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2026年4月10日金曜日

エスキシェヒル Eskişehir にも古いモスク


昼食後は旧市街の見学をした。 Google Earth より
③オドゥンパザル近代美術館 ④アトルハン手工芸品市場 ⑤クルシュンル・モスクと複合施設


バスで移動して③隈研吾氏設計のオドゥンパザル現代美術館 Odunpazarı Modern Museum (OMM) の前へ。写真はアタテュルク大通り Atatürk Blv. の北側から写したが、

右側通行なので、バスは遠回りして南側へ回ってくれて、お陰で他のオスマン朝時代の上階になるほど出っ張る三階建ての建物が、色調が異なり、最上階の中央の屋根が切妻になっていたりするのが見えた。

美術館の少し手前で下車してこの階段を上がって、美術館と青い建物の間のアリフベイ Arifbey Sk.  小路に入った。

狭い通りには二階建ての建物
が犇めくように並んでいる。

日本より早く咲いた藤の花


こういう色の方が落ち着いて暮らせそう。
トルコの国旗の三日月はイスラームを、星は自分たちが遊牧民だったことを忘れないようにという意味だそう。

なんとなく屋上に八角形の塔のようなものがあったりと異国情緒が感じられる。それはこの町にはクリミア・タタールの人たちが移住してきたからも。

パザロール Pazaroğlu Sk.小路に入ると濃いクリーム色の横長の建物があって、

それは④アトルハン・エル・サナトラル・チャルシュス Atlhan Sanatları Çar Şısı という歴史あるキャラバンサライの建物で、現在は手芸品などの商業施設になっている。

キャラバンサライの中庭には模型の荷馬車が置かれている。町が小さいので商業施設のハンも小さい。ブルサのコザハンの1/4くらいだろうか。
ここが集合場所となった。


ケマル・ゼイティノール Kemal Zeytinoğlu Cd. という広い通りに出ても色とりどりの町並みが続く。広い通りを渡って、

東側の狭い道に入ると土産物屋が並んでいたが、白っぽい建物が多くてほっとした。

その後狭い通りを右折左折して、

やがて⑤クルシュンル・モスクのミナレットが見えてきた。

ここからしか写せなかったミナレットのバルコニー下のムカルナス


俯瞰したモスクと複合施設 Google Earth より
❶正門 ❷シャドルヴァン ❸礼拝室入口 ❹ソンジェマアトイェリ ❺礼拝室 ❻ミナレット ❼ザーヴィエ(デルヴィッシュ達の宿泊所兼修道場) ❽タブハネ(旅行者を無料で短期間宿泊させる施設) ➒


❶北入口は、イスタンブール、カドゥルガ地区にあるソコルルメフメトパシャジャーミイの正面入口ほどは高低差はないものの、数段の石段があった(人で見えない)。

クルシュンル・モスクと複合施設 Kurşunlu Cami ve Külliyesi
İSLAM ANSİKLOPEDİSİのKurşunlu Külliyesiは、オドゥンパザル地区に位置するこの建造物は、ユスキュダル-パヤス街道沿いの街道沿いの複合施設の一つ。モスクの入口上部の碑文は、1515年の日付を示している。しかし、碑文にはスレイマン大帝の名前と、創設者であるムスタファ・パシャの宰相としての地位が記されている。チョバン・ムスタファ・パシャの寄進証書は1526年の日付。碑文の日付、表現、そして寄進証書の日付を考慮すると、この複合施設は1515-26年に建設されたと考えられる。
ミマール・シナンの前の主任建築家であるアジェム・アリの時代に建てられているので、アジェム・アリがこの複合施設の建築家でもあった可能性が示唆されているという。

❷シャドルヴァン(清めの泉亭)
同ページは、モスクの北側にある清めの泉亭は1960年代に建てられた。菱形の柱頭を持つ8本の大理石の柱に支えられた広い軒のある小さなドームで覆われているという。
菱形の柱頭というのは蓮の花を幾何学的に表現したものだろう。

❻ミナレットと❹ソンジェマアトイェリ(礼拝時刻に遅れてきた人が礼拝する場所)
同ホームページは、正方形の平面を持つ、単一ドームのモスクで、切石で造られている。モスクの北側には、五つの小ドームのある柱廊がある。ドームは、ムカルナス装飾の柱頭がのる6本の大理石の柱の上に立つ尖頭アーチのペンデンティブで支えられている。アーチは白と赤の石を交互に配しているという。

ここで解散となり、少ない時間ながら私はこのモスクを見学することにした。

❺礼拝室は単一ドーム

キブラ壁(メッカの方角)にミフラーブとミンバルがあるだけのシンプルな造り。


ドームは大きな2枚のムカルナスでできたスキンチで正方形平面から八角形へ移行し、そのまま円形を導いている。この辺りの装飾はについて同ページは、礼拝堂にはペンワーク装飾のみが施されており、最近修復されたという。

ミフラーブの外枠も修復されているが、その内側はオリジナル。
同ページは、多角形のニッチのミフラーブは、大理石を模して油絵で描かれているという。

緑の部分 は大理石を模した風合いを出している。
ムカルナスのヴォールトを持つミフラーブの角の部分の上には、メヴレヴィー教団の帽子があるという。ムカルナスの頂部がその帽子を表しているということか。

ムカルナスの外側には襞のある布で荘厳しているように描かれている。

ムカルナスの下にはカーテンの上飾り(スワッグ)のように描かれていて、たくさんの房がさがっている。

そして脇の面にカーテンと房飾りまで描く念の入れよう。
これを見ていて思い出したのはイスタンブールのハセキヒュレムスルタンジャーミイ(1539-50年ミマールスィナンが最初に造った複合施設、16世紀に礼拝室を追加)のミフラーブやミンバル(説教壇)に描かれた絵。

古典的な比率で建てられた説教壇は大理石でできているという。


時間が気になったのとミフラーブに見入っていたため、後方の女性用マッフイルは見損ねたが、同ページは、入口側にある木造の女性用マッフイルは後から追加されたと思われるという。
集合時間に何とか間に合い、バスでホテルへ。


エスキシェヒルの町 Google Earth より
①ポルスク川の橋で下車 ②昼食のレストラン ③オドゥンパザル近代美術館 ④アトルハン手工芸品市場 ⑤クルシュンル・モスクと複合施設 ⑥夕食のレストラン



夕食は再びバスでアイテンウスタグルメレストラン Ayten Usta Gurme Restoran へ。

端を渡ったら公園かと思ったら、灌漑用の池の向こうにレストランがあるのだった。


四人分のパンと前菜。


少しずつ取り分けた前菜(メゼ)と私が選んだパン、そして自家製アイラン(工業製品よりも美味しい)


続いて四角いパスタ入りのスープ(かなり食べた)とサラダ(今となっては赤いものが何だったか分からない)


メインのバラバン・キョフテ(エスキシェヒル風)で
下に細かく切ったパンが敷いてある。

デザートは Cennet Çamuru なるカダイフ




関連記事

参考サイト

参考にしたもの
説明パネル

2026年2月20日金曜日

アンカラ アウグストゥス神殿とモスク Augustus Tapınağı


ローマ時代の公衆浴場の後は、当時列柱道路で結ばれていたというアウグストゥス神殿に向かった。

説明パネルは、ガラティア時代にテクトサグ・ガラティア人によって支配された古代アンキュラは、東西の交易路に位置していた。ローマ時代には、その重要な立地条件とガラティア属州の首都としての地位により、アンキュラはさらなる発展を遂げた。1937-44年に行われた発掘調査では、宮殿や屋根付き浴場を含む壮麗なローマ時代の建造物群が発見された。
浴場とパレストラの東側には、古代アンキュラの聖域、アウグストゥス神殿の領域から続く列柱道路が続いているという。

アンカラの地図 Google Earth より
❶アナトリア文明博物館 ❷アスランハネジャミイAhi Şerafettin (Aslanhane) Camii ❸アスランハネ墓地 Aslanhane Camii Haziresi ❹アスランハネの墓廟 Ahi Şerafettin Türbesi ❺アンカラ城門と時計台 Ankara Kale Kapısı ve Saat Kulesi ❻アンカラ城 Ankara Kalesi ❼ローマ時代の公衆浴場跡 Ankara Roma Hamamı ve Antik Kenti ❽ アウグストゥス神殿 Augustus Tapınağı ❾ハジュバイラムモスクと廟 Hacı Bayram-ı Velî Camii ➓アタテュルク廟 Anıtkabir, Atatürk ve Mozole


アウグストゥス神殿付近の地図 Google Earth より
A:アウグストゥス神殿 B:ハジュバイラムモスク C:ハジュバイラム廟 D:ローマ時代の半円形劇場跡 Antik Roma Tiyatrosu

まず見えたのがB:モスクのミナレット


もう少し近づくと、その隣に修復中と思われるA:アウグストゥス神殿の遺構が姿を現した。というよりも、何故古代の神殿の近くにモスクを建てたのだろう。



アウグストゥス神殿
説明パネルは、この神殿は、壁の内側にラテン語、外側にギリシア語で刻まれた独特の碑文によってその重要性を増している。この碑文には、初代ローマ皇帝アウグストゥスの偉業が記されている。建設はおそらくヘレニズム時代に始まり、地元の神々であるメンとキュベレの聖域として計画されたと考えられている。しかし、アウグストゥス帝の治世(前27-後14)にはガラティアがローマ帝国の属州となり、神殿は皇帝の崇拝の場として利用されたという。
神殿本体は幅が狭いが、かつては外縁に列柱があった。

外観復元図(説明パネルより)
説明パネルは、神殿は南西から北東に面しており、その大きさは36m×54.82m。コリント式で擬似双翅形平面を呈している。高さ2mの基壇上に建てられ、8段の階段がある。柱は狭い側に8本、広い側に15本。さらに、前室(プロナオス)の前に4本、後室(オピストドモス)にはアンティス型の柱が2本。神殿の南側と南東側の減築部分は、おそらく列柱(ペリスタシス)の基礎壁であり、基壇(クレピドマ)周囲の階段は未完成のままという。
柱頭は渦巻きのあるイオニア式。

平面図(説明パネルより)
ⓐ前室(プロナオス)ⓑ聖室(ケラ) ⓒ後室(オピストドモス) ⓓ列柱(ペリスタシス) ⓔ↑図 基壇(クレピドマ)
現存するのは黒い部分


❶プロナオス上部
説明パネルは、聖室(ケラ)への入口は、前室(プロナオス)の装飾のある扉枠を持つ大きな門から。ケラは礼拝彫刻のある暗い部屋で、司祭だけが入室できいる。地下室は現在残っている階より1m高くなっており、この部屋に登るには 4段の階段があったことがわかっているという。

外周の柱廊
その下の赤っぽい石積みの遺構はアウグストゥス神殿よりも前の時代のもの?

入口側の二重の柱列

ここにも古い遺構

ローマ神殿の壁面に窓が三つあるとは。

壁の途中に凸帯が通っていて、卍繋文らしきものが浮彫されている。

6世紀にビザンチン帝国によって教会に改築された。主室の床は狭くなり、主室とオピストドモスの間の壁は取り除かれた。また、背面にはアプスが増築され、ケラの南東の壁に窓用の開口部が 三つ追加されたという。
ローマ神殿には窓はなかった。

窓の格子は壁を透彫にしたみたい。


❸オピストドモスと後に付け足された遺構

白い石材と赤い石が交互に積み上げられたアルマシュクの壁。どちらも柔らかそうで凝灰岩かも。

後方から見たアルマシュクの壁

反対側より

壁体上部にはアカンサスの蔓草文が続いていたような気配。


北側にはイスラーム関係の書店や数珠の店などが並んでいた。

女性用の礼拝室は地下にあるというこで東側の階段を下りていったが、礼拝室の手前にあったシャドルバン(お祈りの前に身を清める場所)の奥にあったトイレを使わせていただいて戻っているとエスカレータがあったので、そのまま地上に出てしまった。
モスク北側の広場は整備されていて、西側には坂下から上がるエスカレータ、アウグストゥス神殿の北側のエスカレータは下階の女性用のシャドルバンに行くためのもの。
礼拝時刻に重なったため地上階のモスク内には入れなかったが、他にモスクの写真がないのは、20世紀の修復のために、私には新し過ぎて撮影する気になれなかったから。


これは一体・・・

平レンガと白い石材を交互に積んだ壁面を切石の外壁で覆ったよう。

少し離れたところにも不明の建造物の残骸が。


B:ハジュバイラムジャーミイの側面
説明パネルは、1427-1428年には、神殿の北西の角にハジュ・バイラム・モスクが建てられた。初期の文献によると、寺院のオピストドモス(後陣)にイーワーン(開放されいる部屋)が増築され、寺院の壁の落書きから、ハジュ・バイラム・モスクの建設後、寺院がメドレセ(イスラム教の神学校)として使用されていることがわかる。エヴリヤ・チェレビは、1640年頃にはキュリイェに約300人の修道僧がいいると伝えている。モスクは長年にわたり何度も再建されているという。
建設時期はエディルネのムラディエジャーミイと同じ頃だが外観はかなり異なる。

続いてC:ハジュバイラム廟
正方形、八角形で円形を導きドームを架構したテュルベ
右側が出入口で、靴を脱いで入る。

内側はペンデンティブだった。一番大きいのがハジュバイラムの棺


この高台のアウグストゥス神殿側から❻アンカラ城とその城壁を望む。

城壁は何重にも巡らしたようだ。

その斜め右下にはⓓローマ時代の半円形劇場(復元)もあった。




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参考にしたもの
現地説明パネル