本日前半はイスタンブールのアジア側へ。地図はGoogle Earth より
①トプカプ宮殿 ②アヤイレーネ ③アヤソフィア ④スルタンアフメットジャーミィ ⑤イスタンブール男子高校 ⑥リュステムパシャメドレセ ⑦ヌールオスマニエジャーミイ ⑧イエニジャーミイ ⑨ベヤズィットの塔 ⑩スレイマニエジャーミイ ⑪リュステムパシャジャーミイ ⑫シルケジ駅 ⑬ガラタ塔 ⑭クルチアリパシャジャーミイ
チャルムジャ塔は本ブログのタイトルバックの赤い塔
朝からあいにくの雨。バスはマルマラ海に沿った道路に左折で入って、
ガラタ橋を渡ってモスク(ジャーミイ)が見える辺りでスピードを緩めた。
これもミマールスィナンが設計したモスク、⑭クルチアリパシャジャーミイ Kılıç Ali Paşa Camii だ。
もう少し先でバスが停まったところで降りて、海岸の方へ。
昨日の午後大半を過ごした①トプカプ宮殿
トプカプ宮殿はディワンの塔が目標となり、大きなクルーズ船の向こうに4本のミナーレを従えた大ドームのアヤソフィア、その右に6本のミナーレがほぼ等間隔に並ぶスルタンアフメットジャーミィ(ブルーモスク)と続く。これがイスタンブールの七つの丘の内第一の丘で、ローマ帝国、東ローマ(ビザンティン)帝国、オスマン帝国の宮殿があったところ。
くっきりと見えなくて残念だが、①トプカプ宮殿の左端にある庇が深く窓のあるドームの建物は、バーダット・キョシュキュを見に行く途中にあった聖遺物室のドームの一つ。ディワンの塔の手前のドームがムラート三世の間とスルタンの広間のものだろう。
ちょっとレトロっぽい建物と誰かの銅像
一階は広い空間の中央に男性用の服の店、二階は通路で囲まれていて、両階共に店舗が並んでいる。
多分正方形の四隅から四角いドームを作っている。金属と木材とガラスの軽快な天井の下には、三重の弧に丸い照明。建物は倉庫のようだが、まるで現代版モスクのランプのよう。
セキュリティを通って Kemankeş Cd. ケマンケシュ通りへ出た。右端がホテル・ノヴォテル、その左のバロックかロココ風の建物は警察署
ギリシア時代に開かれた小さな城塞都市ガラタは、コンスタンティノープルより古い歴史を持つ。11世紀初め、ビザンティン帝国は、ヴェネツィア、ジェノヴァその他のイタリアの都市国家に対し、コンスタンティノープルで商業活動を行う許可を与えた。
1453年オスマン軍がコンスタンティノープルを包囲したとき、多くのジェノヴァ人がビザンティン帝国側について戦うことを選んだにもかかわらず、ガラタはジェノヴァ共和国の商業利益を保護するためあえて中立を守った。1454年、ジェノヴァの領土ガラタはオスマン帝国に統合された。
コンスタンティノープル征服後、メフメ ット二世は、ガラタの沿岸に巨大な海軍武器庫 (テルスハネ)を建造した。これは今日も海軍施設として使われている。
また、メフメット二世は各国の商人を呼び寄せ、貿易の振興をはかった。こうした政策のおかげで、ガラタは首都の海運産業の中心となった。イタリア、ギリシ ア、ユダヤ、アルメニアの商人が、各地の船の乗組員に必要な食料品の商いで生計を立てていたという。そうそう、コンスタンティノープルを包囲されたビザンティン帝国は、金角湾(ハリーチ)に鎖を渡して軍艦の侵入を防いでた。それをメフメト二世は、一夜のうちに軍艦を陸越えさせて金角湾内に浮かばせたのだった。その時はすでにガラタ地区は城壁で囲まれていたので、それを回り込んで越えたはず。
再びボスポラス海峡と金角湾の交わる海へ。クルーズ船がかろうじて左端に見える場所まで移動してきた。
トプカプ宮殿の最奥部にあるイフタリエの金色の屋根はどこかな。トルコの国旗の斜め上にかろうじて写っていた。
アヤイレーネにアヤソフィア、下にシルケジ駅舎。その間の森はギュルハネ公園 Gülhane Parkı
そしてまだ通ったことのないボスポラス大橋。その下を往来するたくさんの小船。
行き先はもう一つの対岸アジア側。
丘の上に聳えるチャルムジャ塔 Çamlıca Kulesi は新たな観光スポット。分かりにくいが、左端から海岸沿いに少し目を右に向けると小さな灯台があって乙女の塔 Kız Kulesi クズ・クレセと呼ばれている。
参考文献
「旅する21世紀 ブック望遠郷2 イスタンブール」 ガリマール社・同朋舎出版編集 1994年 株式会社同朋舎出版