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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2021年3月9日火曜日

天水 麦積山石窟 9窟から5窟 


13窟の東崖大仏の右にある階段を上り詰めると屋根のある9窟に。

『天水麦積山』は、北周開鑿。宋、明、清に重修した。約20mの長さの大型崖閣式の建築である。前に桟閣があり、後ろに一列になった七龕があり、また「中七仏閣」とも称される。1982年に補強工事の際、元の構造通りに鉄筋コンクリート構造で再建した。壁画は約60㎡が残っているが、明、清に再度描いたものである。
各龕に一仏二弟子あるいは二菩薩塑像があり、龕中の主尊の数によって七仏になっている。現存する塑像は19体は宋、明、清に修復したものであるという。
過去七仏を表すことは北周期に流行したという。

7龕 一仏二菩薩像
宋代の二菩薩は穏やかな表情をしているが、着衣が北周期の菩薩像とは全く違っている。

6龕 一仏二菩薩像
白衣観音のように、衣を頭から被っているようにも見えるが、彩色により田相の大衣を表す。衣褶の襞と田相の区画が会わない。

5龕 一仏二菩薩像(一体が欠失)
如来の顔や体の黒い部分は隈取りなどの顔料が経年で酸化している。

4龕
釈迦と二弟子の阿難と迦葉。迦葉は阿難を睨んでいるような険しい表情をしている。
『天水麦積山』は、第4龕の頂部に共命鳥を描いて、双頭の少年男子のイメージをして、翼と鳥爪は奇抜であるという。
これはコウモリのような翼を持っていて、迦楼羅という。
双頭の共命鳥は上図の左側というか、阿難の頭上に表され、
迦葉の上も、双頭の共命鳥が描かれていた。時代は不明だが👀

3龕 
一仏二菩薩像
菩薩は顔も体もふっくらと表されている。

2龕 一仏二菩薩像

1龕 一仏二菩薩像

反対側から眺める。どちらから一龕、二龕と数えるのかわからなかったので、東側からとした😅
脇侍菩薩は宋代の穏やかな表現のものが多い。
麦積山石窟9窟 北周(宋・明・清重修) 『麦積山風景名勝』より

この廊閣を出ると、頭上には3段の千仏が始まっていた。3窟とされている。
9窟の屋根の上には4段にわたって並び、その上に桟道がある。

その続きの岩壁は、風化が進んでいるが、やはり千仏の浮彫のよう。


7窟 北周(557-581)

内部は奥行があり、奥壁の龕内には如来坐像、おそらく左右の側壁には如来坐像が6体彫り出されていて、七仏が表されているのだろう。
中尊は釈迦如来で結跏趺坐して右手は施無畏印だが左手は手のひらを下にして膝の上に置いている。
9窟の七仏像との違いは、頭部が小さいこと、着衣が厚いこと、結跏趺坐した膝と台座に段がないことなど。

6窟 北周

中は岩の塊だけに見えるけれど・・・🤨 

何故かこの階段には168窟という名称が付いている。
北周期に岩を彫り出して造られたものという。
『麦積山石窟』は、東崖の入口に、石の廊道がある。続きに岩を削った14mの斜廊があり、168窟とされている。これをのぼると3窟があるという。
見上げると、石段は角が立って、摩耗はあまり見られないように見えたが、実際に足を置いていくと、非常に脆い礫岩なのだった。

石段を壊さないように上っていくと、3窟、4窟、5窟と屋根のある通廊が続いている。
麦積山石窟東崖主要窟 『中国石窟 天水麦積山』より

3窟 外観
4段の千仏の上に桟道が付き、更に2段に千仏が表されている。

『麦積山石窟』は、残存状況から推測すると、崖壁にトンネルを通して、外側に明かり取り窓を開いた。木造の天井を忠実に表現する。現在のところ、虹梁の形の梁を彫り出した最古の例であるという。
見学用に取り付けられたのではなく、開鑿時に、2段の千仏を拝観するための廊下が彫り出されたのだった。
でも、仏像を見ながら通ったので、天井は見なかったなあ😆
麦積山石窟3窟の推定復元図  『天水麦積山』より

千仏 北周(557-581) 明重修
『天水麦積山』は、廊道をのぼると3窟がある。水平な廊下は37mで14間あり、廊下の天井には梁が出て、木造建築を倣って人字披天井にしている。2段に石胎泥塑の千仏が96体、宋、明の重修を受けている。廊下の下には4段の千仏が201体あり、これらは北周期のままである。上下合わせて297体の千仏が彫り出されている。千仏は結跏趺坐し、変化はあるものの肉髻が表現され、高さはそれぞれ0.9mであるという。
通路脇の千仏は金網で保護されていた。体躯の3/4ほどと頭光が彫り出されているが、後頭部や背中は壁の中。
限られた空間に彫り出されているためか膝の奥行がほとんどないが、じっくり見ていると、それぞれに個性がある。
通路天井の彫り出した垂木が残っている箇所もある。

通肩の着衣の如来坐像

これも通肩だが、上半身が短く感じる。両手は大衣の襞の中に隠れている
双領下垂式で、装飾的な僧祇支(下着)が見える。
印相を結ばない如来も。

3窟の千仏群が終わるとまた階段。

4・5窟 
高さ80mのところに開鑿された。
4窟は修復中で養生のネットがかかり、外観が見えなかったのが残念😑
それでも、上部にあいた大小数々の穴が、立派な屋根や庇が造られていたことを今に伝えている。

4窟 北周、隋 唐、宋、明重修
『天水麦積山』は、七間八柱だが、現存は両端の2本。前側に通廊があり、正壁は方形四角錐尖頂に帳が表された龕が7つ。廊下の左右壁に耳龕が各一つ、左壁の下に5窟に通じるトンネルがあるという。
麦積山石窟4窟外観 『中国石窟 天水麦積山』より

階段から廊下に出ると足場の向こうに阿形の金剛力士(宋)が右腕を振り上げていた。
そして龕は足場のおかげで表情に見にくい😣 (2019年11月現在)

足場と他の見学者を避けながら写したので、どの窟かわからないが、写した順(西から)に番号を付けた。

1龕 一仏二弟子六菩薩
左右の側壁には各3体の菩薩があった。

2龕 一仏二弟子六菩薩
同じく左右の側壁に菩薩が3体ずつ。壁面上部には塑造の千仏が並ぶ。

3龕 一仏二菩薩、六菩薩


4龕 一仏二弟子六菩薩


5・6・7龕は写せなかったが、足場のか天井や壁面の装飾が見えた。
天龍八部衆の1体
天龍八部衆の一人の足の間に獅子がいた。

廊右壁上部には阿難?
金剛力士吽像 宋代

修復以前の4窟
龕門の周囲に北周期の浮彫や壁画がよく残り、本来ならこのように鑑賞できたのだ。
それについては後日
麦積山石窟4窟 『麦積山風景名勝』より

壁面の向きが変わるので、短いトンネルを通って5窟へ。
麦積山石窟東崖4窟から5窟に抜けるトンネル 『麦積山風景名勝』より

5窟は木造の建物の組物などが彫り出されている。

5窟 隋代(581-618)

立面図
『天水麦積山』は、現在は窟廊が崩壊している。窟幅15mという。
法隆寺と同じ人字形割束がある。
麦積山石窟5窟立面図  『中国石窟 天水麦積山』より

1龕 如来倚像 幅4.48m 初唐(618-712)
現状は明代の重修という。

踏牛天王像は動きのない姿勢で、その向こうは中央の窟だが、

牛を踏む天王像は珍しい。

中央窟 一仏二弟子二菩薩 幅5.11m
網戸が閉まっている。その網目を通して見えたのは、結跏趺坐する如来の脚部と左手が左膝に置かれていること、そして、北周期よりも膝に奥行があり、台座に懸かる裳裾は柔らかな襞が見られること。隋代の仏像だろうか。
右壁の3像は田相の区画が見える。これも明重修の特徴かな🤔 よくわからない

3龕 一仏二菩薩 幅5.01m

5窟も古い壁画が残っていた。それについては忘れへんうちににて

ここから一番高い桟道を歩くことになる。

段々と周囲が白っぽくなってきて、雪がちらちらと舞い始めた。


関連項目

参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「麦積山風景名勝 李克強撮影集」 2014年 天水市旅游局