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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2021年1月12日火曜日

信貴山朝護孫子寺は夜に


「信貴山縁起絵巻」という平安末期の絵巻物があるので、朝護孫子寺には一度は行ってみたいと思っていた。

法隆寺を後にして、藤ノ木古墳(6世紀後半)へ。
2007年に橿原考古学研究所附属博物館で開催された「藤ノ木古墳の全貌展」で副葬品などは見ていた。
その時の記事は関連項目に記しています。

久しぶりに車で来たので、法隆寺の近辺にあり、この日の宿泊地信貴山への途中にあるということで見学しようと思っていた。
秋の日は短く、太陽がどんどんと落ちていくなか、ナビの通りに車を走らせると、どんどんと住宅街の奥の狭い道に入って行く。到着すると広い公園のような敷地に横たわる円墳で、想像していたよりも墳丘が広かった。
左側にまわると横穴式石室の開口部が見えてきた。
本来なら秋の特別公開で、玄室内に入れる時期なのだが、コロナ感染拡大防止ということで今季は中止。羨道入口前の扉からガラス越しにのぞいた。内部は照明されているのだが、ガラスの結露がひどくて、石棺があるらしいくらいにしか見えなかった。撮影してみたが、ガラスの汚れと結露だけが写っていた😖

その後信貴山へ。
ちょっと食べ過ぎたかなという夕食の後、信貴山観光ホテルの人の案内で朝護孫子寺へ散策に。

開運橋を渡る。右前方にある出っ張りはバンジー・ジャンプ台で、1回1万円らしいです。女性の方が決断力があるのだそう😑
信貴山朝護孫子寺のホームページにある地図を見ながらどうぞ
灯籠が密に続いている。
何時まで照明されているのですか?
一晩中です。寅の刻、午前3時から5時までにお参りをする人たちのために照明は消しません

まもなく張り子の大虎が😮
大虎と本堂
聖徳太子が、物部守屋の討伐へ向かう途中、この山まで来ました。太子が戦勝祈願をすると、毘沙門天が現れました。その日が寅年、寅日、寅の刻だったので、寅の刻参りが生まれました
赤門はくぐったが、ピントの合わない写真しかなかった😅
灯籠は続いている。
馬に乗った聖徳太子像があったりして、

神木 榧の木 樹齢1500年
説明パネルは、今を去る1500年(西暦480)の昔、日本の国は氏族制度で蘇我一族と物部一族が政治の実権を握るため争っていた時代である。
時にこの地に一粒の榧の実から若芽が誕生したのである。それはこの榧の木であった。
それから100年後、蘇我馬子は仏教の普及に努力せんとしたが、物部守屋はこれに反対し双方の対立抗争はついに長く苦しい激戦となった。
この時、聖徳太子は守屋討伐のため自ら陣頭に立ってこの地に進み毘沙門天王を感得され、そのご加護で物部軍を降伏させ日本の仏教の栄える礎を築かれたのであるという。
ちょっと1500年前は古すぎるのでは🤔
鳥居には稲荷大明神とある。

灯籠の前に「毘沙門天王」の旗が並ぶ。

橋の続きに石段が続き、
成福院には行かずに右にそれ、
再び灯籠に囲まれた参道を歩いて行き、

本堂までやって来た。階段を上り詰めたところが、毘沙門天王を祀る本堂である。

本堂の回廊を通って行くと南面した舞台のようなところがあり、そこに毘沙門天王という扁額がかかっていた。
なんと、扁額の左右にはムカデが描かれている🙄 毘沙門天の使者なのだそう。
ムカデの彫り物も😲

東側の街の夜景が楽しめたが、それよりも、轟音をたてて近づいて来ては旋回して伊丹空港に向かう飛行機が、次々とやって来るのが見物だった。
もっと先まで行って眺める。上と下に飛行機の灯りが見えることもあって、上の方が通過すると、間もなく下の方が近づいてくるといった具合に、ひきりなしにやってくる。
9時になるとぴたりとなくなります
もっと大きく写したいが、手持ちなのでこの程度に写すのが精一杯😅

帰り道に、遠くの三重塔と巨大な地蔵菩薩が見えた😃


開運橋から信貴大橋と街を眺め、ホテルに帰りました。ゆっくり回って1時間のコース。腹ごなしにちょうど良かった😊


                →暗峠は信貴生駒スカイラインから

関連項目