その道すがら、やや高い所を通るバスの車窓に飛び込んできたのは、奇妙な岩とその上の塔だった。下に広がる赤い屋根の家々が街全体のよう。
饗庭孝男氏は『フランス・ロマネスク』で、オーヴェルニュ地方は山にかこまれた、かつての火山地帯に属し、谷のくぼみに湖があり、火山岩の下から、たとえばヴォルヴィックのような地下水が噴出する。やや日本の風景に似ていると感じられるのは、その火山地帯がつくりだす風景のせいであろう。この土地では山林業や牧畜が盛んで、名高いサンネクテールやカンタルのチーズができる。
歴史的にみると孤立しているようであるが、西ゴート族が侵入し、ノルマンが荒した事実がある。それにかつてはフランスの南部の多くを占めていたアキテーヌ公の領土でもあった。しかし、キリスト教が修道院や教会を建てるには、その孤立した山地が多いだけに格好の場所であり、世にも知られた僧職者を輩出している。キリスト教布教のさいに働いたのは、3世紀の聖オストルモワンヌであった。のちの教皇シルヴエステル2世はオーリヤックの修道院の出であり、クリュニー修道院長のオディロはブリウットからでているという。
教会の格付けの話よりも、幹線から外れてラヴォデュに向かっていると見えた、今にも霧に包まれてしまいそうな町と、畑と町の間の花盛りのこの景色。
集落に入ってサンタンドレ教会を見学し、橋を渡って川沿いの道を歩いた。
葉の出ていない木の向こうにサンタンドレ教会 L'Église Saint-André の鐘楼が!
この教会について記載のある書物がほとんどなく、フランスの美しい村のラヴォデュー/LAVAUDIEUは、フランス革命前まで修道女達が生活を共にした大修道院は、オーヴェルニュ地方で唯一のロマネスク様式の回廊を有しているという。
すぐに鐘楼が見えて教会とわかった。鐘楼がなければ、ただの建物と思ったかも。
ロマネスク美術とロマネスク建築のラヴォデュ(Lavaudieu)<1>にゾディアック(Zodiaque)la nuit des temps の『Auvergne Romane』による平面図があって、この壁の内側は、ゴシック様式の側廊となっている。
『フランス・ロマネスク』は、創立当初は、3つの梁間をもつ身廊一つであった。内陣は半円形であり、小さな二つの祭室があった。現在、入り口に向かって左側にゴシック時代にできた側廊がある。「大革命」のときもあまり教会が小さすぎて略奪をまぬがれたという。しかし19世紀から今世紀のはじめまで、長い間打ち棄てられていたのであるという。
鐘楼は、外側にスキンチ(扇形の曲面)の張出を設けて八角形を導いているのがはっきりと見える。この辺りが同じくスキンチを用いて八角形を造り出しても、その上に真円のドームが乗るビザンティンの聖堂(オシオス・ルカス修道院主聖堂の主ドーム、1040-50年)やイスラームのモスク(ブハラのサーマーン廟、10世紀半ば)との違いだ。
この鐘楼はまぎれもなく赤い玄武岩で造られたもの。フランスの美しい村のラヴォデュー/LAVAUDIEU(以下『フランスの美しい村』)は、大修道院のすぐ脇に佇むサン・タンドレ教会は11~12世紀に建てられたもので、ロマネスク様式の美しい外観が印象的である。フランス革命の際には鐘楼の上部に取り付けられていた尖塔が失われてしまい、丸みを帯びた独特な形状の屋根が被せられたという。
教会の西ファサード・・・というほどでもない。というよりも痛ましい。
『フランスの美しい村』は、教会内に足を踏み入れると、12-18世紀の美しい壁画が目を惹く。14世紀イタリア美術の影響を受けている作品が多く、ルネサンスの萌芽を感じることが出来る。その中でも中世ヨーロッパで猛威を奮ったペストを寓意した壁画は一番の見どころという。
壁画の壁の奥が十字交差部になっていた。
その天井は四隅がスキンチとなっているが、現在では何もない。この上に鐘楼が乗っている。
一般的に十字交差部の上は四方にスキンチアーチ(フランス語ではトロンプ trompe、日本語では入隅迫持。しかし『フランス・ロマネスク』の著者饗庭孝男氏は扇形という日本人には分かり易い言葉を使っている)をつくって八角形を導いている。この教会ではその比率が√2の正八角形だが、どう見てもスキンチが小さく、四辺が長いものもある。この辺りが八角形なので融通がきいたのかも。正方形→正八角形→正十六角形(→三十二角形)→円形というイスラームのモスクや墓廟に真円ドームを架構する幾何学に適った構成とはかなり違ように感じる。
その奥に後陣があったが、どういうわけか写していなかった。
柱頭彫刻はどの聖堂もピンボケが多く、サンタンドレ教会も例外ではない。
他にも壁画や柱頭彫刻も写したが、ピンボケばかり。とりあえず後日忘れへんうちににまとめます。
この教会のあるところは広場のようになっていて、向かいには村役場がある集落の中心部である。
この広いとは言えない広場には古い井戸や、
ラヴォデュー/LAVAUDIEUは、1779年に鋳造された鉄製の十字架がシンボルとなっている中央広場に面して、オーベルニュ民芸・伝統文化資料館が佇んでいる。かつてのパン屋の建物を利用しており、農具や衣服など19世紀終わり頃に営まれていたこの地域の日常生活を今に伝えている。
毎年7月14日の革命記念日には、ワイン祭りが盛大に催される。フランス革命の際に、この村の住民が聖職者の財産や近郊の街ラ・シェーズ・デューの修道士のために保管していたワインの大樽を奪い取ったことに由来しており、大樽にたっぷりと用意された赤ワインが振舞われるという。
右のやや色の濃い建物はかつてのパン屋だった。
少しずつその遺構が見えてきた。
回り込むと三つ目の扶壁でこの遺構は終わった。
後陣のステンドグラスは外側から鉄製の金具で厳重に保護されているみたいだ。
『フランス・ロマネスク』は、サンタンドレ教会は修道院に属しているが、同様に村の日常の教会でもある。ここから北東30㎞離れた「ラシェーズディユー」の聖ロベールが1058年にこのラヴォディユーに設立したものであった。この孤独のなかに厳しい修道生活を送ったのは修道女たちである。ラウルドリュジャックが、その土地を寄進したのは1050年のころであった。彼女たちが入ったのは1058年からであると記録には残っている。この修道院の名前は、もとサンタンドレドコンで、1487年までそれでとおっていた。17世紀には25人の修道女がいたという。「大革命」のときは13人に減ったが、すべて土地の貴族の出であった。しかし、のちに荒されるが、1966年から67年にかけて改修され、地方の民俗的な味わいを取り戻したのであるという。
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参考サイト
参考文献
「フランス・ロマネスク」 饗庭孝男 1999年 山川出版社