お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2009年6月5日金曜日
切手の石仏は下諏訪に
ふと見た封筒の切手に新羅の石仏のようなものが描かれていた。慶州北部にある掘仏寺(クルプルサ 굴불사)の四面石仏(サミョンソップル)や南山の磨崖釈迦如来坐像が頭に浮かんだ。
しかし切手には「万治の石仏」と書いてある。そんな名前が新羅にあるのだろうか。
不思議なので調べてみると、新羅仏ではなく日本のもので、しかも諏訪湖の近く、春宮付近にあることがわかった。
大きな地図で見る
小さな橋を渡ると案内と旗があった。 階段の向こうにせ「万治の石仏」と彫られた石碑があり、その隣の立て札に、
峡の田に座して石仏のどかなり 正人
という俳句があった。田んぼの中に石仏?
川沿いに歩いていくと灯籠と「万治の石仏」という旗が左右にあり、更に歩くと肩くらいまである畑の向こうに石仏が見えてきた。階段があったので、ちょっと入り込んで写す。その先に下諏訪町作成の説明板があった。
万治の石仏と伝説
南無阿弥陀仏万治3年(1660)11月1日
願主明誉浄光心誉廣春
伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時この石を材利用にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れををなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。尚、この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっとているという。
江戸初期のものだったのか。人の背丈くらいだがどっしりと重量感がある。新羅仏とは時代が全然違うし、像自体も違うが、親しみの持てる点では共通している。顔は飛鳥の大仏風かも。 四面石仏と異なり、右側面にも背面にも何も彫られていない。
左側面にも何も彫られていない。頭部が別の石を載せているのがよくわかる。このあたりも新羅の石仏に似ているなあ。石仏の周りがまるいのは、願い事を心で唱えながら時計回りに三周するためらしい。
山の斜面の狭い土地に切り開かれた田んぼは田植えが終わったばかりだった。
新羅の磨崖仏についてはこちらをどうぞ
2日目-8 掘仏寺(クルプルサ 굴불사)の四面石仏(サミョンソップル)を見に
3日目-6 磨崖釈迦如来坐像はあった