お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2020年6月16日火曜日

ローマ サンタンジェロ城2


階段から出るとローマの町が眼下に見えた。という程高くはないが、ローマはあまり高い建物がないので、遠くまで見渡せる。
数々の教会のドームや鐘楼の中でも、高さと白い色で目立つヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。四頭立て二輪馬車に乗るのは勝利の女神らしい。
サンタンジェロ城とそれに続く通りはすぐに終わる。
壁が下にいくほど厚くなっているので半球には見えないが、ドームの内側が完璧な半球になった最初の建造物パンテオンも見えている。造らせたのは、サンタンジェロ城の墓主であるハドリアヌス帝である。
サンタンジェロ城のすぐ北にある最高裁判所。
この建物が邪魔してスペイン階段の上にあるトリニタ・デイ・モンティ教会が見えない。
最高裁判所の上にもやっぱり有翼の女神が乗った四頭立て二輪馬車
トリニタ・デイ・モンティ(Trinita dei Monti)教会のある場所


サンタンジェロ橋から下流は向きがかわるので、ローマ国立博物館(マッシモ宮)に展示されていた壁画群が出土したヴィッラ・ファルネジーナは見ることができない。
ジレット・スコペルトまたはアレクサンデル7世の散歩道を見下ろす。

振り返ると、サンタンジェロ、つまり大天使ミカエルが剣を振りかざしていた。

ここからは下りになる。
どこにあった窓か忘れたけれど、こんな揺らぎのある古い窓ガラスを見ると写してしまう。

5階
聖パオロの部屋(Sala Paolina)
床の大理石のモザイク(オプス・セクティレ)は紋章のよう。
照明の色のおかげでこんな濃い部屋に写ってしまった。 

4階のグラン・ロッジア(大開廊)へ下りるとき、サンタンジェロ橋が円柱の間に見えた(つまり南向き)。

通路に出ると、

果実の束を角につないだ牛頭や
逆さになった頂板などが展示?されていた。
説明パネルから、2つは柱頭の上のアーキトレーヴの一部だったらしい。 
ハドリアヌス帝の墓の外側の装飾 後130-140年代
ハドリアヌス帝(在位117-138年)の胸像も

この階段を下りると、

3階のアレクサンデル6世の中庭(Cortile di Alexandro Ⅵ)だった。
向こうの隅が左は平面の建物、右が曲面の建物が密に建てられているように見えて、上りで入った天使の中庭とは違うところだとわかった。
少しずつ右の低い建物が遠のいていく。
二連の半円アーチ左側が階段になっていて、そこからこの中庭に来るようになっている
ここで中庭は終わり。
2つの中庭に挟まれた建物を見上げる。頂部には剣を持った大天使ミカエル像があった。
屋上から5階、4階と下りてきて、現在は3階。
鉄格子の窓の向こうに井戸、続いて隅にの開口部。3階の内部へ。

説明パネルの平面図 
①上りの時に出てきた矩形の中庭 ②青銅の羽根をもつ天使像 ③またのぼった階段 ④下りてきたアーチ形の開口部 ④アレクサンデル6世の中庭 ⑤アポロの間 ⑥正義の間 
小さな展示室にはキリスト教関連のものが並んでいた。
聖具箱 七宝 12-13世紀

次に入った広間は⑤アポロの間
説明パネルは、ニコラウス5世によって15世紀中葉に造られた。それはサンタンジェロ城が、要塞から教皇の住まいへと改変してゆく、ゆっくりとした過程の初めである。
アポロの間の由来は、1547年、パウロ3世の時、画家が描いたアポロの神話による。
床は18世紀の様式で修復され、そこには3つの穴がある。雨水の排水孔、ハドリアヌス帝の墓室からの通気孔、そして1735年、クレメンス12世のために穿った昇降機の孔という。
3つの孔は上の平面図にあります。
床には紋章と三重の同心円
左上の四角いものは通気孔だろう。下階にも同じ場所に孔がある。

隣室には十字架から降ろされたキリストとそれに立ち会った人々の像が置かれていたりした。ここは入れないので、ロンデル窓に近づけなかった。

暗い通路へ

ここも展示室で、陶器類の展示ケースが並んでいたが、ほぼピンボケ😅
水差しや鉢 13-14世紀
水差しの注ぎ口の形が面白い。鉢の見込には十字架と神の子羊が。
その奥には武器が。

⑥正義の間(Sala della Giustizia)
説明パネルは、この部屋はハドリアヌス帝の廟の中心に造られたのは、壁の大きな切石から明らかである
という。
正義の間という名称は現在のもので、あれこれと事件があったもよう(略)。
而して、背後壁の巨大な有翼の像は、正義の象徴と共に大天使ミカエルを表したものと解釈されているという。 

いつの間にか骨壺の間の通路に来ていた。行きは上り傾斜だったが、帰りは下り傾斜(当たり前だけど😉)。この空間は、1階から3階までの高さのある矩形平面でヴォールト天井の空間である。

柵の下を写すと、この通路の下にはアーチがあって、骨壺を納める時に使っていたのだろう。
最初に通った時は斜めから写したので、尖頭アーチに見えたが、この時は正面から撮った(ピンボケ)ので半円アーチになっているのがよく分かる。ハドリアヌス帝の時代にはまだ尖頭アーチはなかったので。
緩い階段の通路が終わると、来た時に通った2階の開口部に出るが、ヴォールト天井のドーナツ状の通路へ。
説明パネルの平面図で見ると、骨壺の間から真っ直ぐ南方向に階段を下って、狭い通路からドーナツ状の通路に出たことになる。

天井は平レンガを縦に並べたヴォールトで、壁面も平レンガだが水平に積んでいる。その境目はわからない。しかし、歩いて感じた通り緩い下りの傾斜になっていることが、色の薄いレンガの段で確かめられた。
修復を受けているのか、平レンガが足りなくなったのか、途中からヴォールト天井が美しくなくなってしまう。

舗床モザイクには文様はなさそう。
次のヴォールト天井には、レンガの広い面を表面に貼り付けて、ところどころに鎹のようなものが見えるが、
どうも違うみたい。鎹に見えたのは平レンガの長手面が出ていて、地はレンガで覆われていない。漆喰で仕上げたのだろうか。

ここで通路は終わり。 
説明パネルの平面図(A・Bを3・4に変えた)
アトリウム 
説明パネルは、ハドリアヌス帝の墓廟の入口である。トラヴァーチンの大きな切石で造られていて、当初は大理石の板で覆われていたが、今は失われている。
大きな壁龕にはハドリアヌス帝の巨像が安置されていた。現在ではその頭部だけが残っていてもヴァチカンの円形の部屋に展示されているという。
そして、ハドリアヌス帝の墓廟の想像模型が置かれていた。頂部の四頭立て二輪馬車に乗る女神の他に四隅に馬などの像があったこと、円筒形で、付け柱と彫像で装飾され、樹木が植わっていたことが示されていた。
通路 
12mの通路は元は、古いアエリウスの橋(現在のサンタンジェロ橋)と一直線上にあったという。
ヴォールト天井の通路が終わりに近づくと金属の階段が待っていた。
それは、門から入った時に正面に見える金属の階段とヴォールト天井で、正面と左は壁面になっていて、白い台に置かれているのがハドリアヌス帝の墓廟の想像模型だった。

地上に出て正面にあるのは、南の玄関で入口専用。右に切符売り場と入場口があったので、出口は左。

最初に見た胸像のある階段。
右側には扶壁(バットレス)のような地下の遺構が並んでいる。
壁面にも時代の違いがある。
左がローマ時代、続いてニコラウス5世の時代(15世紀中葉)
ウルバヌス8世(17世紀前半)
左下には金具で取り付けられていた大理石の板・・・にしては厚すぎる。90度回ったところの扉口から退場。
 外に出て右側に見えたのは南東の監視塔。
東側から眺めるサンタンジェロ城。
ついでに北東側から眺めておしまい


関連項目