咸陽を出発するとすぐに高速道路で郊外へ。この高速はG70といい、福建省から寧夏回族自治区の銀川までをつないでいるのだとか。
標高は600-700m、小麦と米の二毛作ができる土地だという。
50㎞ほどで双丘のようなものが遠くに見え始めた。その上にそれぞれに建物がある。
咸陽の近くにある皇帝陵は前漢時代のものが多く、唐代のものは咸陽や西安からは遠くにあるということは知っていたが、何と言っても広大な中国、どれくらい離れているのか想像もつかなかった。
道路標識にも「乾陵」とあった。でも、2つの山の上にあんな建物はあったかな🧐
ところが、右の大きな山が合葬墓のある方で、2つの峰の間から広く長~い参道(司馬道)が続いているということだった。
じきに黄土層が現れた。果樹畑が多いのだそう。
PAにいた果物売のおっちゃん。1斤(500g)いくらという値段。
左端のキウイと柿の間の果物は杏と李の雑種。何故買ってみなかったのだろう😥
本格的に黄土高原に入って、頂上まで段々畑の山が右にも左にも現れては消えていく。
高速道を走っているのに、別の高速道の建設現場をあちこちで見た。
彬県(ひんけん)に入ると歓迎のモニュメント
高速道を走っているのに、別の高速道の建設現場をあちこちで見た。
佐藤悦成氏の寺院遺蹟についての調査報告の「中国仏教と破仏」では、西安より涇河に沿って約120㎞北西に進むと彬県に至る。県城の西約10㎞の涇河南岸に大仏寺は位置している。寺前の道は西安から彬県、長武県を経て甘粛省に入り平涼に至る、いわゆるシルクロードのルートでもある。西安から天水を経て蘭州に至る渭河沿いのルートとは蘭州で合流することになるが、両ルートの歴史的な状況は、北のルートである大仏寺を経由する涇河沿いの道は福道として利用されていたと考えられる。それは、平涼から蘭州へは向かわず、寧夏回族自治区のの固原に至り、さらに清水河に沿って中寧から武威に向かう道にも通じているところから、政治的・社会的状況に応じて幾本ものルートが設定されていたといえる。
大仏寺き涇河沿いに点在する石窟群の中では最も西安に近く、西域への入口に位置するといってもよい。涇川の南・北石窟寺、慶陽石窟、固原の須弥山石窟へと連なる最初の石窟寺であるという。
何度も建て直されたようだが、大棟の両端が鴟尾になり、反りと装飾の少ないすっきりしたこの門は気に入った。
門をぐると狛犬というよりも、中国古来の石獣が左右から迎えてくれた。
いつの時代のものだろう。
正面の山腹には楼閣がある。
いつの時代のものだろう。
売店で買った『彬縣大佛寺』は、石窟群は貞観2年(628)、唐の李世民の時代に建造が始まった。それは、太宗の指揮によって、浅水原(正しくは土偏に原)の戦いで亡くなった戦士たちを弔うために建てた応福寺で、北宋仁宗皇帝が母のために慶寿寺と改称したが、窟内に大仏が安置されていることから、一般に大仏寺と呼ばれているという。
また「中国仏教と破仏」は、大仏寺は貞観2年(628)に尉遅敬徳により創建され、石窟は760年頃に開窟されたといわれるから、当初は本尊としての大仏窟と殿楼のみであり、千仏・羅漢の両洞はなかったことになる。寺前の道路下は涇河の河川敷であり、河岸の岩山を穿って大仏殿は建立されている。道路脇の大仏寺文物管理所から殿楼へ昇れば、正面右に羅漢洞、左に千仏洞が位置し、両窟内とも多数の仏・菩薩・神将・天人が雕られている。羅漢洞は四窟構成であり、千仏洞は三窟により成立している。両窟の諸像とも破仏の影響を受けて、頭部ほかいずれかの部位を欠いているという。
大仏窟は初唐期(608-712)、千仏洞・羅漢洞は盛唐期(712-765)も終わりに近い頃に開鑿された。
楼閣は3、4回建て直され、現在の建物は清時代のものという。
左向こうに急な石段があり、登っていくと千仏洞が目の前に。
『彬縣大佛寺』は、石窟は清凉山に開鑿され、北には涇河が流れている。石窟の前には五層の楼閣がそびえる。400mの高さの崖に、130の石洞石閣、446の祠堂、1980もの大小の仏像が石に刻まれているという。
左には修行窟群が並んでいた。現地ガイドの丁さんによると、僧窟は内部でつながっていたという。
佐藤悦成氏の寺院遺蹟についての調査報告の「中国仏教と破仏」は、「明鏡台」の額が掲げられた中央の大仏殿は4層構造となっており、基壇からは大仏の座面に入ることができる。二層には羅漢・千仏両洞、三層では大仏の顔正面を配し、四層では頭上から見下ろすことができる。大仏(阿弥陀仏)の顔は涇河に向けられ、胸前に上げた右手の薬指は第二関節から僅かに前に曲げられて、涇河の水を鎮めているといわれる。
大仏窟は幅・高さとも約30mあり、奥行きも最深部では25mに及ぶ半円形となっている。一仏二菩薩の形態を採り、大仏は高さ24mに及ぶ。右に観音菩薩、左に勢至菩薩を配し、周辺の壁面には坐仏・飛天を多数配してある。大仏の後背(左肩部)には造像記が刻まれているという。
塗り直される以前にペリオが撮影していたおかげで、初唐期の雰囲気を伺うことができる。彩色前と後では、顔の形も若干違っているように見える。元のままの方が良い顔に見える😎
初唐期の仏像にしては太めだけれど。
「中国仏教と破仏」は、大仏も会昌の破仏により一部が破壊されて修復され、その結果泥塑となっている。しかし、大仏像の全身は豊満で面相は威厳に満ちており、唐代の特質をよく残している。
当寺の造営を指揮した尉遅敬徳の存在が、この大仏と西域を結んでいるという。
丁さんによると掌の長さが5mもあるのだそう。
やっぱり顔だけ塗り直されている。小さな壁龕には千仏や仏三尊像などの小さな壁龕が密に並んでいる。
右脇侍の勢至菩薩
できるだけカメラを突きだして写すと、柔和な笑みを浮かべた菩薩
『彬縣大佛寺』には入口側からでは絶対に見られない北壁の図版があった。
上部には規則正しく彫られた千仏と左上には仏三尊像があるが、その上の壁には涇河の氾濫により摩耗した浮彫が微かに残っているので、おそらく千仏と仏三尊像は後補だろう。
できるだけカメラを突きだして写すと、柔和な笑みを浮かべた菩薩
『彬縣大佛寺』には入口側からでは絶対に見られない北壁の図版があった。
彬県大仏寺大仏洞北壁部分 |
上部には規則正しく彫られた千仏と左上には仏三尊像があるが、その上の壁には涇河の氾濫により摩耗した浮彫が微かに残っているので、おそらく千仏と仏三尊像は後補だろう。
その下には大小の仏三尊像が並ぶ。大きい方は水中から出た蓮の茎が3つに分岐する。下から見上げているので、蓮弁を彫り込んだ痕跡のある蓮台にかなりの厚みがあることが分かる。
左側は中央に菩薩半跏像?主尊から見て右には如来?それとも僧?左は不明。
右側は通肩の如来倚像、右は跪く脇侍、左は如来または僧。
このような如来とも僧とも見分けられない三尊像は見たことがない。ひょっとして供養者?
関連項目
佐藤悦成氏の寺院遺蹟についての調査報告
参考文献
「彬縣大佛寺」 彬縣大佛寺石窟博物館