ラヴォデュへ向かう車窓から見えたブリウド Brioude の町。
サンジュリアン聖堂 Basilique Saint-Julien(バジリクはローマ教皇がバジリカと名乗ることを許した聖堂で、一般の教会よりも格が高い)の八角形の鐘楼が、今にも霧に包まれてしまいそう。
サンジュリアン聖堂は町の中心にある。
フランス ロマネスク散策のブリウド(以下『ロマネスク散策』)は、ブリウド南部で発見されたラ・テーヌ文化期の遺物から、その当時からこの地で集落が形成されていたことが明らかになっている。近年の考古学調査で、サンジュリアン大聖堂の近くに、初期キリスト教時代の洗礼堂やメロヴィング朝時代の教会堂の跡が見つかっている。しかしブリウドの名が広く知られるようになるのは、4世紀頃この地で殉教した St-Julien 聖ユリアヌス信仰が広まってからのこと。6世紀頃には Bribate と呼ばれていたという。
Google Earth より
バスを降りてサンジュリアン聖堂へ。
この通りを渡って直進すると、目に飛び込んできたのはサンジュリアン聖堂の後陣。
まず見えたのは聖堂の東面。放射状に内陣を囲む複数の小礼拝堂、その上に後陣。またその上に正方形から八角形に立ち上がった鐘楼という構成。
『La Basilique Saint-Julien de Brioude』(以下『Saint-Julien』)は、19世紀にブラヴァール Bravard とマレー Mallay によって再建された2つの鐘楼は、クレルモン地方の類型を参考にして、多色の石材を使ってネオロマネスクの建造物となったという。
このマレーとは、エイモン・マレ氏で、ルピュイのサンミシェルデギュイユ礼拝堂の平面図を作成した建築学者である。
また『ロマネスク散策』は、後陣は1180年頃建てられた。後陣は5つの放射状祭室がある周歩廊、内陣で構成される。バッス・オーヴェルニュの五大ロマネスク教会堂とは異なり、ブリウドの大聖堂には、トランセプトの上にマシフ・バーロンはない。
マシフ・バーロンとは、十字交差部の上に、建物の主軸に交わるようにして設置された横長の平行六面体。マシフ・バーロンには連続アーチの装飾がある。オーヴェルニュのロマネスク大教会の特徴という。
マッシフ・バーロンではないとはいえ、放射状祭室、その上に内陣と積み重ねられたその背後にあるもの、言い換えると鐘楼の下部のアーチも開口部もない、赤い壁体はこれまで見てきた教会にはないものだ。
バッス・オーヴェルニュ Basse Auvergne はオーヴェルニュ南部を指す。
沢山の放射状祭室や後陣の軒下飾り(モディヨン modillon)や柱頭彫刻が見えている。
それらについては後日忘れへんうちににて
平面図。
鐘楼
『ロマネスク散策』は、トランセプト交差部に聳える鐘楼には、中世末に尖塔が取り付けられたが、革命時にその尖塔は落とされた。19世紀、鐘楼は建築家マレにより再建された。今日の鐘楼の尖塔までの高さは、53mに達するという。
南側の後陣を見ながら聖堂の北側に回り込んだ。
祭室B
祭室B-A
そんな風に後陣側を見ながら北側に回り込んだ。
北翼廊
『ロマネスク散策』は、トランセプトは南北に張り出していない。ここに見える半円筒型の開口部は、柱頭彫刻がある小円柱で装飾されているという。
翼廊(トランセプト)は、教会の一般的な平面がラテン十字架の形になっていて、その十字架の横の板にあたる箇所を指す。それが出っ張っていなくても、後陣側からみれば、その存在感は目立つものだった。
上方の軒下飾り、そして不思議な半円アーチ
アーチの技術は祭室などと比べようがないが、エンタブラチュア(フランス語ではアンターブルマン entablement)を簡素化したような軒状のものが白い石でつくられている。
窓の3本の円柱は、両側がアカンサス由来の葉文様で、中央はアカンサスの葉から髭面の人物が大きく顔を出している。
その下は半円アーチで、アルシヴォルトの外枠はパルメット蔓草のよで、柱頭は開き方の少ないアカンサスとなっている。黒石を使っておしゃれ。
北側から聖堂に向かうのに、こんなトンネルをくぐらなければならなかった。
聖堂北側は、建造または修復の繰り返しで、壁面のつくりが多種多様。
教会堂は近隣の採石場で産出された、色・種類共にヴァリエーションに富む石で建てられていて、黒と赤の玄武岩、グレーとピンクの大理石、赤い砂岩、石灰質の砂岩、花崗岩といった石が使われているという。
それらの岩石は、カラフルさを追求して用いられたのか。その修復の時々に、それぞれに用いられた岩石の寄せ集めかと思っていた。
特に三角破風のところは、菱形に成形した白と黒の石を縦に二段交互に配置したり、横に二段交互に並べて杉綾文様(シェヴロン chevron、ヘリンボーン)にしたりして、黒い切石の間でインパクトがある。
北の入口は交差天井になっていて、
扉口の上は尖頭アーチのタンパンなのだが、とても妙なものだった。
堂内
北側廊から後陣の放射状祭室
やっぱり尖頭交差ヴォールト
『Saint-Julien』は、工事は内陣の完成直後 (13-14 世紀) に始まった。ロマネスク様式の円筒ヴォールトよりも明るいゴシック様式を優先して上部に光を入れた。
長さ : 78m 幅 : 22m 八角形の尖塔の頂上までの高さ:53m 柱間 : 5つという。
ロマネスク様式時代の狭い身廊はそのまんま。外側と同じく堂内も様々な色の石材を使っているので、外からの光と相俟って明るく感じる。
十字交差部から西ファサード側
光が堂内をステンドグラスの色に染めている。
十字交差部の上というか鐘楼との境は、丸みのあるリブによる交差天井になっている。四方のアーチも半円で、身廊や側廊がゴシック様式の尖頭交差ヴォールトなのに対してロマネスク様式をとどめている。
堂内の床は石のモザイク 16世紀
河原の石(ペブル)で文様を描いているが、シキュオンのペブル・モザイク(前4世紀)の細かさとは比べようがない。
『ロマネスク散策』は、身廊と側廊の床は、石畳で覆われている。河川の礫で造られたモノクロームのモザイクは16世紀に遡り、花模様、組み合わせ模様、渦巻き模様等を描くという。
でも、石には赤っぽいものもあるので、カラフルに写っている。
華麗な祭壇を円柱が取り巻く。
内陣脇からクリプトへ下りるところでパイプオルガン(フランス語では短くオルグ orgue)発見。こんなところにあるのは珍しい。たいていは西ファサード上部にあるのに。
このクリプトは非常に素朴なつくり、古そうだ。
『ロマネスク散策』は、内陣の下に位置するクリプトは、長方形プランの交差ヴォールトで覆われた小さなスペースと、放射状のヴォールトで覆われた半円プランのアプスで構成されている。
17世紀に再整備されたクリプトは、最初のサンクチュアリが建てられた場所で、これはサン・ジュリアンの墓の上に建てられたとされる。
サン・ジュリアンの墓の周りには、456又は457年に亡くなった西ローマ皇帝アウィトゥスや、918年に亡くなった、クリュニー修道院創設者であるアキテーヌ公ギヨーム1世等といった人物らが埋葬された。
クリプトには、メロヴィング朝時代の教会堂を飾っていた大理石の円柱が残されているという。
大理石の円柱は気が付かなかった。
クリプトでは、サン・ジュリアンの聖遺骨が19世紀に制作された聖遺物箱の中におさめられているという。
聖遺物箱
『Sant-Julien』は、聖ジュリアンとその仲間である聖アルコンスと聖イルピゼの聖遺物が安置されているという。
天井画はアポカリプス
ステンドグラスは古くなさそう
西ファサード側に戻って、ナルテクス北側と
この聖堂のもう一つの特徴は、南西側の階上にサンジュリアン礼拝堂があること。
『ロマネスク散策』は、ナルテックスの上階部分の建設は、1100-1140年の間に遡るという。
南扉口から出て振り返ると、タンパンはないが、飾り迫縁(アルシヴォルト)にも細かな文様が描かれていた。それに扉にも赤い顔料が残っている。
植物の文様らしいが他のところでは見られないような・・・
タンパンには太陽のような、ロゼットのようなものや、黒いユリの紋章 Fleur-de-lis がちりばめられている。
『ロマネスク散策』は、かつては動物の皮で覆われていたという扉には、ロマネスク期のPenture(鉄の装飾)が残るという。
植物の茎や蔓が伸びていく様子をみごとに作り出している。
そして、『Saint-Julien』は、左側のノッカーにはいたずら好きな猿の顔、右側のノッカーにはライオンの頭が表されているという。
南扉口から出て、南側廊側を通って見学終了
関連項目
参考サイト
参考文献
「La Basilique Saint-Julien de Brioude」2017年