エユップスルタンジャーミイ周辺の地図 Google Earth より
エユップのテレフェリクを降りて、エユップスルタンジャーミイへ向かった。テレフェリクの駅から右脇の道を通ると近道となる。
アーチの中は中庭になっていて、大きな木がその真ん中に植わっていて、エユップの廟は左手に、礼拝室は右手にあった。
『イスタンブール歴史散歩』は、預言者ムハンマドの盟友であり旗手でもあったアラブ人エユップ Abū Ayyūb al-Ansārī が埋葬されているのがエユップスルタンモスクである。
エユップはムハンマドの死後、アラブの最初のコンスタンティノープル包囲(674-678)に際して指揮官として戦って戦死し、城壁の外側のどこかに埋葬されたと伝えられていた。それから8世紀後、コンスタンティノープルを征服したメフメット二世は、世部下とともに7日間を費やして、土中に埋まっていたエユップの墓を探しあてたという。征服王がそこにモスクとコムプレクスを築いたのは、征服から5年後の1458年のことである。
征服王が土中の墓を探しあてたという話は伝説に過ぎないようだ。なぜなら、ビザンテイン後期にもエユップの墓が残っていたという幾つかの記録があるからである。おそらく征服王はエユップの墓を修復あるいは改築したのであろう。
オスマンの歴代スルタンは即位後、「オスマンの剣」を帯びて、このモスクを訪れたという。1766年の地震で、このモスクは廃墟と化した。現在の建物は1800年、セリムⅢ世によって建てられたものであるという。
礼拝室
創建が1458年と、ミマールスィナンが活躍するより100年ほど前のものだとすると、八つの半ドームとペンデンティブに支えられたドームというのは、創建当時の様式ではなく、1800年頃の様式で行われたのだろう。
正壁には円柱はなく、ミフラーブの両側の付け柱2本、両側の2本ずつの円柱、入口側の2本の円柱にペンデンティブを架構している。
入口側
両側の円柱2本ずつと、入口側の円柱2本は大理石のドラムを積み重ねたもので、柱頭は扁平。入口上はマフフィル(特別席)、スルタン用だろうか。
さて、エユップ廟には一度門から出て、右手のこの入口から入ることになっている。
それはただの入口で、靴を脱いだら袋に入れて、この両側タイル貼りの渡り廊下を進んでいく。
内部も一面のタイル貼り。右手の壁が、先ほどの中庭でタイル貼りの壁面だったところ。金色の格子の入った窓は、外からエユップの墓を拝むためのもの。
関連記事
トンボの本『イスタンブール歴史散歩』 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社