お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2021年5月4日火曜日

法華山一乗寺


春のある日、昔々拝観したことのある法華山一乗寺にでかけた。

駐車場に花が散った桜が新緑の葉を開きかけていた。

駐車場から最初は下り坂。
排水口なども付けられている石垣。
歓喜院の塀伝いに門へ。
淡い色の菫を隠すように、桜の花びらや花心が積もっていく。

お城のように高い石垣と土塀が続く。

その手前の桜の老木はウロがあっても
今年も花を咲かせていた。その先が門、といっても山門はなかった。

同寺の栞の縁起は、法華山一乗寺は白雉元年(650)法道仙人の開山、孝徳天皇の勅願による官刹であった。仙人はインドより紫雲に乗じて中国朝鮮を経て、谷は蓮華の如く峰は八葉に分かれた当山に降り止まり、山を法華山と名づけた。
孝徳天皇が御病気の際、仙人を宮中に召し加持せしめたたところ、御病気忽ちに平癒した。法道仙人を御慕いになった天皇は、法華山に金堂を建立し、落成して臨幸せられ、法華山一乗寺の勅願を賜い、道慈律師をもって供養し、鎮護国家の道場とされたという。

門を入ると、中央を挟んで参道があった。
立派な笠塔婆が立っていたので、中央が通れなかったのだ。

さて、ここから石段が長々と続くらしい。
とはいうものの、三重塔がもう見えている。

登っていくと、三重塔よりも低い位置に別の建物が現れた。



常行堂(阿弥陀堂) 明治時代
お寺の栞は、聖武天皇勅願建立。天文22年(1553)再建。明治初年に再再建。不断念仏・止観道場として使用という。

お寺が山の斜面にあるため、塔を建立するのに、石垣を積んで平地を造成している。
石の一つ一つが小さいのは、平安時代という時代の古さからだろう。    

やっと初層が見えた。風鐸に鬼瓦など、付属のものは創建当初のものではないだろうが

三重塔 平安時代末期
栞によると、承安元年(1171)長吏法印隆西、一和上仁西の勧進により造立。同4年(1174)額田部武末の屋敷瓦寄進によって完成。各層の低減が大きく安定感があり、三重の照りむくり、三手先の組物、左右二材を組み合わせた本蟇股など平安様式の優美な古塔で我国和様建築の完成を示す。本尊は五智如来という。
土壁が全くない、木材だけを組んだ塔だった。

鉄錆色の相輪
水煙は蔓草の透彫だった。錆だけではなく、朱漆が塗られていたのかな。

三層目の組物の間にあったスズメバチの巣😨
三重塔について詳しくは後日

金堂へ再び石段を登る。
左にあった石仏

石段の右側に恐竜の肢のような大きな根っこ😁
檜の幹はまっすぐに伸びて、枝が四方八方に広がって光を遮っている。北側は少ないけれど。

金堂には大悲閣の扁額が😮
栞は、永延2年(988)花山法皇御幸あらせられ、金堂を大悲閣と命名され、西国第26番札所と定め給い、「春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙なる法の華山」と御詠あり、以後永く巡礼の霊場となったという。

石段の上から三重塔を見下ろしたが、あまりにもすっきりと晴れて、逆光がきつくなってしまった。

桁行9間、梁間8間 入母屋造 江戸時代
栞は、初代の本堂(金堂)は白雉元年(650)孝徳天皇の勅願によって創建された。二代目の本堂は建武2年(1335)、後醍醐天皇の勅願で再建され大講堂と呼ばれた。三代目は大永3年(1523)兵火による焼失の後、永禄5年(1562)守護赤松義裕公により建立された。四代目の今の本堂は、元和元年(1617)の焼失によって、寛永5年(1628)姫路藩主本多美濃守忠政公によって建立された。
中世仏堂形式の近世初期の代表作とされるという。
非常にすっきりとした組物で好もしい😊

隅肘木には・・・
沸き立つ雲のような、連続する象の鼻のような・・・やっぱり時代が現れている。

右手に回ると鐘楼が。 袴腰付 入母屋造 江戸時代
栞は、寛永5年(1628)本堂と同じく本多美濃守忠正公により再建。下層が高く、上層が小さく姿よく造られている。
「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」と鐘銘された梵鐘の鋳造も同じ時と考えられるという。

さきほどから気になっていたが、斜面に建立された本堂は、外側の南半分だけ懸造になっているのでは👀 そして北側は木組みから石垣に変わり、中は白壁で囲まれている。

本堂へは北側から入るのだが、

他にも鎮守諸堂があるということで、西の方へ行ってみた。

左端が行者堂 江戸時代寛文年間(1661-73)
栞は、仁明天皇(810-50)御勅願により創建。今の建物は寛文年間の再建である。役行者及び前鬼後鬼の木像を祀る。当山の護摩供の道場という。
中には入れなかったが、前に石仏があった。
三面頭飾の観音像
十一面観音像

右が妙見堂 三間社流造 室町時代
栞は、国土守護、災害滅除、福寿増長の妙見菩薩を祀るという。 

左は弁天堂 一間社隅木入春日造 室町時代
栞は、弁才天福徳、除災得勝、音楽などを司るという。

そしてやっと本堂へ入った。

東廊下へ。板扉になっていて壁がない。
再び鐘楼。鐘が見えたが写っていなかった。

本堂は二軒の垂木
外陣へ入ると、
天井には妙な装飾が😮

舟肘木ではないが・・・
長い肘木は分からないが、海老虹梁には文字が書かれている。自分の名前を筆で書いた人たちがいたみたい。
装飾的な頭貫の上にも変わった形の肘木が。
円柱にあけられた沢山の穴を見て、天井に飾られていた札が千社札だったことが判明😅

南廊下に出ると、本堂の連子窓も板だった。

南廊下から眺めた三重塔

南廊下に並ぶ扉。
上を見ると先ほど不思議な形だと思っていた肘木が細工され完成した形になっていた。

本堂西壁は扉が一つしかなく、他は板塀になっていた。
途中からは開かずの扉のところもあり、節のある柱が使われていた。
なんとも味わい深い柱である。自分が屋根を支える柱であることを忘れて、自然に戻っていくような。

北廊下に来ると、木目が黒い柱が並んでいて、それぞれに異なった木目なのだった。
こんなのもありました🤗

北の廊下から見えた護法堂 一間隅木入春日造 鎌倉時代
栞は、仏法守護の毘沙門天を祀るという。
後で行ってみたが、ミツバチがブンブン飛んでいて、近寄れなかった😆

本堂の東側から戻っていく。来る時は気付かなかった東壁。
これも懸造というのだろうか?
南廊下の下。妙に傾斜のある土の上に懸造風の格子の影が射して面白かった😁
柱間8間に回り廊下が付いて10間。結構立派な本堂でした。

階段をどんどん降りてもうすぐ受付というところで、北側の皮が剥がれたヒノキに気が付いた。檜皮はこんな採り方はしない。雷が落ちたのかな?
上を見上げると、反対に南側の枝がないのだった。



   小野浄土寺で西日の阿弥陀三尊像←   →石の宝殿

関連項目←

参考にしたもの
法華山一乗寺のしおり