お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年2月27日火曜日

ガラタポートから眺める旧市街の塔とドーム


本日前半はイスタンブールのアジア側へ。地図はGoogle Earth より
①トプカプ宮殿 ②アヤイレーネ  ③アヤソフィア ④スルタンアフメットジャーミィ ⑤イスタンブール男子高校 ⑥リュステムパシャメドレセ ⑦ヌールオスマニエジャーミイ ⑧イエニジャーミイ ⑨ベヤズィットの塔 ⑩スレイマニエジャーミイ ⑪リュステムパシャジャーミイ ⑫シルケジ駅 ⑬ガラタ塔 ⑭クルチアリパシャジャーミイ
チャルムジャ塔は本ブログのタイトルバックの赤い塔
イスタンブール旧市街・新市街・アジア側 Google Earth より


朝からあいにくの雨。バスはマルマラ海に沿った道路に左折で入って、

ガラタ橋を渡ってモスク(ジャーミイ)が見える辺りでスピードを緩めた。
これもミマールスィナンが設計したモスク、⑭クルチアリパシャジャーミイ Kılıç Ali Paşa Camii だ。

バスが少しずつい動くので写したいものが近寄っては離れていく。これはトプハーネの泉(マフムードハンチェシュメシ Mahmud Han Çeşmesi)で18世紀のもの。


クルチアリパシャジャーミイの東側がまた見えた。どちらかといえばこのモスクを見学したいが・・・


もう少し先でバスが停まったところで降りて、海岸の方へ。
昨日の午後大半を過ごした①トプカプ宮殿

トプカプ宮殿はディワンの塔が目標となり、大きなクルーズ船の向こうに4本のミナーレを従えた大ドームのアヤソフィア、その右に6本のミナーレがほぼ等間隔に並ぶスルタンアフメットジャーミィ(ブルーモスク)と続く。これがイスタンブールの七つの丘の内第一の丘で、ローマ帝国、東ローマ(ビザンティン)帝国、オスマン帝国の宮殿があったところ。

このガラタポートは2022年に新しくできたばかりの新い街。おしゃれな店舗が並んでいて、イスタンブールっ子に人気のスポットという。                      


くっきりと見えなくて残念だが、①トプカプ宮殿の左端にある庇が深く窓のあるドームの建物は、バーダット・キョシュキュを見に行く途中にあった聖遺物室のドームの一つ。ディワンの塔の手前のドームがムラート三世の間とスルタンの広間のものだろう。

左上の立派な建物は⑤イスタンブール男子高校 İstanbul Erkek Lisesi 、その右に見える2本のミナーレがあるドームは不明。でも、Google Earth で見ると、高校の近くに丸い平面で小ドームが並ぶ建物を発見した。そして、それがシナンが設計した⑥リュステムパシャメドレセRüstempaşa Medresesi Bediüzzaman Müzesi で現在は博物館になっているらしい。 

この先で角度が変わり、左端にカラキョイ埠頭が現れた。黒い建物の向こうに見えるのは、4本のミナーレがある⑩スレイマニエジャーミイのはず。



右手には真新しい建物が次々と現れる。


右端の巨大な塔はミナーレではなく、現イスタンブール大学の敷地に立つ⑨ベヤズィットの塔 Beyazıt Kulesi。左下は⑧イエニジャーミイ(新しいモスクという意味、17世紀)、左上の2本のミナーレがあるのはどうやら⑦ヌールオスマニエジャーミイ
(オスマン帝国末期)で、このモスクとベヤズィットジャーミイの間にあるのがグランドバザール(カパルチャルシュ Kapalı Çarşı 屋根付き市場)。

歩き続けるとクルーズ船に隠れていた③アヤソフィアが見えてきた。


右からディワンの塔、
スルタンの広間、ムラート三世の間、角張った軒のカフェス(スルタンの息子たちが閉じ込められた鳥籠)、白っぽいのが寵姫たちの個室のある建物とその前の中庭。前日ここから眺めた時は、ガラタ塔が見えた。

 ③アヤソフィアと左に②
アヤイレーネ

丘の上に6本のミナーレをもつ④スルタンアフメットジャーミィ、その下に横に長い屋根があるのがオリエント急行の終着駅⑫シルケジ


カラキョイ埠頭は見えていても道は通じていない。



ちょっとレトロっぽい建物と誰かの銅像

あっ、ワッコのお店があると思ったけれど、ワッコラマというカフェだった。



というところで Paket Postanesi Galataport İstanbul というショッピングモールに入っていった。
一階は広い空間の中央に男性用の服の店、二階は通路で囲まれていて、両階共に店舗が並んでいる。

多分正方形の四隅から四角いドームを作っている。金属と木材とガラスの軽快な天井の下には、三重の弧に丸い照明。建物は倉庫のようだが、まるで現代版モスクのランプのよう。


セキュリティを通って Kemankeş Cd. ケマンケシュ通りへ出た。右端がホテル・ノヴォテル、その左のバロックかロココ風の建物は警察署

その左は Fransız Geçidi İş Merkezi というビジネスセンター。そう言われると掃き出し窓とバルコンの鉄柵がフランス風。絨毯屋も入っておりますなあ。

現地ガイドのアイシャさんは、昔は日が暮れると通れない恐い地区でしたが、こんな風に新しく、おしゃれな街になって嬉しいと言っていた。

新旧の建物の間から⑬ガラタ塔が顔を出している。もうすぐ古い建物は壊されて、おしゃれな建物やお店ができるのだろう。


ガラタ塔について『望遠郷』は、ガラタの近代的な家並みの上にそびえ立 つ、ジェノヴァ商人居住区の城塞の塔。高さ53mの最上階からの展望は素晴らしい
という。

ギリシア時代に開かれた小さな城塞都市ガラタは、コンスタンティノープルより古い歴史を持つ。11世紀初め、ビザンティン帝国は、ヴェネツィア、ジェノヴァその他のイタリアの都市国家に対し、コンスタンティノープルで商業活動を行う許可を与えた。
1453年オスマン軍がコンスタンティノープルを包囲したとき、多くのジェノヴァ人がビザンティン帝国側について戦うことを選んだにもかかわらず、ガラタはジェノヴァ共和国の商業利益を保護するためあえて中立を守った。1454年、ジェノヴァの領土ガラタはオスマン帝国に統合された。
コンスタンティノープル征服後、メフメ ット二世は、ガラタの沿岸に巨大な海軍武器庫 (テルスハネ)を建造した。これは今日も海軍施設として使われている。
また、メフメット二世は各国の商人を呼び寄せ、貿易の振興をはかった。こうした政策のおかげで、ガラタは首都の海運産業の中心となった。イタリア、ギリシ ア、ユダヤ、アルメニアの商人が、各地の船の乗組員に必要な食料品の商いで生計を立てていたという。

そうそう、コンスタンティノープルを包囲されたビザンティン帝国は、金角湾(ハリーチ)に鎖を渡して軍艦の侵入を防いでた。それをメフメト二世は、一夜のうちに軍艦を陸越えさせて金角湾内に浮かばせたのだった。その時はすでにガラタ地区は城壁で囲まれていたので、それを回り込んで越えたはず。
イスタンブール大学図書館蔵マトラクーチュ・スナフ画ガラタ地図 1537年 望遠郷より


再びボスポラス海峡と金角湾の交わる海へ。クルーズ船がかろうじて左端に見える場所まで移動してきた。

トプカプ宮殿の最奥部にあるイフタリエの金色の屋根はどこかな。トルコの国旗の斜め上にかろうじて写っていた。


アヤイレーネにアヤソフィア、下にシルケジ駅舎。その間の森はギュルハネ公園 Gülhane Parkı 

やっとカラキョイ Karaköy 埠頭へ。


再び取壊しが決まった建物群のそばを通って、

ガラタ橋の向こうにスレイマニエジャーミイを見つけた。

スレイマニエジャーミイは、12年前は修復中だったが、すでにそれは終了している。今度こそ墓廟も見なければ!



フェリーが出発して、長々と歩いてきたガラタポートが見渡せた。

そしてまだ通ったことのないボスポラス大橋。その下を往来するたくさんの小船。
アイシャさんによると、マルマラ海は入口のチャナッカレのところで狭くなっていること、その先が海峡で狭くなっていることから、この辺りの海はほとんど荒れることがないのだとか。船に弱い私には有り難い情報。


行き先はもう一つの対岸アジア側。
丘の上に聳えるチャルムジャ塔 Çamlıca Kulesi は新たな観光スポット。分かりにくいが、左端から海岸沿いに少し目を右に向けると小さな灯台があって乙女の塔 Kız Kulesi クズ・クレセと呼ばれている。




参考文献
「旅する21世紀 ブック望遠郷2 イスタンブール」 ガリマール社・同朋舎出版編集 1994年 株式会社同朋舎出版