お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2022年4月12日火曜日

オスティア・アンティカ4 フォロ界隈


遺跡地図
オスティア・アンティカの遺跡地図 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より

フォロ周辺図
A:カピトリウム B:広場 C:デクマノマッシモ通り D:ラレス・アウグストゥスのための小神殿 E:ローマとアウグストゥスの神殿 F:フォロのトイレ G:フォロの浴場 H:クリア 9:ディアナ通りのテルモポリウム
オスティア・アンティカ フォロ周辺図 『OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL  EXCAVATIONS』より


ディアナ通りを西へ行くとカピトリウムの壁に突き当たる。

フォロ
周囲は柱廊が囲んでいる。

『望遠郷 ローマ』は、植民市オスティアにその商業上、政策上の役割にふさわしい立派なフォロ(公共広場)ができたのは、ハドリアヌス帝の時代になってからであるという。
フォロの内に矩形の枠と現在の地面より凹んだところがあった。そうではなくて、テベレ川の増水で起こる土の堆積で、広場の地面が段々と高くなっていったのだった。

その区画が過ぎると、デクマノマッシモ通りの敷石があって、

その向こうにあるのは、
ラレス・アウグストゥスのための小神殿
説明パネルは、フォロの中心に位置する大理石の基壇に安置された円形の記念碑は、皇帝を守ったラレス・アウグストゥスの神々に捧げられた小さな神殿である。
内部に壁龕があるレンガ造りの建物は、後51年に設立された教団を担当する司祭が費用を出して建設したという。

そして振り返ってやっと正面が見えた。
カピトリウム
『望遠郷 ローマ』は、広場の北側には昔の宗教建築に代り、レンガ造りで表面に大理石を張った堂々たる建物が建てられた。 これがオスティアで最も重要な神殿「カピトリウム」であり、ローマの3大神(ユピテル、ユノ、ミネルウァ)をまつっていた。ファサードは6本の円柱と美しい階段を見せていた。装飾は盗掘されてしまったが、19世紀の素描から、祭室の大理石の舗床の幾何学文様を想像することができる。内部の壁龕には彫像が飾られていた。いちばん奥には神像を置くための部屋が3つあるという。
こんなに幅広い階段をどんどんとのぼって入る神殿というものがあっただろうか?

想像復元図
オスティア・アンティカ カピトリウムとフォロの想像復元図 『ANCIENT OSTIA』より

クリア
『望遠郷 ローマ』は、ティベリウス帝は、フォロの南側、カピトリウムの前に、養父アウグストゥス帝をたたえるオスティアで最も優美で大きい神殿を建てさせた。現在、この神殿からは大理石製の化粧板が失われ、もとの装飾を知るには、偶然の発見を期待するしかない。有翼の勝利(女神ローマ)像はいまは壁に立て掛けられているが, 当時は神殿頂部を飾っていたらしいという。
広場の敷石が部分的に残っている。

バシリカ
『OSTIA』は、フォロの西側に、1世紀末に建てられた、法廷や商取引が行われたバシリカがある。建物にはアーケードで仕切られた3つのホールがあり、中央のホールは広く、貴重な大理石で装飾されていたが、残念ながら部分的にしか残っていないという。
西側の別の建物跡

デクマノマッシモの一つ南の道、フォリカ通りを東に入ると、

北側に公衆トイレがあった。そもそもフォリカというのが公衆トイレという言葉なのだ。


フォロの南端には、

E:ローマとアウグストゥスの神殿
説明パネルは、ローマとアウグストゥスを神とする教団のために皇帝ティベリウス(後1世紀)によって建てられた神殿は、フォロの反対側(北)の端にある古い国会議事堂に面していた。大理石で豪華に装飾された堂々とした構造の残りはすべて土台という。

平面図


ローマとアウグストゥスの神殿東の柱廊からフォロの浴場へ。

その途中にあった遺構はローマとアウグストゥスの神殿の一部で、その下には屋根や軒の飾りや女神像などが並んでいた。
我々はその左側からフォロの浴場へ向かった。

もとは付近の建物や浴場の通路ではない、現在の見学路を通っていく。高い円柱や建物が見えてきた。

円柱は近くで見ることができなかった。
アカンサスの葉をデザイン化したコリント式柱頭の上にあるのは、エンタブラチュアではなく、独立した装飾なので、これも柱頭彫刻の一部かも。デンティル(歯形文様)や卵鏃文様など、お馴染みの装飾が四辺を巡っているのだろう。
オスティア・アンティカ フォロの浴場に残る柱頭彫刻 『ANCIENT OSTIA』より


舗床モザイクの間からはえるたくましい雑草。



フォロの浴場平面図(説明パネルより)
『ANCIENT OSTIA』は、壮大なフォロ浴場は、プラエトリウムの隊長であるM. G.マクシムスの命で2世紀半ば頃フォロの南東端に建てられ、非常に長い期間使用された。
フォリカ通りの正面玄関から、更衣室が並ぶ通路を通って、冷水槽がある大きなフリギダリウムに通じていた。ここで見つかったアーキトレーブの断片の碑文には、「痛みを和らげる風呂」であるロータロンアレクシポノンが正確に記載されているという。
プラエトリウムは皇帝直属の精鋭部隊(wikipediaより)

説明パネルは、最大の、そしてフォロの傍という最高の位置にあるため、市内で最も重要な公衆浴場。アントニヌス帝時代(後2世紀半ば)に建てられた。4-5世紀に大規模修復。 A、Dには、大理石風の装飾もあった。
北側の冷浴室などの部屋(A、B、C、D)は、温浴室などの部屋(E、F、G、H)から温度が伝わらないように隔離されていた。太陽熱を最大限に活用したという。
A:入口 B:前庭 C:脱衣所 D:フリギダリウム(冷浴室) E:日光浴室 F:スダトリウム(スチームサウナ) G:テピダリウム(オイルを塗る部屋) H:カルダリウム(温浴室)
ポンペイのスタビア浴場の図では、まず、男性用の浴場の方が立派で、女性用の浴場にはない設備もあった。しかしながら部屋割りは男女別で、内部ではすれ違うこともなく設計されていた。この浴場は男性専用だったのかな。   

『ANCIENT OSTIA』は、日光浴(E)、サウナ(F)、温浴(H)用の部屋は、特に入浴が最も多い午後の時間帯に、太陽光線を最大限に活用するために南側に配置された。
特定の時間に女性がこの浴場を使用していることを証明するは、複合施設の部屋の一つで出土した大量のヘアピンである。
南にある大きパレストラと図書館で浴場の複合施設が完成したという。
男女は、部屋割りではなく、時間制だった。


近づいてきたフォロの浴場だが、何という建物の残り方😨

E(日光浴室) 変則的な多角形上部が曲面になった戸口から入る。


その先にも開口部が並んでいる。我々はどの部屋から入ってどこへ行こうとしているのか。
日本人の優秀なガイドさんに丁寧に説明をしながら案内してもらったはずなのに、もう記憶の外😆
おそらくここはF(スチームサウナの部屋)で、次がG(オイルを塗る部屋)、その先もG(オイルを塗る部屋)だろう。

あちこちの壁面下部にはベンチ状になっていて、

壁面との間にテラコッタのパイプのようなものが出ている箇所がある。

円柱の台座もあった。

出入口が複数あるので、おそらくF(スチームサウナ室)

G(テピダリウム)の南面

こんな風に天井まで密に通ったパイプが室内温度を上げていた。

コリント式柱頭

つづき

二つ目のG(テピダリウム、オイルを塗る部屋)へ。

そこには文字が書かれた扁額のようなものがいくつか残っていた。
その下にも角形のパイプが残っていて、僅かな土にアキノキリンソウのような花がみごとにに咲いている。

矩形の部屋なので、南側の列柱の上にのるエンタブラチュアも直線。そのむこうにも円柱が並んでいて、おそらくパレストラ(運動場)だったのだろう。

これらの板状のものにも銘文がある。

そして最奥部のH(カルダリウム、高温浴室)へ。
北側

高温の蒸気を通すテラコッタのパイプが密に設置されている。

東側 壁際には湯船があった。

アプス状の出っ張りに並ぶ2本の円柱。

現在の温浴室
オスティア・アンティカ フォロの浴場の温浴室 『ANCIENT OSTIA』より

その想像復元図
湯船が複数ある大きな浴場だが、南側の列柱が並ぶところには壁がなかったとは思われないし、まして大きな板ガラスが嵌め込まれていたとも思えない。
オスティア・アンティカ フォロの浴場温浴室の想像復元図 『ANCIENT OSTIA』より

女性も利用したことを示すヘアピン
オスティア・アンティカ フォロの浴場出土のヘアピン 『ANCIENT OSTIA』より

現在では南側の湯船がないので、大きなアーチ状の排水溝が見える。


カルダリウムを出てフォロの浴場の見学終了。

その後はトイレとガイドブックを求めて博物館へ。

テルモポリウムの床から首だけ出していた甕はこんなに大きかったとは😲

時間があれば、是非見学したかった🤗

帰りもデクマノマッシモ通りなどの石畳の道で足先が痛くなったが、オスティア・アンティカは、埋もれたポンペイやエルコラーノとはまた違った古代ローマの都市遺跡でした。



関連項目

参考文献 

「ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME」 VISION S.r.L. 2015年

OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL EXCAVATIONS」 2013年 IL CIGOLI G.G.EDIZONI
「望遠郷 ローマ」 1995年 ガリマール社・同朋舎出版・編