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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2018年9月13日木曜日

カオール 旧市街に迷い込む


カオールはロット川がU字形に蛇行した内側にある町で、その東⅓の細長いところが旧市街になっている。カベシュ橋(Pont de Cabessut)を渡って旧市街の北側を歩いてみた。

シャトーデュロワ通り(Rue du Château du Roi、王の城通り)というが、とても狭い。尖頭アーチや半円アーチの建物が並んでいる。
そして登り坂
この扉、今でも使われているのかな?
その先にちょっと出っ張った建物が。
一階から張り出して上階を建てるのは、当時の税金の取り方に関係しているらしく、フランスだけでなく、スペインやトルコなどでも同じようなことを言っていた。右隅には石造のモディヨン(軒下飾り)があるが、二軒続けて木材で出っ張らせてあり、上階も木材の目立つコロンバージュ(colonbages、木骨造)。
レンガ造の方は窓がなく、天井板が見えるけど、改装するとなくなってしまうだろうな。
落書きのあるガラス窓の方はよくわからないが、71番地の新しいドアの方はシャトーデュロワ・レジデンス(Residence Câteau du Roi)となつていてロット県の運営する何かのよう。
その隣の路地から若い男の子が出てきたので、ちょっと入ってみた(写真は通路の出口から)。
小さな中庭に入って左の建物は、以前は通路だったような尖頭アーチがレンガで塞いであるみたい。
その建物の中庭に面したところに木造のバルコニーか階段のようなものが。
中庭の片隅にツリフネソウが咲いていた。
どこにピントが合っているのやら・・・日本の花よりも白い部分が多い。魔が差して正解!
中庭の東側に通路があったので、
入ってみると何軒かの住宅があるみたいで、この先にもどこかに通じる狭い道がありそうだったけど、時間の都合で思いとどまった。
壁に生えているのは、朝ヴァラントレ橋へ向かう道端で見つけたトキワハゼだった。
浅い尖頭アーチが続く。
扉は17世紀のもので修復されたという。

四角い窓はルネサンス期のもの?


レオン・ガンベッタ大通り(Boulvard Léon Gambetta)に通じる鄙びたヴィダル通り(R.Vidal)。

シャトーデュロワ通りには青銅の門の大きな建物。
その前にJ.F.フェイデル通り(R.J.F.Feydel)。ガンベッタ大通りとの距離が縮まってきた。
もっと遠くから見ると、これが橋や東岸から見えた名称不明の角塔だったことが分かった。地図シャトーデュロワ(Château du Roi)、王の城館なのだった。
説明パネルは、城館の最初の持ち主は1232年に異端を宣告されたアルノ・デ・プレ・ドゥ・モンペザ(Arnaud des Prez de MOntpezat)である。1326年城館はヨハネパウロ22世の親戚のヴィア(Via)家に譲られた。飾り格子のある美しい窓が谷側に開かれ、住居としての天守閣を造ったのは彼らだろう。宮殿がシャトーデュロワとなったのは15世紀のことに過ぎない。その時フランス国王のケルシー地方の代官が置かれた。最終的にフランス革命以来牢獄となっていたという。

王の城館の向かいには2つの建物の壁が合体した(懲りずにパノラマ合成)1270年建立のグロシア病院(Ancien Hôpital de Grossia)。
説明パネルは、13世紀末にジェロ・グロ(Géraud Gros)という商人の遺言によって設立されたという。
このゴシック様式のアーチは見上げるとあまり美しくないが、
パネルて見るとこんな形。他の窓は塗り込められて四角い窓になっているが、建立当時はこのような尖頭アーチの窓が並んでいたのだった。
その2つの建物の間の通路はフイヤク通り(R.de Fouillac)>
レンガや石材などが入り混じって、急いで建てたのではないかと思うような壁が尖頭アーチの上に残っていて、
反対側から見ると、尖頭アーチの壁龕が2つ並んでいたように見えた。
その奥はフォンデュ・オート通り(R.Fondue Haute)につながっている。フォンデュ・オート通りは長々と南に延びて、市庁舎(Hôtel de Ville)を挟んで、フォンデュ・バ通り(R.Fondue Bas)へと続いている。
シャトーデュロワ通りに戻ると、正面の路地はドゥヴィア通り(R.Devia、何故かde Via、ヴィアではない)というれっきとした通りだった。これはヴィア家の名から取られた名称だろう。
ちょっと入り込んでみよう。
下から人がやって来たので、川沿いの道路に通じているようだ。カベシュ橋あたりでは川筋の道路とあまり変わらない高さだったシャトーデュロワ通りだが、緩い登り坂だったので気付かなかったが、ここまで来ると高低差がかなりあるのだった。

この先はシャトーデュロワ通りからスビル通り(R.Soubirous)に名が変わる。
この辺りも古い建物を改築しながら住んできた住宅が続く。
板が乱雑に張り付けられていていたましい地上階は尖頭アーチのゴシック様式、上階の十字窓はルネサンス期のもの。

ドゥヴィア通りを挟んだ大きな建物は小学校のようで、奥に扉口があって、
今までにない変わった装飾で、アーチではなく矩形の開口部。ルネサンス期以降のものだろうが、その上に部分的に補強アーチが見えている。
その上の装飾。向かい合う二人の人物の間に何かがある。その下にはトカゲのような動物が2匹。

登り坂は続き、自転車の若者に追い越された。蔦の絡まる建物は中学校。
その木造の箇所を納戸色に塗ったおうち。
行き止まりのピエールドベルニ小路(R.Pierre de Bernie)の奥に尖頭アーチの上に建物があったので、入っていくと右手はレンガ造の遺構で、
左には二階が張り出したレンガと木材のコロンバージュの家だった。
レンガが密に積んであるのと、モルタルとレンガが混ざっているところがあるが、こちらの方が古く、レンガだけのものは修復されたものではないかと思う。
そして尖頭アーチの中へ。
天井はすっきりとした尖頭ヴォールトではなく、入り組んでいて表現不可能。右上などはレンガだけがぶら下がったようになっていて、落ちてこないかと心配。奥は木造の部分もあるようで、
反対側から見ると梁と板の天井を棒を斜めにして補強してあった。
そしてその奥は少し広くなっていて、プライベートな空間に入り込んでしまって落ち着かず、集合住宅(4軒)の玄関を写すに留まった。この扉もある程度の歴史がありそう。
失礼しました。

スビル通りに戻ってパン屋の看板を見つけた。まだ暗いうちからパンを焼いている様子がよくわかり、その上かわゆい。でもパン屋はもうなかった。

少し先に小さなシタデル広場(要塞という意味、Place de la Citadelle)。要塞を取り壊した時にできた広場かな。
このあたりは平たい。来し方を振り返る。
そして広場の横丁に入ってみると古い壁が塞いでいた。これが要塞の一部だったのかも。
隙間から眺めると、ロット川はずっと下の方にあり、丘が高くなってきたことが分かった。
左側のお宅の屋根。壁面は古くはなさそうだが、瓦の葺き方が独特。
柵から覗いてみると、複雑な構造になっていて、左の階段から物を運んでいた人がアーチの下へと降りていった。
アーチの上の丸いステンドグラスは、聖母を表しているのかな?

スビル通りはここからサンバルテルミ通り(R.St-Barthélemy)に変わる。
左手のマルセル・パニョル通り(R.Marcel Pagnol)。ガンベッタ大通りはすぐ前にある。

やっとサンバルテルミ教会の角塔が顔を出した。
その手前の木組みの家。木製のモディヨン(軒下飾り)は鋸の刃型に刻まれているだけだが風情がある。
その下をエドモン・アルブ通り(R.Edmond Albe)が通っていて、ガンベッタ大通りの向こうの並木が見えている。

続いてバルテルミ教会の手前にトゥール通り(R.de la Tour、塔通り)。
その間を見ていると、プチトラン(PETIT TRAIN)の最後の車両が右方向に消えていくのが見えた。後で伺うと、ツアーの他の人たちはそのプチトランでカオール巡りをされたそうで、行きはガンベッタ大通り、帰りはバルバカヌと北壁まで行った後、バルテルミ通りからシャトードュロワ通りへと名を変えて続くこの狭い通りも通ったそう。ただ通るだけでなく、いろんな建物の説明あって楽しめたとか。

その後何故私がこちらに向かうプチトランと出くわさなかったのか、そしてバルテルミ教会内部については次回


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参考にしたもの
カオール観光局のCahors PLAN DÉCOUVERTEというリーフレット