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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2021年3月16日火曜日

天水 麦積山石窟 西崖区


麦積山石窟西崖区
麦積山石窟西崖区 『中国石窟芸術 麦積山』より

東崖区最上段の5窟を見学後西端まで移動。階段手前で渋滞。いつの間にか見学者がこんなに増えていた。雪がちらちらと舞って白んでいる中に、瑞応寺の建物だけがくっきりと浮かんでいる。

階段を降りながら雪の舞っているところを撮影したが、景色が霞んでいる風にしか写っていない😑


真下をのぞく。実は西遊旅行では「黄土高原十大石窟 仏教美術の旅」というコースをかなり以前からやっていたが、いつも寒い時期に催行されるので、通路が凍って、滑って落ちるのではないかと、粗忽な私は心配で、これまで参加するのをためらっていたのだった。
しかし来てみると通路と柵は頑丈に付けてあったので、雪が降り出しても不安はなかった。

岩肌に屋根あるいは楼閣状のものを取り付けた時の穴が幾つもあった。下に東崖区の階段が見えるが、途中から向こうの階段には行き来できない。

桟道の裏側

ジグザグの階段をどんどんと降りていき、


階段が終わったところで桟道の西の端へ。136窟(北周、557-581)があったが、鍵が掛かっていた。
如来坐像や菩薩坐像などが残っているが、宋代重修。壁画は宋代。

この桟道の端は98窟の大仏と丁度同じ高さだった。

その下の階の桟道は東へ長く延びていて、東側には幾つか窟があったが写せたのは141窟のみ。

141窟 北周(557-581)

『中国石窟芸術』は、平面は方形で覆斗式天井、3壁7龕の窟。幅3.08、奥行2.80、通高268m。窟頂中央方形の区画に大きな蓮華が彫り出されている。
正壁の龕には如来坐像、外側に2脇侍菩薩。
両側の壁に3龕、龕内には一仏ずつあり、正壁の龕と合わせて七仏となっているという。
七仏は北周期に始まったのだった。
『中国石窟芸術』は龕は円拱形で、龕楣は先端が尖って、両端は渦巻いている。龕柱は上部に宝珠が浮彫されている。
主尊は須弥座のうえに結跏趺坐するが、裳裾が覆っているという。
西魏(535-556)の如来の着衣の特徴は、台座がわからないくらい何枚も重なった裳裾が品字形衣端を表しているが、次の時代になると結跏趺坐した脚部が着衣を通してわかるようになるが、台座にかかる衣端の表現がいい加減になってしまう。

同じ階を西に向かい、階段を降りると133窟

別名万仏洞 北魏晩期、五代、宋、元重修 

釈迦及び羅睺羅像 塑造 
小さな入口をくぐるとき、目の前には仏像の腹部があった。それほど高い釈迦如来が立っていた。
『天水麦積山』は、崖下から約48mの高さにあり、窟内通高5.97m、幅14.94m、奥行13m。
入口の高い仏像は3.10m、その前の弟子は1.44m。『仏本行集経』は、6年の苦行の後悟りを開いた釈迦は王城に帰り、初めて我が子羅睺羅と会った。羅睺羅は15歳で出家し、十大弟子の一人となったという。

窟内には仏像や造像碑などが適当に置かれているといった雰囲気だった。
丁さんによると、造像碑は廃仏時に破壊されないようにと運び込まれた。北周の武帝の廃仏か、唐の武帝の廃仏(会昌の廃仏)かな。
133窟は高い場所にあるので廃仏は免れたが、天井が自然に崩落したのだそう。そのせいで、北魏時代の主尊がなく、宋代にこれまでなかったような釈迦と羅睺羅が対面するというような場面が造像されたのだ。
仏像や造像碑についてはこちら

133窟の向こうには98窟の東崖大仏(北魏造像宋代重修)。左脇侍のほとんど残っていない姿が痛々しい。


この小さな窟は154窟 北魏
如来坐像が正・左・右壁に塑造の如来坐像があり、三世仏となっている。

その下には148窟の説明パネル。148窟(北魏)についてはこちら

さらに階段を降りていくと、大仏や右脇侍菩薩の着衣が見えるようになり、

ついには大仏の足元の高さへ。13窟の東崖大仏は倚像だったが、この98窟の大仏は立像。雲の上に立っているのだそう。


小さな窟、あるいは龕にも一つ一つ番号がついている。
167窟(北魏、98窟の大仏の雲により破壊)、88窟(西魏、北周重修)、187窟(時代不明)など。

大仏を真下から見上げる。創建が北魏とはいっても、顔も着衣も、足を置く雲も北魏のものではない。


大仏の下を過ぎて
87窟 西魏(535-557)
正壁と左右壁に三世仏の坐像

86窟 北魏(386-534)
正壁塑に造如来坐像のほか、各壁の小龕に如来坐像や如来交脚像など

170窟 北魏(386-534)
巨大な仏像があったのかな?それとも廃仏に遭ったとか。
『天水麦積山』は、円圏龕で龕内左側に塑造脇侍菩薩1体と飛天1身があるというのだが・・・

その後は上っていく。

折り返して上階へ。どんどんと遅れていくので、龕や窟があっても中を写せなかった。


桟道の端までいくと反対側から大仏が見えてきた。この高さから横顔を見るとそう変な顔でもないのだが・・・


戻っていく間に並んでいた窟

117・118窟 ともに北魏開鑿宋代重修

116窟(北魏開鑿宋代重修)に続いて小さな祠のような窟が並んでいる。


塑像が置かれている窟も。なんとなくエジプトのミイラや、ポンペイの空間に充塡して人体の形になったものが収蔵されている記憶と重なる👀


更に上の階へ。

小さな122(北魏開鑿宋代重修)窟の奥の121窟が三つ目の特別窟。
121窟(北魏開鑿宋代重修)も小さな窟で、階段を上がって一人ずつ中を見学したがもちろん撮影禁止。
ここの像はとても可愛い。後日詳しく😊

他の人が中を見学している間に桟道の奥までいってみた。

115窟 北魏景明3年(502)
『天水麦積山』は、正壁に塑造如来坐像、左壁塑造脇侍菩薩、左右壁上部に浮彫如来坐像が各2体。各面に飛天や因縁故事が描かれるという。
詳しくはこちら

この階の東端に119窟 北魏開鑿宋代重修
顔も着衣も宋代に修復して変わってしまった。

桟道の端から。如来の顔は横から見るといい顔なのに、

前から見ると変🤔

右脇侍菩薩は右手で蓮華の葉と蕾を持つ。蕨手も表されているが、北魏ぽくない。

足元を見下ろすと吸い込まれそう😵

その後同じ階の
179窟 時代不明
『世界美術大全集東洋編3』(2000年)は北魏(6世紀前半)として、如来像の着衣が中国式へと変化したというが、『天水麦積山』(1998年)も、現地の説明パネルも時代不明としている。
この顔は麦積山石窟でも最初期の仏像とされる78窟正壁如来坐像に似ているようだが、頭部に水波文状の細い刻線がない。
その割に重厚な着衣は北魏後半だが、双領下垂式でもなく、僧祇支も着けていない。
衣文も変👀
右の方には脇侍菩薩や小仏など

113窟 北周、宋代重修
宋代重修の正壁如来坐像の結跏趺坐した脚部と
台座に垂れた衣端だけしか見えなかった。

その後は階段をどんどんと降りて行き、下に記念撮影用のフタコブラクダがいた。


狭い桟道に突き出すように網がかかった窟があった。

191窟 西魏(535-556)、宋代重修
説明パネルは、現存する塑像は7体、龕外の下に化生力士の塑像があり、両脇の上に交脚菩薩像があり、珍しい構図で斬新であるという。
上部は宋代の如来倚像と右弟子(阿難)
化生力士とはいったい?
化生童子ならともかく・・・

龕外左右壁に交脚菩薩像が一体ずつ、宋代の重修を受けている。
化生力士の蓮華がら出た茎に咲いた小さな蓮華に足を置く。
龕下の迦楼羅は気が付かなかったが、一対の獅子はしっかり見ました🤗
宋代重修の獅子
たてがみの表現が独特

62窟 北周(557-581)
正・左・右壁に各1龕、如来坐像、龕外両側に脇侍菩薩、前壁門両側側壁に弟子が1体、左壁に力士1体など全て塑造、三世仏なので、七仏窟が流行する前に開鑿されたのだろう。

59窟 宋代(960-1279)
摩崖題記 景祐2年(1135)が墨書されている。

下の桟道から赤い通路へ。


ラクダがこちらを向いていた😊


先ほどの191窟を見上げる。

98窟の大仏も。
結局は瑞応寺のところまで出口用の通路があった。

未開放窟や特別窟などもたくさんあったが、2つの大仏をいろんな方向から見えるようになっており、楽しい見学だった。
特別見学した窟や、北魏・西魏・北周窟などを忘れへんうちににまとめます。


以上、窟の説明はほぼ『中国石窟 天水麦積山』より


関連項目

参考文献
「仏のきた道 中国の仏教文化を探る」 鎌田茂雄 1997年 PHP新書
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「中国石窟芸術 麦積山」 花平宁・魏文斌主編 2013年 江□鳳凰美術出版社