お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年1月16日火曜日

スルタンアフメットジャーミィSultanahmet Camii(ブルーモスク)


イスタンブール旧市街のスルタンアフメットジャーミィに近いホテルに滞在したので、主な観光地にはすごく近くて便利だった。
その上ホテルの敷地がローマ時代の遺構の一部で、建物の壁面をそのままにしてあったり、

出土した大理石の円柱が飾ってあったりした。

舗床モザイクが残っているところには、ガラス越しに見られるようになっていた。
近辺には、舗床モザイクが出土したグレートパレス(大宮殿)と呼ばれる博物館もあるので、東ローマ(ビザンティン)帝国初期の、宮殿あるいはそれに付属するような建物の跡地だったのかも知れない。


ホテルの敷地だけでなく、この辺り一帯にその痕跡が残っていて、歩いているだけでビザンティン時代の遺跡が目に入ってくる。


Google Earthの地図(丸数字はスルタンアフメットジャーミィの施設)
そして少し上り坂を進むと、エジプトから運ばれたオベリスクなどが立ち並ぶ、トルコ語でアト・メイダヌ(At Meydanu)と呼ばれるローマ時代からの戦車競争場跡に着いてしまう。
この広場については以前の詳しい記事 ビザンティン時代のヒポドローム(戦車競技場) へ。
『トルコ・イスラム建築』は、モスクの建設場所には、ビザンツ時代のヒッポドロームの南側で、ビザンツ帝国時代の古い宮殿があった跡地を選んだ。そこは第1の丘の南西隅で、東南側に 180度マルマラ海を望める絶好の場所である。
付近には、宰相など高官の邸宅なども多数あった。高官たちの多くがこの付近に邸宅を建てた理由は、トプカプ宮殿の近くであり、ビザンツ時代からの政治の中心で由緒ある地であることの他に、付近に残っているビザンツ時代の建築遺跡から多量の石材を建設資材として調達でき、古い貯水槽なども利用できたこともあったという。
その高官たちの邸宅の一部をも接収してキュッリエの用地を確保した。アヤソフィアとの間の距離は、約300m程しかなく、ほぼ平行に建てられた二つの建物は、見比べられる位置である。実際、アヤソフィアと競争し、アヤソフィアを超えるべく建設され、1617年に完成した。建築家はメフメット・アーであるという。
➊-❿はスルタンアフメットジャーミィのキュッリエの施設。各名称は「キュッリエの配置」にあります。
この他図を見ると、上の写真は❿に当たりそうだ。
イスタンブール スルタンアフメットジャーミィ付近 Google Earth より 


その南西端から数えて三番目に古代エジプトのオベリスクが立っている。
現地ガイドのアイシャさんは、エジプトから運ばれた時は60mもの高さがありましたが、それを立てる技術がなくて、横にしてありました。テオドシウス帝の時に20mの高さに切って立てましたという。
その残りはどうなったのだろう。


オベリスクの近くにスルタンアフメットジャーミィのそっけない門がある。脇の門と思いそうだが、これが境内の正門。
身の丈が短いので、門にさがっている鎖に触れることなく入れた。

礼拝のためのモスクは単一で建てられることは少なく、キュッリエという宗教施設と慈善施設の集合体で、メドレセ、テュルベ、病院、イマーレットチェシメ(人工の泉で飲料水や生活用水の供給施設)など複数以上を含む(『トルコ・イスラム建築』より)。

スルタンアフメットジャーミィもキュッリエとして建てられたので、付属の建物が幾つかあった。スルタンアフメットは在位1603-17年

キュッリエの配置
➊ モスク ➋ テュルベ(墓廟) ➌ メドレセ ➍ コーラン学校 ➎ スルタンのサロン(スルタンが礼拝前の沐浴と休憩をするための施設として、二階建ての建物を付設。アフメットジャーミシによって初めて設けられた) ❻ アラスタ(一本の道の両側だけの商店街。このような商店街の収益がワクフとしてキュッリエの運営資金に充てられた) ➐ ハマム(公衆浴場、ローマ浴場の流れを汲むので蒸し風呂) ➑ パン焼き所 ➒ イマーレットメドレセの学生や貧しい人達に食事を提供するための慈善施設 ❿ ダールッシファ(初期は病院の意、次第に精神病院の意に)

Google Earth の地図でわかるように、建物は今でも残っている。
②スルタンアフメットのテュルベも前回見学した。記事は複数あるので、まずはスルタンアフメット廟1 8つのペンデンティブへ。
スルタンアフメットジャーミィ キュッリエの境内図 トルコ・イスラム建築紀行より


多人数で入るので、正門を真ん中にした写真が撮れなかった。

前回のイスタンブールの旅の記事を読み返すと、ヴェネツィアやフィレンツェでロンデル窓を見た後だったこと、そしてイスラーム建築のムカルナスという装飾に興味を持った時期だったために、それに拘り過ぎてしまったので、
今回は別の視点からまとめてみたい。

平面図(『トルコ・イスラーム建築紀行』より)
① モスク正門 ② 中庭 ③ シャドゥルヴァン(清めの泉亭) ④ 回廊 ⑤ ソンジェマアトイェリ(礼拝に遅れてきた人達のために設けられた礼拝室の入口の前の柱廊部分) ⑥ 礼拝室正面入口 ⑦ 半ドーム ⑧ 主ドーム ⑨ ミフラーブ ⑩ エクセドラドーム ⑪ 隅のドーム ⑫ ペンデンティブ ⑬ 主ドームを支える柱(象の足、4本、その外上に重量塔) ⑭ ミナーレ ⑮ 中庭への脇入口 ⑯ 礼拝室への脇入口 ⑰ 中庭外側の柱廊 ⑱ 柱廊下のシャドゥヴァン(壁に沿って身を清めるところが並んでいる) ⑲ 礼拝室外側の柱廊 

『トルコ・イスラーム建築紀行』は、モスクの基本プランは、⑧主ドームを⑬4本のピアに載せ、四方から⑦半ドームで支えるシェフザーデジャーミシのタイプである。主ドームの巨大化と、礼拝室空間の一体化では、セリミエジャーミシのタイプの方が格段に進んでいるのに、セリミエより約40年後に建設されたアフメットジャーミシで、シェフザーデ・タイプを選んだのはなぜなのだろうか?
私の考えでは、スィナンの弟子達は、セリミエの構造よりシェフザーデの構造の方が理解しやすく、新たな工夫と改良が容易であると考えたのではないかと思うという。
シェフザーデジャーミシやセリミエジャーミシについては後日

中庭と礼拝堂は同じ大きさ
スルタンアフメットジャーミィ平面図 トルコ・イスラム建築紀行より


①モスクの中庭に入る門。
蛇足ですが、イスタンブールには公衆トイレが少ないと思われがちですが、ジャーミィ(モスク)は本来身を清めてから入るところなので、右下のような案内があります。

入ると大きな玄関マットのような部分にだけ白大理石と黒大理石の幾何学文様がある。



②中庭
大抵のモスクの中庭は大理石。
③シャドゥルヴァン(清めの泉亭)があるので、⑥礼拝堂の入口が見えにくい。

『トルコ・イスラム建築』は、礼拝室の外観では、4本のピアの真上に⑳巨大な重量塔が載り、それぞれの重量塔の下部から外側の2方向に向かって、3段の階段状に降りているバットレスの構造の上部露出部分が力強く見えるという。
上記の文から類推して、⑳が巨大な重量塔だと判断した。ドームならば明かり取りの窓があるはずなのに、⑳とその下段の小さなドーム状の突起には窓がないからだ。

『トルコ・イスラム建築』は、礼拝室の外観では、4本のピアの真上に巨大な重量塔が載り、それぞれの重量塔の下部から外側の2方向に向かって、3段の階段状に降りているバットレスの構造の上部露出部分が力強く見える。この露出部分は、シェフザーデジャーミシでは隠れて見えなかったし、スレイマニエジャーミシでは半ドームのない側面側にのみ設けられ、半ドームのある入口側とミフラーブ側には設けられていない。ミマールスィナンの考えからすれば不必要であるが、主ドームの支持システムの強化のために追加されたのであろうという。
重量塔の下部から外側の2方向に向かって3段の階段状に降りているバットレスも、重量塔のドーム屋根がねじれていることも、下から見上げただけでは分からない。
スルタンアフメットジャーミィの屋根 トルコ・イスラム建築紀行より


④回廊
小さなドームが連続する。それを支える円柱は色が違うものもあるが、ドラムを積み重ねたものではなく、一本柱(モノリス)だ。これもビザンティン時代あるいはローマ時代の宮殿跡から拝借したものかも。

中庭まで来たというものの、礼拝堂内には絨毯が敷き詰められているので、靴を脱がないと入れない。一度南の扉口から出て階段を下り、南東の階段を上って靴を脱ぎ、袋に入れて持って入ることになる。それは、出口が別になっているからだ。
今回はアイシャさんという女性のベテランガイドだったので、モスク用に白い上履きのソックスと、靴を入れる袋などを配ってくれて、とても気が利いていた。


礼拝堂に入って⑧主ドームを見上げたが、四方にある半ドーム全ては入らない。
『望遠郷』は、礼拝場は縦53m、横51mのほぼ正方形で、ドームの高さは43m、直径は23.5mある。ドームのすぐ下には四つアーチとペンデンティブがあり、その下には4本の直径5mの柱があり、ドーム全体を支えている。その柱はくり型を境に上と下の模様が違っているという。
これまでイスタンブールで写したモスクのドームが何故真下から写していないのかと残念に思っていたが、モスクとは本来メッカ(マッカ)に向かって礼拝するところなので、礼拝者以外は立ち入ることができないようにロープが張られていたり、柵があったりするからであることを、久しぶりに来て気がついた。

⑧主ドーム(直径23.5m、高さ43m)と4本の象の足にかかるペンデンティブ、ドームの四方にある⑦半ドームのうちの北と東の二つ、更に半ドームを支える⑩エクセドラドームが北側には三つ、東側は二つで、ミフラーブのある中央にはアーチだけ。

東側中央に⑨ミフラーブ、その右手にミンバル(説教壇)
双方とも、そしてその周りのステンドグラスも、低く吊されたランプが邪魔で見にくい。
ミフラーブの近くで熱心に礼拝している人あり。ランプが低い位置にあるのは、正座して祈る人々のためのものだったのだ。

ドームからミフラーブまでの写真(『トルコ・イスラム建築紀行』より)
フランスではロマネスク様式の聖堂を見て回った。内部が暗く、柱頭彫刻もよく写らなかったが、そのお陰で、モスクに入ると窓が多く明るいことを実感できた。
アザーン(トルコ語ではエザーン)の呼びかけに来られなくても、いつでも礼拝はできるので、観光客やその邪魔をしないようにロープが張られている。

そして象の足と呼ばれる⑬太い円柱が2本。
中にいるとものすごく太い円柱に感じたが、『トルコ・イスラム建築』は、バットレスの強化と、静力学的な不均衡がない対称的な構造によって、スレイマニエジャーミシよりずっと細いピアで十分な強度を保てるのであろうという。
ジャーミシとジャーミイの違いが分からないのだが、スレイマニエジャーミイでは気にならなかった柱の太さを、ここでは巨大な柱と感じるのだろう。「象の足」という言葉に惑わされただけなのだろうか。
もう一箇所、私が写せなかったものがある。それは象の足右向こうの二階建てのもので、『望遠郷』は、この部屋の床は木でできていて、その下には、花や幾何学的な模様が描かれている。この模様はとても珍しいオスマン帝国初期のスタイルのものである。この部屋は、モスクの北東の角にある階段を通じてヒュンカル・カスル (皇帝の館)につながっているという。ヒュンカル・カスルを『トルコ・イスラム建築』は、➎サロンとしている。
たとえ近づけなくても、そのような装飾なども記載した書籍があれば買ったのに。


ヨーロッパの教会にはステンドグラスがある。ゴシック様式の聖堂のステンドグラスは壁面の広い面積を覆っているが、ロマネスク様式の聖堂にも窓は小さいながらある。
また、モスクにもステンドグラスはあるが、ヨーロッパのように鉛の線で結合しているのではなさそうに見える。
ミフラーブ上のアーチのステンドグラス

ピンボケ気味だが、小さな丸いガラスが多い。
『望遠郷』は、外の光が260もの窓から差し込んでいるが、建築当時のステンドグラスは今では複製品に替えられているという。

その下は・・・ランプにピントが合ってしまった。私の好みは細いモスクランプだが、ここには珍しくお椀型のランプがある。
それにしても、このランプの装置の、渦巻き状というか、蔓草状というか、何と装飾的なこと。

別のところのステンドグラス


⑪隅のドーム
窓が四つだけある方向が外側やね。

⑪隅のドーム内のペンデンティブとステンドグラス

以前に写したステンドグラスの記事はこちら


⑩ エクセドラドーム 北側と東側
象の足の向こうに養生してあるのが皇帝用マフフィル


入口上の女性用マフフィル(特別席)
『トルコ・イスラム建築』は、アフメットジャーミシでは、ミフラーブ側を除く三方の半ドームには、それぞれの先端にさらにエクセドラドームを付けたし、その分だけ礼拝室の両脇の壁と入口側の壁を後退させている。このようにして、約53 m ×50mのやや横長の礼拝室空間を創出している。半ドームの先端に付けたエクセドラドームが拡げた礼拝室空間の部分は、三方ともアーケードの上に二階ギャラリーを設け、女性用のマフフィルとしている。現在は観光客が多いため二階の使用は制限され、通常は女性用マフフィルを入口側の一階ギャラリーのみとしているという。


ブルーモスク呼ばれることになった青いタイルの壁面は、その二階の女性用マフフィルにある。

じっくり見ると赤い色もあるのが見えてくる。

右端は礼拝堂の床に敷き詰められた絨毯のミフラーブ型の文様。実際の絨毯の1区画に一人が坐って礼拝する。

タイルの写真は12年前の方がたくさん写していた。その記事はこちらから

一階からでは見ることのできない女性用マフフィルのタイル
スレイマニエジャーミイ礼拝堂二階女性用マフフィルの装飾タイル トルコ・イスラム建築紀行より

スレイマニエジャーミイ礼拝堂二階女性用マフフィルの装飾タイル トルコ・イスラム建築紀行より

コバルトブルーが少なく、緑色が入っているものも。
スレイマニエジャーミイ礼拝堂二階女性用マフフィルの装飾タイル トルコ・イスラム建築紀行より

拡大していくと、コバルトブルー、ターコイズブルー(このターコイズがフランス語でトルコのという形容詞 turquoise のことだったとは)、青紫色、赤色などが見えてくる。もちろん白掛けしている。

トマトの赤とも形容される赤い色は、他の色よりも盛り上がっている。そうしないと定着しなかったとも。そのためか、その釉薬は百年で枯渇してしまったとか。
『トルコ・イスラム建築』は、イズニキタイルがまだ全盛期の輝きを保っていた時代のものである。二階のマフフィルの二階の窓の高さまで張られたタイルは、総数 21,043 枚に及び、費用は350,958アクチェ要したという。
イズニキは、日本ではイズニークと呼ばれている。

『望遠郷』は、ユリ、カーネーション、チューリップ、リラなどの花やイトスギなどの樹木がイズニックの青や緑のタイルで描かれているという。


退場は北側の⑯出口から。
礼拝堂の南北面には二階建ての柱廊が付属している。

おっとそこにもイスラームらしい幾何学文様の広がる扉が。
『望遠郷』は、螺鈿やべっこうや象牙などを埋め込んだ木製の扉やよろい戸など、すべてが立派であるという


礼拝堂の北側から出て囲壁の外へ。

アヤソフィア方向に向かって右手の建物が➍コーラン学校

左手には➌メドレセ
かなり大きな建物。コーラン学校と共に、今でも教育の場になっているのだろうか。


                     →アヤソフィア

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「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同朋舎出版 1994年 同朋舎出版