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2011年2月16日水曜日

11-2 ローマからフランクフルトへ2

ヴェネツィアからフランクフルトへは、やや西よりに北上するはず。

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ヴェネツィアを過ぎても砂嘴の海岸線に沿って飛んでいく。
どこまで行くのだろうと見ていると、飛行機は左へ旋回して、細長い湖が幾つかみえてきた。北イタリアの湖水地方にしては小さいような気がした。

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すぐに窓の外は雪山ばかりになってきた。アルプスの上を飛んでいるらしいのだが、どのあたりかよくわからない。一番近くのドーナッツのような形の山は特徴的だと思うが、グーグルアースで見つけられなかった。
雲はところどころあるが、標高としてはそれほど高くなさそう。おそらくオーストリアの上を飛んでいるのだろう。
やがて、切り立った岩肌の峰々になってきた。
山容はまた変化した。広い谷には町がある。
どんどん山は白くなる。波の文様のように規則的に並んでいる。
やがて、山は険しさがなくなり、谷が広くなってきた。平地にも雪が積もっている。
山の斜面は畑か牧草地だろうか、そういうところだけ白い。
山地から平野部へ。
パンケーキアイスが海に浮かぶように、森の中に農地が白く浮かび上がっている。左には大きな町がある。
今度は、真っ白な平原に小さな町や森が点在する。
久しぶりに色彩を見た。土壌が赤いのだろうか。
ドイツに入ってからも長々と飛んだが1時間25分ほどでフランクフルト空港に到着した。
ドイツでもこの季節の降雪は予想外らしく、ルフトハンザは混乱していたようだ。ローマから出発時に、すでに座席が予約したものと違っていた。そして、フランクフルトから関空への便はダブルブッキングがあり、解決するのに1時間もかかってしまった。

2011年2月15日火曜日

11-1 ローマからフランクフルトへ1

ローマからの帰りはフランクフルト経由だった。フィウミチーノ(Fiumicino)空港は海に近い。ローマの港オスティア・アンティーカ(Ostia Antica)はどこだろうとバスから眺めていたが、わからないままに空港まで来てしまった。グーグルアースで空港の近くだということがわかった。

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飛び立つと海岸に沿って飛んでいく。
飛び立って5分もすると火口湖のような湖が見えてきた。ブラッチャーノ湖(Lago di Bracciano)、湖のそば(西)の町はブラッチャーノ、少し離れてマンツィアーナ(Manziana)。東の彼方には白い雲だけでなく、雪山が。湖は他にもあった。
地中海の海岸線を北上するのかと思ったら、内陸部へと飛んでいった。

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イタリアの細長い国土の背骨のようなアペニン山脈(Appennino centrale)の峰々。 晩秋の旅は、イタリアでは雨期にあたり、よく雨が降ったので、高い山々では雪になったのだろう。
また湖。右手(湖の南東)の火口跡のようなものをグーグルアースで探すと、ボルセーナ湖(Lago di Bolsena)だった。火口跡の縁にある町はモンテフィアスコーネ(Montefiascone)。点々と続く湖を目印に飛んでいるようだ。 
次に見えてきた湖は、トラジメーノ湖(Lago Trasimeno)。三角形の小さな島はポルヴェーゼ(Isola Polvese)、左(北)の突き出た岬はモンテ・デル・ラーゴ(Monte del Lago)。
イタリアで最も豊かと言われるトスカーナ地方を斜めに横切っているようだ。そのトスカーナはフィレンツェからローマまでバスで通った。なだらかな丘陵地帯で、丘の上に小さな町があったりした。麦の収穫は終わり、紅葉もまあまあだった。晴れたり、雨が降ったりとめまぐるしく天候は変わったが、見飽きない景色だった。
山脈に近づいてきた。その前ののっぺりと雪を被った山が他の山々と違っていて特徴的だが、グーグルアースのように上から見るのと、飛行機から見るのとでは山の形が違うのでわからない。
15分あまりでアドリア海が見えてきた。 左向こうの海岸に近い町はラヴェンナ(Ravenna)では?
ラヴェンナについてはこちら
やっぱりそうだった。初期キリスト教会がたくさん残っているので、何時かゆっくりと見て回りたい町だ。
飛び立って20分ほどでイタリア半島を横切ってアドリア海まで来たが、海上に出ることなく海岸線を右に見ながら北上。

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海岸線は陸と海というはっきりとした境目ではなくなってきた。潟や砂嘴が続いて複雑だった。
また長~い砂嘴が見えるなどと写真に撮った。帰国後、それはヴェネツィアの外側の砂嘴だと判明した。ヴェネツィア島や空港、そして、わかりにくいが、本土からヴェネツィア島と繋がる鉄道と道路も見えている。

2011年2月11日金曜日

10-2 夕食はテルミニ駅近くで

人がどんどん後ろから出てくるので、振り返るとメトロの駅があった。コロッセオ(Colosseo)からはC3というバスで移動するつもりだったが、バス停を探すのも面倒だから、メトロに乗ってしまおう。地下鉄B線でテルミニ駅(Termini)まで2駅。

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ローマ・パスは地下鉄の場合、改札はバーコードのところをタッチする。入って振り返るとコロッセオのライトアップが見える。
こんなところに落書きが!いや舗床モザイクだった。
やってきた列車は落書きだらけ。
テルミニ駅で降りて地上に上がると駅の南西角だった。
テルミニ駅付近もあまり治安は良くないという。遠回りになっても、大きな通りを歩いていこう。カヴール通(Via Cavour)を2区画歩いてプリンチペ・アメデオ通(Via Principe Amedeo)を右折。

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拍子抜けするくらいすぐにリストランテ・トゥディーニ・ガブリエレ・エ・トモコ(Ristorante Pizzeria Tudini Gariele & Tomoko)は見つかった。名前にもあるように奥さんが日本人なので、日本語が通じるというのがこの店を選んだ理由だった。自由行動はいろいろと気疲れするので、夕食くらいはストレスなしに食べたかった、6時23分。
入ると日本人客がパラパラといる程度だった。我々は右手の一番奥の2人席に通された。イタリアのレストランは中が複雑になってることがある。この店も中で二手に分かれていた。我々のテーブルのある空間は幅がせまかった。それでも2人用のテーブルが3つ並んでいる。その奥は関係者以外立入禁止になっていたので、邪魔になるリュックはロープの向こうに置かせてもらった、やれやれ。

ところがメニュを持ってきたのは、英語しかしゃべれない人だった。
トゥディーニのホームページから、食べたいものを選んで印刷して持ってきていた。その写真を店ながら、
Risotto alla pescatora speciale (海の幸のリゾット、写真はこちら)
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Griglia mista (4種類の肉のグリル、写真はこちら)
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どうもホームページが更新していなくて、今はない料理ばかりらしい。メニュを開いて見ると、このような料理は少なくなり、ピッツァが多かった。しかし、ピッツァはお昼に食べたしなあ。

飲み物はアグア・ミネラルとビール(BIRRA PASTURANA)。このビール、我々の激安ツアーで入ったレストランのワイン1本分くらいの値段(17ユーロ)もした。
メニュの写真を撮らなかったので、選んだ料理の名前を忘れてしまった。

サラダ 
薄いクレープ状のものに野菜サラダが盛られ、上にチーズや薄いパンが載っている。
日本でイタリアンというと、野菜をたくさん使った料理という印象だが、イタリアに来て以来ほとんど野菜が出なかった。
四角い手打ち麺と書いてあったので、平たいものと思っていたら、切り口が四角でうどんのようだった。色も白くて、写真ではお皿とパスタの見分けがつくだろうかと思っていたのに、こんなに黄色く写ってしまった。
チーズソースと黒こしょうがかかっているだけのシンプルなものだったが、見た目からは想像できないモチモチした歯ごたえのしっかりしたパスタだった。
子羊のグリルルッコラ添え
子ヤギがなかったので子羊にした。
食事が終わると再びメニュを持ってきた。
コメ ドルチェ? Come dolce?
チーズを使ったケーキを頼むとないという。そしてケーキの並んだケースまで見に行って、チョコレートのものを頼んだ。美味しかったが、刻んだナッツがぎっしり詰まった重いケーキだった。
店に入った時は客は少なかったが、どんどん日本人がやってきて、中にはイタリア人の客も入っていた。そうなると給仕係は大忙しで、なかなか支払いができない。
手を挙げたら、次という身振りをして行ってしまう。
いつまでたっても来てくれないので、声に出して伝えようと後ろに置いたリュックを取って、電子辞典を取り出した。そして、「幾らですか?」を電子辞典で調べていると、EX-wordが
Il conto,per favore? イル コント ペル ファヴォーレ?
隣席のイタリア人がそれを聴き取って、Il conto per favoreと繰り返して大笑いしたのだった。
待っていると何時になるかわからないので、払いに行くことにした。リュックを持って立ち上がると、隣席のもう1人が、
Sayonara! サヨナラ 
Arrivederci! アリヴェデルチ
コの字形の隅からもう一つの隅に行くと階段があってトイレと地下の部屋があり、そこも結構客が入っていた。階段の近くにいた人に、
Il conto per favore?

ビールが高かったこともあって60数ユーロ払ったような気がする。サービス料込みの値段だったので、示された額を払って出た。

またカヴール通を通ってテルミニ駅へ。このトラムはポルタ・マッジョーレ広場(Piazza Porta Maggiore)のアーチ門を出たり入ったりする系統だろう。 
テルミニ駅は大きな駅で、地下にコナード(Conad)というスーパーがある。持っていた地図が間違っていて、なかなかたどり着けなかった。
ここのミネラルウォーターはすごく安かったので、滞在中に必要な分を買った。袋は有料なので日本から用意して持ってきた。
困ったことに、重い水をたくさん持っているのに、地下鉄の駅は遠かった。
ローマは治安が悪いという情報だったが、このように何事もなく自由行動ができた。ローマだけだったら、個人旅行ができそうだ。次回は城壁内に宿泊して、もっとゆったりと廻りたいものだ。
しかし、「私の知り合いがスリの集団に取り囲まれまして」という話も旅行中に聞いた。

2011年2月10日木曜日

10-1 コロッセオ(Colosseo)のライトアップ

サンタニェーゼ教会を出るともう日は暮れていた。早めに展開した自由行動の1日はこれで終了、17時30分。思っていた分の8割くらいは見られたかな。

まだ夕食には早いので、フォロ・ロマーノやコロッセオのライトアップを見に行くこととなった。そうなるとバスは60番だ。サンタニェーゼ(Via Sant’Agnese)のバス停へ。
バス停に着くと60番がやってきた。しかし、手を挙げて合図しても、運転手がダメダメと横に手を振って止まらずに行ってしまった。バス停のプレートを見ると60番がない。そういえばバスにはEXPRESSとあった。ここは60番の止まらないバス停だった。
それなら次のバス停まで歩くしかない。ノメンターナ通(Via Nomentana)を早足で歩く。次の信号の手前にはバス停がなかったので、4月21日通(Viale 21Aprile)を渡ってしばし歩いた。我々を追い越したバスが停まっては発車するので、どこにバス停があるかは分かり易い。バス停の名前もXXⅠAprile。

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60番はいくらでも通っている。歩いている間にも見たし、バス停に着く寸前にもやってきたので走って乗った。60番は急行なので、バス停をどんどん飛ばしてノメンターナ通を直進する。あっという間に、3番の通るレジーナ・マルゲリータ通(Viale Regina Margherita)を越えていった。

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ミケランジェロが設計したというピア門(Porta Pia)はどんな門だろうと楽しみだったが、その右を通り過ぎて行った。ローマ時代の城壁がちらりと見えた。ここからは9月21日通(Via 20 Settembre)になる。

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9月20日通を直進した。この辺りは混むだろうと思っていたが、全くそんなことはなく、左折でヴィットリオ・エマヌエーレ・オルランド通(Via Vittorio Emanuele Orlando)へ。真ん中に大きな噴水のあるレプッブリカ広場(P.za della Republica)まで来ると、大きな柱廊の間のナツィオナーレ通(Via Nazionale)に入った。

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ここも思った程の渋滞はない。右にクイリナーレの丘の下を通るトンネルを見てバスはまだまだ直進、Largo Magnabapoliのロータリーから曲がりくねった11月4日通、そしてヴェネツィア広場(Piazza Venezia)へ。今日何度ここを通ったのだろう。

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次がいよいよフォロ・ロマーノのバス停。ライトアップがきれいだったら降りてみよう。
ところが、フォロ・ロマーノはライトアップはなかった。街灯程度だった。フォリ・インペリアーリの方は乗客がいて見えなかった。ローマは、意外とライトアップに力をいれていない街だ。

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コロッセオでバスの乗客がたくさん降りていった。我々も降りて道路を渡った、6時過ぎ。やっぱりローマの街は小さいなあ。渋滞がなかったせいか、20分ほどバスに乗ったらここまで来られた。 
コロッセオはきれいにライトアップされていた。しかし、近すぎて全体が写らない。
左側の歩道にはレストランがある。そこそこ寒いのにイタリア人は外で食べるのが好きらしい。それともコロッセオを見ながら食べたい観光客相手かな。
バスを待っているのか、コロッセオを眺めているのかわからない人たち。コロッセオを眺めている我々の背後から、どっと出てくる。
遠くにコンスタンティヌスの凱旋門(Arco di Costantino)、今日3度目。
さすがに歩き回ってライトアップを見ようという元気はもうなかった。

2011年2月9日水曜日

9-6 サンタニェーゼ教会(Sant’Agnese Fuori le Mura)に7世紀前半の金地モザイク

カタコンベの見学が終わり、階段を上って出てきたのは後陣のそばだった。カタコンベに下りる前は暗かったが、今は照明がついて明るくなっていた。写真を撮っている人がいたので我々も撮っても構わないだろう。

『イタリアの初期キリスト教聖堂』は、伝説によるとコンスタンツァが聖アグネスの墓で病気の治ることを祈ったところ、聖母が現れ、彼女にキリスト教への改宗を勧めた。それで、さっそくキリスト教の洗礼を受けるために建てたのがこの円形洗礼堂であり、すぐ隣にあるサンタニェーゼ・フォリ・レ・ムーラ(337-350)は、続いて聖母のために建立されたものであるといわれているという。
『世界美術大全集7西欧初期中世の美術』は、4世紀中頃建造のローマの聖アグネス記念墓地教会は老朽化し、620-630年代にまったく新しい教会が、そこから数十m離れた聖女の墓の真上に建てられたという。
聖アグネス記念墓地教会が創建された場所がコスタンツァ廟の北のU字形の遺構だ。7世紀の聖堂よりずっと大きい。

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『イタリアの初期キリスト教聖堂』は、初期キリスト教建築の素晴らしい傑作の一つである。この建物の平面形式はサンタ・コスタンツァとは対照的なバシリカ形式で、中央の身廊の両側に側廊を持つ三廊式で、側廊は上階のある二層式となっているという。
我々は後陣のモザイク壁画ばかり見ていて、天井がどのようになっているか見上げることもなく、2層となった側廊に気づきもしなかった。これが反省点。
別の場所に再建されたとなると後陣のモザイク壁画も7世紀のものだろう。この身廊にもクワイヤがあるために後陣に近づけない。
照明がないのでよく見えなかったこともあって、勝利の門(後陣上方の壁面)さえも見なかった。これはどの文献にも載っていないので、後世のものだろう。
できるだけ近づいて撮るとこんな風になってしまう。実際には金色はもっときれいだった。ビデオに「レンズを通すよりも実際の方がもっときれい、もっと金色が濃い」などという私の声が入っていた。
3人が正面を向いて立っている。コスタンツァ廟の小壁龕の4世紀のモザイク壁画トラディティオ・レーギス(Traditio Legis)に比べて、背景が金色で煌びやかだが、人の動きがない。
『世界美術大全集7西欧初期中世の美術』は、まず中央に聖女アグネスが、自らの殉教の徴(しるし)である剣と燃えさかる炎とともに描かれている。聖女はビザンティン皇妃のように冠を着け、玉石飾りの華美な衣装をまとっているという。
金地の玉石飾りはアクセサリー類か器物に付けられたものだと思っていたが、衣装にもあったのか。鎧のように硬くて重い衣装だったのではないだろうか。
貴石の象嵌細工はかなり古くからある技術だが、西欧に伝播したのは、民族の大移動の時代だったというようなことを何かで読んだような気がするが、確かではない。
それについてはこちら
オレンジ色の炎が聖アグネスが火あぶりにされたことを示しているが、剣は何を表しているのだろう。最終的に刺し殺されたのかも。
顔も衣装も平面的。足元の炎だけに動きが見られる。いや、よく見るとサンタニェーゼの右足は白い台から半分出ている。靴が炎と同じ色だ。
ピンボケ気味だが、金箔テッセラが煌めく様子がわかる。これについては、乱反射するように壁面に不揃いに嵌め込んでいくという説と、テッセラを埋め込むと一つ一つに自然に傾きができて乱反射するのだという説がある。
向かって左側で教会堂の模型を持って立つのは、献堂者たる教皇ホノリウス1世(在位625-638)という。
教会を建ててサンタニェーゼに奉献するという行いを教会の雛型を持たせて表現するのはビザンティン美術でも行われている。
しかし、サンタニェーゼの顔と比べると立体的な表現となっている。
反対側で聖書を手にする人物は6世紀初頭の教皇シュンマクス(在位498-514)と考えられているという。
こちらも顔の表現がサンタニェーゼよりも陰影の表現がある。
聖書にも玉石飾りが見られる。この時代、いろんなものに玉石飾りを付けることが流行していたのだろうか。
構図全体を眺めると、6世紀末のサン・ロレンツォ教会のモザイクが経験した様式上の急激な変化を、いっそう加速させたものといえる。正面向きで硬直し、厳格な左右対称のもとに、無機質な金地に立つ人物像、完全に緑の帯となった緑野など、幾何学的な単純性を追求しつつ、従来とはまったく異なる、いわば中世的な空間秩序を創出する意欲がうかがえるという。
アプシス頂部の半円枠内に描かれた星空や雲間の神の手という伝統的な表現も、ここではまったく図案と化しているという。
写実的な表現というのは野蛮な多神教の美術であるとして、キリスト教世界では拒否され、平面的な表現となっていったというようなことを何かの本で読んだことがある。それはビザンティン美術についての本だったと思うのだが、ビザンティン帝国だけでなく、西欧でも同じような動きがあったのだなあ。
こうして明るい照明の下、サンタニェーゼ教会の7世紀のモザイク壁画も見ることが出来た。朝からいろんなものを見てきたが、コスタンツァ廟といい、カタコンベといい、金箔テッセラが教会の壁面装飾に用いられるようになった最初期と思われるものを見ることもできて、満足してサンタニェーゼ教会を後にした。

帰国したらゆっくりとサンタ・コスタンツァ廟(Mausoleo di Santa Costanza)の本を見よう。ところが、段々と心配になってきた。本当にその薄い本を買ったのだろうか。
ホテルに戻ってリュックの中を確かめると、やっぱりなかった。カタコンベから出てきて、サンタニェーゼの後陣モザイクに魅入ってしまったために、事務所に戻るのを忘れていたのだった。

※参考文献
「建築と都市の美学 イタリアⅡ神聖 初期キリスト教・ビザンティン・ロマネスク」(陣内秀信 2000年 建築資料研究社)
「建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂」(香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社)
「世界美術大全集7 西欧初期中世の美術」(1997年 小学館)

2011年2月8日火曜日

9-5 サンタニェーゼ教会地下のカタコンベに金箔テッセラ

コスタンツァ廟を出るともう日は落ち始めていた。扉の左の壁龕の照明が灯っていた。このように金色でなくても、照明の仕方や見る角度で金色に見えたりすることがある。
ここでやっと気がついた。このファサードの内側にナルテックスがあるのではなく、ナルテックスの外側がなくなっているのだ。平面図で3つの四角い空間が並んでいるのはここだったのだ。
また生け垣の坂道を戻っていく。今度はやや下り坂。
突き当たって右に曲がると、濡れた中庭を犬を連れて歩いている人を見かけた。右側には何か祭壇のようなものがあった。
サンタニェーゼ教会の後陣は南東を向いている。

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従って正面(ファサード)は北西方向にある。ファサードが東にあったサン・クレメンテ教会といい、初期の教会はいろんな方角を向いていたようだ。
扉の少し上までが石造りで、その上はレンガ積みになっている。どう見ても入口の白い石の枠と上のアーチが合っていない。
入口から左の小部屋へ入った。カタコンベの見学はガイド付きで、好き勝手に見て回ることはできない。
Catacombe?
私用の電話をかけている人が待てという合図をする。それで壁に薄っぺらい冊子などがあるのを見ていると、コスタンツァ廟のヴォールト天井のモザイクの写真がたくさん載っている薄い本を見つけた。英語版もある、10ユーロ。買いたかったがその人しかいないので電話が終わるのを待つ。
なかなか終わらないので、いったん本を戻して、身廊の見学に行った。おっちゃんは何故かまた教会内部を撮影しようとしなかった。
小部屋に戻ると、やっと電話が終わって、先に来た人たちがお金を払っていた。

さて、いよいよカタコンベの見学となった。小部屋の奥の扉を開き、その奥の部屋から階段を降りていく。撮影は禁止だったので、残念ながらカタコンベの写真はない。
イタリア語の説明を聞きながら、全くわからないまま、戸棚のように並んだ墓室の間の通路を付いていく。
下の写真はアッピア街道にあるサン・カリストのカタコンベ(Catacombe di S.Callisto)のものだ。
『ローマ古代散歩』は、街道沿いの細長い丘は、掘り易く頑丈な凝灰岩の土壌で、土葬を旨とするキリスト教徒の地下墓地として好都合であり、2世紀末から後の教皇カリストゥスを管理者とするローマ教会の敷地となったという。
そう言えば、カエサルもフォロ・ロマーノの神君ユリウス神殿(Tempio del Divo Giulio)の西面で火葬にされ、その跡には今でも花が供えられていた。古代ローマ人は火葬だったのだ。キリスト教徒だけがカタコンベに埋葬されたのだ。

サンタニェーゼ教会地下も凝灰岩だったかどうかわからないが、掘り易い岩石だったのだろう。
カタコンベと言えば、キリスト教の迫害の時代、カタコンベで集会が行われてきたなどといわれていた。
しかし、『キリスト教の誕生』は、キリスト教徒は確かにカタコンベに死者を埋葬し、場合によっては墓に装飾を施し、祈りを捧げた。しかし通路や墓室は狭く、大がかりな集会は無理だったのである。集会のためには市内に住宅兼教会があった。ただし地下墓地の上にも、礼拝や死者の記念式を行なうための建物が地元の人々によって建てられた。258年、ローマ司教シクストゥス2世が助祭たちとともに逮捕されたのは、そうした地上の建物においてであったという。

確かに地下は、両側に何段かの遺体を収容する空間のある狭く天井の低い通路のようなもので、集会をするほどの空間はなかった。
ところどころにキリスト教徒であったことを示すPとXを組み合わせたモノグラムがあったりした。実はカタコンベで見つけたいものがあった。それは、金箔ガラスのメダイヨンだった。

金箔ガラスのメダイヨン 最大径6.4㎝ ローマ時代のカタコンベ出土(推定) 4世紀 大英博蔵
同展図録は、このメダイヨンには、若い夫婦の半身像が描かれている。ふたりの間の上方にはそれぞれチュニカとパリウム(外衣)を着たあごひげのない男性の小さな姿があり、男女それぞれの頭に花冠を掲げている。4世紀の多数の図像からキリストであることが容易にわかる。
メダイヨンは結婚の記念や祝いのためのボウルや皿の底面にするために作られた。1枚のガラス板の上に金箔をつけ、これを切って模様をつけ、その上を容器の底で押さえて金箔を2枚のガラスで挟むようにした。この種のメダイヨンは、ローマのカタコンベ内で漆喰で固めた状態で多く発見されている。このことから、配偶者が死亡したときには、容器のうちメダイヨンだけ残し、埋葬場所の目印としたものと考えられるという。
同展で見た時には、金箔がよくゆがみもせずに2枚のガラスに挟まったものだと思った。接着剤でもつけなければ髪のこまかな線やカール、首飾りや衣装の模様などをつけるのは無理ではないかと素人の私は思う。それよりも文字を切り抜いて、弧を描いて貼り付ける方が難しいだろうか。
残念ながら、見学コースには見当たらなかった。しかし、もっとすごいものを見つけた。
あるコーナーには鉄格子がはめてあって、ガラス越しに人骨が見えたりしていた。その横にあったものは、大きめのXPのモノグラムだったが、それがなんと金箔ガラスのテッセラで作られていたのだった。10㎝四方ほどのものに思った。
サカタ・コスタンツァ廟(Mausoleo di Santa Costanza)のヴォールト天井よりも以前に金箔テッセラが使われていた、すごい証拠を発見した。
この金箔テッセラのモノグラムは、「”ちゃおちゃお”のローマ美術案内 ローマの休日」というサイトの、サンタニェーゼ・フォリ・レ・ムーラ教会2に載っています。

尚、金箔テッセラはこのようなものです。
モザイクのテッセラ 東地中海岸域 9-12世紀頃? 1辺0.9㎝厚さ0.6㎝ 薄緑色の透明ガラス、金 岡山市立オリエント美術館蔵
『ガラス工芸-歴史から未来へ展図録』は、ビザンティン時代に壁画や天井の装飾に用いられた金地モザイクのテッセラ(モザイクの素材の石片やガラス片)のひとつ。これを作るには、吹きガラスで膨らんだガラスを割いて開くと板ガラスができるが、これへ薄くのばした金とガラス膜を熔着させて、冷却後にガラス切りで1㎝角ほどの大きさに切断する。裏面に壁面へ取り付けたモルタルが付着しているという。

進んでいくと、サンタニェーゼの棺の置かれた場所に来た。ガイドがここは写真に撮っても良いと言ってくれたのだが、あまりにも棺にピントを合わせることに集中して、この区画全体の写真がなかった。
横の壁には三カ国語で聖アグネスへの賛美の言葉が書かれていた。
写真を写している間にも見学は進んでいたが、金箔テッセラを見つけたことで満足していたので、当時のローマ人はこんなに小さかったのかと思うような安置の棚の穴を両側に見ながら、足早に追いかけていった。
ところが、『光は東方より』の「キリスト教美術の誕生-3~4世紀のカタコンベ壁画」を見ていると、4世紀中頃でもカタコンベは墓地として機能していたことがわかった。金箔テッセラの使用はコスタンツァ廟の壁面モザイクよりもカタコンベの方が先であると言えなくなってしまったのだ。

※参考サイト
”ちゃおちゃお”のローマ美術案内 ローマの休日はこちら


※参考文献
「建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂」(香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社)
「世界美術大全集7 西欧初期中世の美術」(1997年 小学館)
「キリスト教の誕生」(知の発見双書70 ピエール=マリー・ボード 1997年 創元社)

「大英博物館の至宝展図録」(2003年 朝日新聞社)
「NHK名画の旅2 光は東方より」(1994年 講談社)
「ガラス工芸-歴史から未来へ-展図録」(2001年 岡山市立オリエント美術館)