉書で見る方がよくわかる。このように並べてみると、白い色が一番よく残り、輪郭線が一番残りにくいものが使われているように見える。
私は勝手に輪郭線は黒色で、墨で描かれている。墨はよく残るもののはずなのに、消えてしまうのはおかしいのではないかと考えたのだが、これが間違っているのだろうか?
多少知識のある人物に聞いてみると、紙に描くように墨を筆につけてそのまま描いたのではなく、膠でといて、板に描いたものが、返って剥落しやすかったのではないかということだ。
しかし、獅子の毛並みの部分には黒と思われる色が、細い金色の線(截金ではなく、金泥で描いたのだろうが)と共によく残っている。輪郭線は黒色ではなかったのだろうか?