お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2019年12月12日木曜日

ポンペイ エルコラーノ門周辺


噴水のある家を柵越しに見た後は、コンソラーレ通り(Via Consolare)をエルコラーノ門(Porta di Ercolano)に向かって進む。

㉑サッルスティオの家 ㉒エルコラーノ門 ㉓マイアの墓 ㉔イスタキディの墓 ㉕花綱を高浮彫した墓 ㉖モザイク円柱の屋敷の墓 ㉗モザイク円柱のある家 ㉘キケロの別荘前の店舗群 ㉙店舗群 ㉚みこアッレイア・デチミッラが建てた石灰華の高い墓 ㉛ウンブリキウス・スキアウルスの墓 ㉜ナエウォレイア・テュケの墓 ㉝ディオメデの家

㉑サッルスティオの家(Casa di Sallustio) 
前回は柵の出入口が開いていたが、中に入っている時間がないのでわずかな写真を撮っただけだったので、もし今回開いていたら、迷わず中に入ってみようと思っていた。
ところが、今回は鍵がかかっていた。
柵の間から撮影すると、修復の途中のようだった。
『完全復元2000年前の古代都市ポンペイ』は、発掘当時は、第1様式の格調高い装飾と居住空間の広さで大きな話題になった。増改築が行われる前の最も古い家は前2世紀前半に建てられた。
通りに面したファサードには店が6軒も並び、その間には家の玄関があった。居住部は整然としており、家屋と周壁の間は家庭用の簡素な庭になっていた。
以上のようなレイアウトの家が大幅に改築されたのは、前80年にポンペイがローマの植民市となってからしばらくしたころだった。そんなときに加えられたのが、サルノ石でできた縦溝つきの美しいイオニア式円柱がたちならぶ、コの字形のポルティコである。最後の改築が行われたのは62年の震災のあとで、貴族の邸宅から宿つきの料理屋(カウボナ)にさまがわりしたという。

同書は、凝灰岩の切石を積み上げたオプス・クアドラトゥム(整層積み)のファサードは、重々しい存在感を放ち、広い玄関ホールの奥には、ポンペイで最も広くて天井の高いトスカーナ式アトリウムが続いている。
第1様式は「化粧張り様式」または「構造的様式」ともよばれ、ポンペイに残る装飾の年代(前200-80)からみて、最も古い様式である。スタッコ(化粧しっくい)を用い、コーニス、片蓋柱、ルスティカ、円柱といった建築要素を模倣し、大理石風に装飾するという。
ファウノの家で第1様式が大きなブロックに色分けされているだけでなく、その区切りに浅い凸線または凸面があることをしっかり見てきたので、
サルスッティオの家でもその壁面の凹凸を写そうと柵越しに頑張った。
ファウノの家の壁面ほど縦横に凸帯があるわけではないようだ。
正面奥のポルティコには、縦溝のある円柱が並んでいるが、イオニア式の渦巻はここからは見えない。
付け柱の角柱の縦溝なども丁寧に表現されている。
いつかサッルスティオの家をゆっくりと見学して、記事をつくってみたい。

今回最後の水汲み場で通りは2つに分かれるが、左のコンソラーレ通りへ。

㉒エルコラーノ門(Porta di Ercolano)
同書は、城門の中でもとくに魅力的なヘラクレニウム門。中央に大きなアーチ、左右に小さめのアーチを配したデザインは、凱旋門の風格をただよわせている。その雰囲気をさらに強めているのが大理石のオプス・クアドラトゥム(整層積み)を模倣したスタッコ装飾であるという。  
両側に人のくぐるアーチ、中央に馬車などが通るアーチ
人の通るアーチというかアーケードは長々と続いている。

㉓マイアの墓
半円形のベンチ

㉔イスタキディの墓
『完全復元2000年前の古代都市ポンペイ』は、高い基壇の上にイオニア式の円形堂(トロス)が立ち、円錐の先端を切った形の屋根がついていたという。
その斜め前方には㉕花綱を高浮彫した墓

墓地通り(Via delle Tombe)は文字通りさまざまな墓に挟まれている。

正面から見ると壁龕ほどの奥行しかないこの泉祀堂のようなものは、
やっぱり㉖モザイク円柱の屋敷の墓としか思えない。

続いて2軒の店舗に挟まれた㉗モザイク円柱のある家の入口
それを正面から見ると、奥に庭園がある様子。
小さなプレートに「モザイク円柱のある家」とあった。これだ!
詳しくは忘れへんうちににて

その先は通りが分かれているが、皆左の通りを下っていく。

左側は広大な㉘キケロの別荘前の店舗群
右前方にも㉙店舗群

前方右の白い壇は、
執政官の夫と参事会員の息子のために、㉚みこアッレイア・デチミッラが建てた石灰華の高い墓

左側にも立派な墓廟が並んでいる。
同書は、共同墓地の西側には、高い台座のついた祭壇形の墓がずらりと並んでいる。18世紀の芸術家が撮ったこれらの写真はヨーロッパじゅうに出まわり、文化人の間にポンペイの名を広めるきつかけとなったという。
㉛ウンブリキウス・スキアウルスの墓
㉜ナエウォレイア・テュケの墓

最後には㉝ディオメデの家(Villa di Diomede)
同書は、玄関につづく列柱廊は、道路よりずっと高い位置にあった。ドーリス式円柱の下1/3は赤、上2/3は白の縦溝だったという。
4X5の列柱廊

     ポンペイ 市民広場近辺

関連項目
ポンペイ モザイク円柱のある家
ポンペイ 円形闘技場からアポンダンツァ通り
エルコラーノ門から墓地通へ
ポンペイの壁画第1様式

参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」 サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス