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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2020年12月14日月曜日

慶陽北石窟寺 240窟・222窟


北石窟寺は南北に長い石窟群である。
北石窟寺の石窟群(部分) 『慶陽北石窟寺』より

240窟は北周(556-581)に開かれた。
『慶陽北石窟寺』は、長方形平面で覆斗式の天井をもつ窟である。窟は高さ4.23m幅5.26m奥行5.30mで、東壁(正壁)、南、北の3壁に高さ40㎝奥行47㎝の壇がある。清代に重修を受けたが、南北壁は1981年に重修部分を取り除かれたという。
窟の大きさのわりに広い入口で、短い西壁の南側をのぞいて壇が巡り、東壁(正壁)は主尊の前が奥行のある壇となっている。
北石窟寺240窟平面図 『慶陽北石窟寺』より

立面図
南壁の仏三尊像と東壁の主尊が描かれている。
北石窟寺240窟立面図 『慶陽北石窟寺』より

正壁(清代の重修が残るため、図版がない)
『慶陽北石窟寺』は、一仏二菩薩で仏の高さは2.17m。肉髻は低い。顔は方円形で細い眉に小さな目、高い鼻に小さな唇という。
清代は各地の荒廃した石窟の修復を熱心に行ったが、技術が伴わなかったとはよく言われている。

南壁
釈迦三尊像
同書は、一仏二菩薩で仏の高さは2.17m、菩薩は高さ2m。肉髻は低い。容姿は正面の如来と同じで、中に僧祇支を着け、束帯は胸前で結ぶ。円領下垂式の外着で方形の台座に結跏趺坐するという。
両脇侍菩薩はやや動きのある姿勢で立ち、右脇侍菩薩などは初唐期の三曲して立つ菩薩像を思わせる。
正壁の左脇侍菩薩が少し写っている。正壁の小龕の小さな仏像群も同様に清代の着色が鑑賞の邪魔をしていた。
北石窟寺240窟南壁仏三尊像 『慶陽北石窟寺』より

南壁の主尊と左脇侍
主尊は頭部が大きく体格もふっくらとしているのに、結跏趺坐した膝に厚みがない。
しかし、主尊の顔は丸みがあり穏やかで、北魏時代の165窟とは雰囲気が異なっている。 
同じ北周時代の天和元年(566)銘の釈迦三尊像と雰囲気が似ている。
北石窟寺240窟の主尊と左脇侍 『慶陽北石窟寺』より

左脇侍菩薩の頭光の上部に、主尊を慕う弟子たちが描かれているので、釈迦三尊像と判断したのだが、『慶陽北石窟寺』には尊名は明記されていない。
北石窟寺240窟南壁の仏弟子図 『慶陽北石窟寺』より

左脇侍菩薩は両手で天衣を掴んでいるようで、その天衣は右腕から左裾へと2筋の薄い天衣が平行して斜めになびいている表現は、他では見たことがない。
西壁の上下両龕について『慶陽北石窟寺』は、盛唐期(712-765)の製作。上段は一菩薩二弟子三脇侍菩薩。下段は一仏二菩薩という。
上段の弟子と共にいる菩薩とは?弥勒菩薩に迦葉と阿難が寄り添うことはないと思うが・・・ 修行中の釈迦に弟子がいたとも思えないし。
北石窟寺240窟南壁左脇侍菩薩 『慶陽北石窟寺』より

北壁
釈迦三尊像
同書は、一仏二菩薩、仏高2.1m、菩薩高2m。仏の顔貌は基本的に正壁と同じで、僧祇支を中に着て、外は円領下垂式の袈裟で方形台座の上に結跏趺坐する。裳裾は台座まで垂れている。
1981年に清代の重修を剥がすと、仏説法図と判断できる内容の壁画が現れた。窟南北壁外側には弟子像が描かれていたという。
右脇侍菩薩と主尊の光背の間にも人物が描かれているらしいので、これも釈迦三尊像とみた。
北石窟寺240窟北壁仏三尊像 『慶陽北石窟寺』より

右脇侍菩薩
天衣は一端を下に垂らして右手で持ち、もう一方は腹部の下にU字形に垂らして首に回し、膝までU字形に垂らして左手で持ち、下に垂らす。
西壁の2段の小龕は盛唐期のもので、上段が清代の補修を取り払い、下段はそのままにしてある。
北石窟寺240窟北壁右脇侍菩薩 『慶陽北石窟寺』より

西壁小龕上段 盛唐期
仏五尊像と日本ではいうが、中国では一仏二弟子二菩薩像とする。二弟子は釈迦に対して左側に控える最年長の迦葉と、右側には最年少の阿難が表されるものだが、阿難の顔が白くて老女のよう。清代の彩色が残っているのだろうか。 
北石窟寺240窟西壁北壁龕 『慶陽北石窟寺』より

窟頂藻井
中国風の伏斗式天井の頂部は崩れている。
北石窟寺240窟藻井 『慶陽北石窟寺』より

222窟 盛唐期(712-765)に開かれた。
『慶陽北石窟寺』によると、長方形平面で伏斗式天井の大窟。窟高6.10m幅6.48m奥行8.4m。
北石窟寺222窟平面図 『慶陽北石窟寺』より

門道には北周-隋時代の菩薩像が残っており、そのことから、北周の窟を唐代に広げて造り直したことがわかるという。

菩薩半跏像 北周-隋時代(556-618) 北壁
右脚は薄く立体感に欠けるが、左脚は太く、小蓮台を踏む。
北石窟寺222窟門道北壁菩薩像 『慶陽北石窟寺』より

菩薩半跏像 北周-隋時代(556-618) 南壁
不思議な着衣、そして裳裾が台座に垂れている。
北石窟寺222窟門道南壁菩薩像 『慶陽北石窟寺』より

東壁(正壁)

一仏二弟子二菩薩像 盛唐期
同書は、東壁には一仏二弟子二菩薩像がある。仏高4.05m、弟子高2.8m、菩薩高3.0mである。
主尊の肉髻は高く、顔は丸い、細い眉に大きな目、鼻は高く唇は厚い、肩幅は広く、腰は丸い。僧祇支と裙を着て、袈裟を被るという。
如来は片足ずつ踏割蓮華にのせているのだろう。弟子・菩薩は一段上に並び、菩薩の三曲はほとんどわからない。
北石窟寺240窟東壁一仏二弟子二菩薩像 『慶陽北石窟寺』より

北側の弟子阿難及び菩薩像
主尊と変わらない表情で、若いはずの阿難に気の毒。
北石窟寺240窟東壁北側弟子、菩薩像

東壁南側の弟子迦葉及び脇侍菩薩  
一方、迦葉は老成が感じられる。
南壁の小仏龕は、如来像は長い裳裾が台座にかかるものもあるが、龕の下まで垂れているものまである。
北石窟寺222窟東壁南側の弟子迦葉及び脇侍菩薩 『慶陽北石窟寺』より

南壁
同窟には小仏龕が62あり、南壁には22彫られている。
北石窟寺222窟南壁仏龕群  『慶陽北石窟寺』より

南壁第2層仏龕 一仏二菩薩像 盛唐期
右脇侍は三曲に体を曲げている。
北石窟寺222窟南壁第2層仏龕 一仏二菩薩像 『慶陽北石窟寺』より

北壁の仏龕群
北石窟寺222窟北壁の仏龕群 『慶陽北石窟寺』より

西壁北側仏龕群 盛唐期 
北石窟寺222窟西壁北側仏龕群 盛唐期  『慶陽北石窟寺』より

第1層仏龕 一仏二弟子二菩薩像 盛唐期 
めずらしく両脇侍は顕著に三曲にポーズをとる。西壁には3つに体を曲げる菩薩像が多い。
北石窟寺222窟第1層仏龕一仏二弟子二菩薩像 盛唐期 『慶陽北石窟寺』より

西壁南側仏龕 盛唐期
北石窟寺222窟西壁南側仏龕 盛唐期 『慶陽北石窟寺』より

第2層仏龕 二菩薩立像 盛唐期
二菩薩立像があった、しかも3龕も。如来のいない菩薩だけの龕とは。
北石窟寺222窟第2層仏龕 二菩薩立像 盛唐期 『慶陽北石窟寺』より

見学後は、慶陽の町へ戻っていく間に太陽は傾いていき、
沈み始めた。

今回では一番寒い宿泊地と言われていた涇川温泉賓館だが、新館ができたばかりということで、そちらの方に泊まれることになった。
夕食時に電気毛布があるという情報を得て、部屋に戻って戸棚を探したが、毛布があるだけだった。それはごわごわと分厚い毛布で、ヤクの毛布かななどと思いながら暖かく眠れた。ラクダの毛布だったかも🐫
朝になってベッドパッドが硬いことに気付いてシーツをめくってみると、それが電気毛布だった😅

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関連項目

参考文献     
「慶陽北石窟寺」 甘粛省文物工作隊・慶陽北石窟寺文管所  文物出版社