お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年2月6日火曜日

トプカプ宮殿 ハーレム


トプカプ宮殿の近くでバスを降りて、周壁に沿って門へ。監視塔と赤いレンガを円形に組んだ銃眼が所々にあるくらい。

入口が見えてきた。 その前にあるのがアフメット三世の泉亭。

アフメット三世(在位1703-30)の泉亭は
トルコ式ロココ建築の秀作と言われている。

その隣にはアヤソフィア。後陣の正面がこんなところから見えるとは。
『トルコ・イスラム建築』は、四本の大支柱(巨大なピア)を立て、その上に直径約31mの主ドームを「ペンデンティブ」を介して据えている。建物の内側に現れるペンデンティブの球面三角形の後ろには充填材が詰められ、建物の外側から見ると平面が正方形の背の高い直方体の上にドームの半球が置かれたように見える。
ペンデンティブは6世紀にアルメニアで発明されたという。このドーム架構技法を直ちに用い、ローマで実用化されていたコンクリート技法と融合させて、前例のない構造と規模のアヤ・ソフィアの主ドームが実現されたという。
アヤソフィアにもローマン・コンクリートが使われていたという。
反対側は、ほかにもいろいろな構造物があるので分かりにくかったが、後陣側からはよく見える。
建築については全くわからないのだが、ペンデンティブの背後に充填剤が詰められていると、その重みが負担にならなかったのだろうか。

これはただの門


門を抜けると、天気が良いので新市街やマルマラ海が見える。そうそう、ここがイスタンブールの七つの丘の内、第一の丘だった。

左手にはアヤイレーネ。後日大雨の日に見学した。


トプカプ宮殿平面図
① 中門(儀礼の門) ② 第二の中庭 ③ 厨房 ④ スルタンの馬屋 ⑤ ハーレム入口 ⑥ 御前会議の間 ⑦ 元宝物庫 ⑧ 幸福の門 (白人宦官の門) ⑨ 謁見室 ⑩ アフメット三世の図書館 ⑪ ハーレム出口 ⑫ アーラルジャーミイ(Ağalar Camii) ⑬ 元小姓の学校 ⑭ メフメット二世の建造物 ⑮ 第三の中庭 ⑯ 聖遺物室 ⑰ リワン・キョシュキュ ⑱ バーダット・キョシュキュ ⑲ イフタリエ(小さい東屋) ⑳ ソファ・キョシュキュ ㉑ 第四の中庭 ㉒ メジディエ・キョシュキュ ㉓ ハーレム
トプカプ宮殿平面図 トルコ・イスラム建築紀行より


① 中門(皇帝の門、バービ・ヒュマユン) 
『望遠郷』は、1478年に建てられ 当初は二階建てであったが、二階の部分はアブデュル・アジーズ1世が1867年に門を大理石張りにした際に取り壊された。入口の部屋には、衛兵が常時50人ほど詰めていたという。
混雑しているのはセキュリティーチェックがあるから。

石落とし

狭い門から入ると、かなりの数のセキュリティーの機械があるのに、通り抜けるのには結構な時間がかかった。
内側もアブデュル・アジーズ1世が改装したのだろう。

② 第二の中庭は、植え込みで道が4本に分かれている。アイシャさんは一番左の斜めの道へ進んでいく。木立の間から小さな①車の門(ハーレム入口)が見えている。


ハーレム平面図(記憶と文献より部屋や通路の場所を判断したので、間違いもあります)
① 車の門 ② 黒人宦官の守衛室 ③ 黒人宦官の中庭 ④ 皇子の学校 ⑤ 黒人宦官の居住区 ⑥ 建物の中の通路 ⑦ 配膳室 ⑧ オダリスクの中庭 ⑨ ヴァーリデ・スルタン(母后)の居間 ⑩ スルタンの浴室 ⑪ スルタンの広間 ⑫ ムラート三世の間への控えの間 ⑬ ムラート三世の間 ⑭ アフメット一世の図書室 ⑮ フルーツの間またはアフメット三世(在位1703-30)の食事室 ⑯ カフェス ⑰寵姫たちの中庭 ⑱ 寵姫たちの個室 ⑲ 黄金の道 ⑳ ヴァーリデ・スルタンの中庭 ㉑ 鳥籠の門(ハーレムの出口)
トプカプ宮殿ハーレム平面図 トルコ・イスラム建築紀行より


ハーレムの位置はこのディワンの塔があるので、遠くからでもわかる。上手に写したので、①車の門がほぼ写っていない。
『イスタンブール歴史散歩』は、車の門(アラパラール・カブス)はハーレムの女たちが外出を許されたとき、牛車に乗り込んだ門であるという。


① 車の門からドームのある小さな部屋に入る。
『望遠郷』は、ハレムの入口は第2庭園の御車の門である。門の上には建設年の1588年が刻まれているが、実際には1665年に焼失し、ほとんどの部分が建て直されているという。

また、『図説イスタンブール歴史散歩』は、メフメットⅡ世が建てた当時の宮殿にはハーレムはなかった。その後の何代かのスルタンたちも妻妾は旧宮殿(エスキ・サライ)に住まわせていた。
シュレイマン大帝が初めて寵妃ロクセラーナをトプカプ宮殿に入れたとされているが、当時は木造のパヴィリオンに住まわせていたらしい。
現在のハーレムはムラ卜Ⅲ世(在位1574-95)の時代に完成し、メフメットⅣ世(1648-87)とオスマンⅢ世(1754-57)の時代に増改築が行われているという。
このロクセラーナがヒュッレムと呼ばれる女性である。ムラート三世はシュレイマン大帝の孫
『オスマン帝国外伝』(原題は Muhteşem Yüzyıl、壮麗なる世紀 2011-14)を長々と見ていたので、名前で顔が浮かぶ。

入って見上げると焼成レンガを持ち送った小さなドームの小さな部屋。
女性たちが牛車を待つ部屋だったのだろう。


② 黒人宦官の守衛室 
いきなりほぼタイル張りの部屋

95年に行った時は続く③黒人宦官の中庭の上部のタイルを写していた。


一見大きな花のようで、アラビア文字のカリグラフィーが描き込まれている。


④ 新たに公開された部屋
ここもまたほぼタイル張りだが、先ほどの部屋とは色調が異なる。

それは制作した時代の違いだろう。
黄色の釉薬は17世紀前半にイスファハーンのマスジェデ・イマームに使われているが、それが最初かどうかは分からない。
黄色は遠征したときのテントの配置?

ミフラーブ


そこにはメッカ(マッカ)のカーバ神殿を中心とした絵があった。ミフラーブにこんな絵があるのは珍しい。


これが何を表しているのか不明。



部屋から出て③黒人宦官の中庭に戻ると左手には柱廊があり、

タイル貼りの壁面に金色の文字盤が嵌め込まれていた。

⑤ 黒人宦官の居住区
『望遠郷』は、ポーチの後ろにある、タイルで覆われた建物は、1668-69年に建設された黒人宦官の宿舎である。彼らの多くはヌビアの出身で、エジプト総督から奴隷として送られて来た。彼らはハレムの女性たちの日常の世話やハレムと外部との交渉をつかさどっていた。この四階建ての宿舎には600人ほどの宦官が寝泊まりしていたという。

中は幾つかに区切られた部屋になっている。


③黒人宦官の中庭は石の通路の間に小石を敷き詰めた、モザイクになっている道が続いている。ここまで入口から一直線だった。


次の建物の外壁には、赤い色のない最盛期を過ぎた、イズニークタイルの植物文様のパネル。

そして糸杉とヒヤシンス、その下に赤いチューリップというパネル。


⑥ 建物の中の通路
ハーレムを仕切る黒人宦官がいた。
『望遠郷』は、時代が下がり ハレムの政治への影響力が増すと、黒人宦官長も強い権力を持つようになった。宦官長は「幸福の家の長」通称を「乙女たちの長」と呼ばれていたという。

屋根の明かり取り

左折して⑦配膳室へ

そこは細長い通路で、左側の大理石板にはハーレムの外から持ち込まれた食事が並べられ、それぞれの部屋に運ばれたという。
アイシャさんが指差しているのは銅製のお盆。


通路から左手に中庭(立入禁止)


⑧ オダリスクの中庭
『望遠郷』は、長い通路を行くと、ハレムの女奴隷の中庭を経て母后の館の中庭に出るという。

その外側の壁面には風景画が描かれていた。

これは窓の外を見ている趣向になっていて、カーテンが風に翻っている。まるでポンペイ壁画のイリュージョンのようだが、ポンペイ壁画にはカーテンまで描かれなかった。



⑨ ヴァリデスルタン(母后)の間
『望遠郷』は、母后の館は中庭の西にある二階建ての建物である。中庭の南西の角の回廊を行くと、スルタンの母后の客間がある。母后の私室として、もうひとつの接見室、中庭、居間、礼拝室、二階建てのスイートルームがあるという。
とても落ち着いた部屋で、ソファが奥に並んで、窓からの光は通路を挟んでいるので直射日光が入らず、明るさも穏やか。
ちなみにスレイマン大帝の妃ヒュッレムは、ドラマの中では子供たちに「ヴァーリデ」と呼ばれていたが、スレイマンより先に亡くなったので、息子の母后としては権勢は振るえなかった。もっともヒュッレムの時代は、こんなに立派なハーレムの建物はなく、木造の屋敷だったのだが。

天井は木製で、斜めの格天井で、片側に一本、木の円柱が立っている。壁面にはタイル画の間に壁龕が三つ。
イスファハーンのアリー・カプー宮殿の最上階、アッバース2世(在位1642-66年、アッバース1世のひ孫)が造ったという陶磁器の間のイーワーンの装飾に似ている。
宮殿では壁龕にはものを入れることはなかっただろうが、ここでは物を入れる棚の役目があったのでは。

ところが、右手の天井は全く赴きが違うタイル貼りのドームになっていた。

壁面のフレスコ画も、かなり時代の下がる室内装飾である。きっとソファの間よりも後の時代に改変されたのだろう。

その下にはタイル貼りの暖炉と、タイルの壁面はソファの間と同じ時代のものだろう。

扉の螺鈿と鼈甲の細工も見事。

鼈甲や螺鈿という素材もさることながら、イスラームらしい幾何学文様も素晴らしい。
二十四角形という円に近い形を、隣り合った六つの文様と部分的に共有しながら構成されている。その中央には六弁花。


通路の右には鉄格子


⑩ スルタンの浴室
説明パネルは、16世紀末にミマール・シナンによって建てられたこの浴場は、18世紀に当時の流行であったロココ様式で改修され、現在の形になった。ローマの浴場と同様に、浴場は冷水 (脱衣所)、温水、温水の三つ部屋で構成されており、大理石の床の下にある暖房システムによって加熱される。このシステムはスルタンの広間続いている。
スルタンが個人的に体を洗ったエリアは、内側から施錠できる金メッキの青銅の網目で保護されていた。
ドームやアーチ型天井にある「象の目」と呼ばれるの窓から光が反射する光、金メッキの蛇口、大理石の洗面器など、安全性と優雅さが共存するこの浴場には、宮殿特有の入浴スタイルと伝統の名残が残っているという。
ドーム天井にはたくさんの明かり取りの窓がある。

大量のお湯を沸かすには沢山の燃料が要るため、ハマム(公衆浴場)はローマ式の蒸し風呂だが、スルタンはこの湯船でゆっくりくつろいだのだろうか。

先ほどの通路の鉄格子からこちらを覗いている人あり。
『イスタンブール歴史散歩』は、理石造りのスルタンの浴室の美しい鉄格子は、入浴中のスルタンを刺客から守るためであるという。

そして六角形が並ぶ明かり取りの下には

スルタンのトイレ
トルコ式で、脇の水道から器に水を汲み流すという水洗式のものがすでにあったらしい。


⑪ スルタンの広間
『望遠鏡』は、スルタンの部屋、ヒュンカル・オダスには大きなアーチがあり、部屋をふたつに分けている。大きいほうにはドームがあるという。

同書は、この素晴らしい部屋は、スィナンの設計により、ムラト3世の時代に建てられたものと思われる。建物の上部はそのまま残されているが、下部はオスマン3世(在位1754-57)によってバロック風の装飾が施された。南東の角の小さな部屋は、スルタンの私室である。スルタンの部屋の北東の戸は暖炉の間に通じているという。
今回の旅では、ミマールスィナンの建てた物を見たいと思ってきたのだが、後の時代の改変が残念。

四つのペンデンティブがドームの荷重を受けているが、アーチは半円ではなく尖頭。

同書は、
小さいほうは1段高くなっており、宮廷楽師の舞台として使われていたという。

その階上には小さなドームがある。

『イスタンブール歴史散歩』は、玉座のわきのヴェネツィアン・グラスの鏡の裏には、緊急時にスルタンが避難する隠し扉があったという。

部屋はまだ続く。



⑫ ムラート三世の間への控えの間
『望遠郷』は、 玉座の門を入ると暖炉の間がある。タイルで覆われた見事な部屋で、青銅の立派な暖炉が置いてある。右手の戸は正妻の館に通じており、左手の戸は噴水の間に通じている。この美しい噴水は1665年につくられた。これらの部屋は、ハレムとスルタンの館の間に位置する控えの間であったという。

途中の通路もタイル貼り。でも絶えず人が往来してタイルだけ写すことはできなかった。

幸い『トルコ・イスラム建築紀行』に図版があった。
トプカプ宮殿ハーレム ムラート三世の間への控えの間 トルコ・イスラム建築紀行より


⑬ ムラート三世の間 ここはミマールスィナンが造った。
『望遠鏡』は、この部屋には建設当時のままの素晴らしい装飾が残っている。壁はイズニックのタイルで覆われている。満開のプラムの木の絵柄が青銅の暖炉を取り囲み、見事である。壁の上部には、カリグラフィーの帯状装飾が施され、これも素晴らしいという。
トプカプ宮殿ハーレム ムラート三世の間入口脇の装飾タイル トルコ・イスラム建築紀行より

『イスタンブール歴史散歩』は、三層になった大理石の泉は、水音で涼感を誘うと同時に、会話の盗聴を防ぐ目的もあったという。
その大理石の泉水が黒っぽく写っていまって残念。

昔の写真の方がよく見える。

脇の棚

これがイズニークタイル最盛期のトマトの赤と呼ばれる色。下部に赤い釉薬が盛り上がっているのが分かる。
この頃は黄色い釉薬はまだなかった。黄色い釉薬が使われたタイルは時代が下がったもの。

説明パネルは、オスマン帝国のバロック様式の二つの天蓋玉座は、木に金メッキが施されており、18 世紀のものという。


⑭ アフメット一世の図書室(95年のみ見学)  
アフメット一世は、スルタンアフメットジャーミィ(ブルーモスク)を建てた皇帝。              
『望遠鏡』は、ムラト三世の部屋の隣にアフメット一世の部屋がある。この部屋は1608年に図書館兼居室として建てられた。この部屋は宮殿の中でも快適な部屋のひとつで、大理石の棚やべっこうや螺鈿の象眼が施された家具が配置され、緑や青のタイルで覆われた壁は、ムラト三世の部屋に匹敵する美しさである。左右対称の窓はマルマラ海、ボスポラス海峡、金角湾に面しており、部屋には美しい光が差し込んでいるという。       
小さなドーム天井になっている。これしか写真がないとは。


⑮ フルーツの間または
アフメット三世(在位1703-30)の食事室(95年のみ見学) 
『望遠郷』は、この部屋を見事に飾っている花の絵は、だまし絵の方式で描れた窪みの中に置かれた シンプルなものではあるが、それ無数に配置することにより、幾何学的な模様を構成しているという。


その後⑯カフェスを通り過ぎて、通路に出て左手へ。

そこはハーレムにしては広い⑰寵姫たちの中庭だった。右手の建物は⑱寵姫たちの個室。



左手に回ると、普段はハーレムから出られない女性たちにとって眺めることのできる唯一の外界が広がっていた。見えているのは新市街のガラタ塔。ガラタ塔は14世紀にジェノヴァ人によって建造されているので、ハーレムができた頃にはすでに存在していた。
以前にガラタ塔から眺めたトプカプ宮殿はこちら


⑯ カフェス
『イスタンブール歴史散歩』は、ハーレム内には鳥籠(カフェス)と呼ばれるいくつかの部屋があった。スルタンが死に、その長男が皇位を継ぐと、その弟たちは鳥籠に幽閉されたのである。
バヤジット一世以後、鳥籠制度ができるまでは、新しいスルタンが即位すると、その弟たちはただちに殺害されるのがオスマンの掟だったという。
実は、そんな部屋だとは知らずに美しいタイルを写していた。
                       

再び通路へ。

⑲ 黄金の道
『望遠郷』は、見学コースの最後に、46mもある薄暗い廊下を通る。ここが黄金の道(アルトゥン・ヨル)である。スルタンは遠征から帰ると、この廊下で女たちに金貨を投げ与えたという。鳥籠の門(クシュハネ・カプス)から明るい戸外に出る。ハーレムの住人たちの食事は、この門から運び込まれていた。1651年、母后(ヴァリデ)キョセムはここで黒人宦官長に惨殺されたという。

明かり取りの天窓は高いところにあるだけ。


ハーレムで階段を初めて見た。


通路のドアが開いていたので、


覗いてみると⑳母后の中庭だった。

その続き


再び通路を通って、


㉑ 鳥籠の門
ハーレムの出口から外界へ



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参考文献
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同胞舎出版 1994年 同胞舎出版
「図説イスタンブール歴史散歩」 鈴木菫著・大村次郷写真 1993年 河出書房新社