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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年4月2日火曜日

エユップスルタンジャーミイ Eyüp Sultan Camii と墓廟


エユップスルタンジャーミイ周辺の地図 Google Earth より
エユップスルタンジャーミイ周辺の地図 Google Earth より


エユップのテレフェリクを降りて、エユップスルタンジャーミイへ向かった。テレフェリクの駅から右脇の道を通ると近道となる。

大理石が敷き詰められた広場に出たので、これがエユップスルタンジャーミイ前の広場であることは分かった。


広場から振り返ると、正門とその中の建物群が見えるので迷うことはない。


門をくぐると、中庭のシャドルヴァン(清めの泉亭)で体を清めている人がいるがそう多くはない。モスクのドームとミナーレも見えたが、その下は柵があって誰でも入れるのではないようなので、大勢が入っていく
左の半分切れてしまったアーチへ向かった。


アーチの中は中庭になっていて、大きな木がその真ん中に植わっていて、エユップの廟は左手に、礼拝室は右手にあった。

『イスタンブール歴史散歩』は、預言者ムハンマドの盟友であり旗手でもあったアラブ人エユップ Abū Ayyūb al-Ansārī が埋葬されているのがエユップスルタンモスクである。
エユップはムハンマドの死後、アラブの最初のコンスタンティノープル包囲(674-678)に際して指揮官として戦って戦死し、城壁の外側のどこかに埋葬されたと伝えられていた。それから8世紀後、コンスタンティノープルを征服したメフメット二世は、世部下とともに7日間を費やして、土中に埋まっていたエユップの墓を探しあてたという。征服王がそこにモスクとコムプレクスを築いたのは、征服から5年後の1458年のことである。
征服王が土中の墓を探しあてたという話は伝説に過ぎないようだ。なぜなら、ビザンテイン後期にもエユップの墓が残っていたという幾つかの記録があるからである。おそらく征服王はエユップの墓を修復あるいは改築したのであろう。
オスマンの歴代スルタンは即位後、「オスマンの剣」を帯びて、このモスクを訪れたという。1766年の地震で、このモスクは廃墟と化した。現在の建物は1800年、セリムⅢ世によって建てられたものであるという。


礼拝室
創建が1458年と、ミマールスィナンが活躍するより100年ほど前のものだとすると、八つの半ドームとペンデンティブに支えられたドームというのは、創建当時の様式ではなく、1800年頃の様式で行われたのだろう。

ミフラーブのある正面壁は窓が沢山あって、しかも朝日が差して明るい。
正壁には円柱はなく、ミフラーブの両側の付け柱2本、両側の2本ずつの円柱、入口側の2本の円柱にペンデンティブを架構している。

ミフラーブ上部はランプと吊り金具でよく見えないが、大理石に金色の付け柱を数本並べている。説教壇は尖り屋根が高々とのびている。

吊りランプは灯されていない。無色透明な細長いタイプと、藍色の碗形の二種類。
ステンドグラスは細い色の曲線がある程度で、ミマールスィナンの頃の華麗さとはだいぶ違う。

入口側
両側の円柱2本ずつと、入口側の円柱2本は大理石のドラムを積み重ねたもので、柱頭は扁平。入口上はマフフィル(特別席)、スルタン用だろうか。


中庭の反対側がエユップの霊廟で、壁面は区画して文様を変えたタイル装飾。

その中に赤い色も。もうこの時代にはトマトの赤と呼ばれた美しい赤の釉薬は枯渇し、赤といえども茶色に発色するということだったが、そこそこ赤く見える。
写真も色はそのままとはいかないが。


さて、エユップ廟には一度門から出て、右手のこの入口から入ることになっている。

それはただの入口で、靴を脱いだら袋に入れて、この両側タイル貼りの渡り廊下を進んでいく。


内部も一面のタイル貼り。右手の壁が、先ほどの中庭でタイル貼りの壁面だったところ。金色の格子の入った窓は、外からエユップの墓を拝むためのもの。
左の八角形の廟の中にエユップスルタンは眠っている。

墓の前には必ず祈りを捧げる人々がいるので、正面を避けて撮影。



窓の間には糸杉が2本。トプカプ宮殿ハーレムの糸杉のタイルとはかなり違う。



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参考文献
トンボの本『イスタンブール歴史散歩』 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社