お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2020年4月20日月曜日

ローマ ドムス・アウレア3 八角形の広間まで


ドムス・アウレア平面図

80室(黄金の間)を出て、81室に入って北側の開口部から79の廊下へ。
この辺りは複雑な区画が続いている。82室は廊下側の開口部はなく、廊下側に天井まで壁画が描かれている。
高いヴォールト天井には、赤で巨大な七宝繋文が描かれていたようだ。
79の廊下はその先で終わる。
比較的よく残った左側の壁画

83室に入って左の開口部へ。
変則的な平面のため、83室の開口部からは、86室と92の大廊下とが見えている。
86室のフレスコ画
86室と92の大廊下とを隔てる出っ張りにも壁画は描かれている。
92の大廊下は残念なことにヴォールト天井と北側の壁面が水の浸蝕がひどい。未だに水漏れが止まっていないらしい。
南側の壁画

フレスコ画の修復の様子

途中にアーチがあり、その先にも長々と廊下は続く。
このアーチは補強のためかと思っていたが、思いもよらない目的があったのだ。それについては後日
アーチ下のフレスコ画
半馬半魚のヒポカンポスやイルカのような魚が花と一緒に描かれている。

ここからは引き返した。
等間隔にあけられた窓の上面のフレスコ画。円の中には鳥が飛んでいる。

左の開口部は柵があって入れないので、
写真だけ撮った。このあたりは複雑で、五角形の中庭を囲んだ部屋(右、89)と東西に方向に造られた部屋(左、94)の間の空間だろう。これでも廊下(93)だろうか。

83室から87室へ。
開口部上の壁面やヴォールト天井には四角い大小の穴は角材でも渡して2階や3階の床になっていたのかな?
この部屋にはこんな水盤が置かれていた。

狭い廊下、しかも先が斜めに閉じられている。こんな通路は平面図で見ると96としか思えないのだが、写真の順番は、その推測を裏切っている。

88室の奥壁とヴォールト天井。一見何の特徴もない部屋のようだが、
左壁の装飾は凝っている。
浮彫漆喰で人物の体が半立体的。
子供達が遊んでいるような場面も。

89室 説明パネルの構造的な補強前の壁龕の図には上部がアーチ状になっている
北東壁の写真
 
五角形の中庭の一部にトラヤヌスの浴場のために作った壁と建物の間の通路(説明パネルの水色の部分)へ。
パネルの写真は構造補強以前の90室のファサードや
そのフレスコ画。柱廊が巡る中庭が描かれていた。
見学最初に見たスライドではこんな風に推定されている。

濡れたレンガ壁。水の浸み込みはまだ解決していない。

116室には浅い壁龕と
白大理石の六角形・三角形と、黒い四角形を組み合わせた幾何学文様の舗床モザイク。
ずっと後の時代、イスラームの幾何学文様を組み合わせた文様(ギリヒ)を思わせる。

117の廊下から120へ。
120廊のフレスコ画。
人物も描かれているのは、神話の場面かも。

119室 スキロスのアキレスの間のフレスコ画は見逃した。
『世界美術大全集5』は、その豪華絢爛たる装飾のほとんどは失われてしまったが、ルネサンス時代、洞窟のような廃墟と化していたこの宮殿の装飾を見て感激したラファエロは、ヴァチカーノ宮殿のなかに洞窟風の、つまりグロテスク(洞窟風の美しい装飾を意味する)な壁面装飾を再現している。1400年以上も経っていたとはいえ、ラファエロが手本にするほど美しい装飾だったのである。この壁面装飾を行った画家は、プリニウス(後23-79)によれば、ファムルスもしくはファブルスという名前で、荘重かつ厳格である一方、輝きに満ち流麗であったという(『博物誌』34書84、35書120)。以上のような古代文献が与えてくれる情報を部分的にせよ確認できるのが「アキレウスの間」の壁面装飾であるという。
119室は天井だけでなく、壁面装飾もすごい。
同書は、部屋の周壁と天井はストゥッコ(漆喰)浮彫りによって厳密な枠取りがなされている。プリニウスが荘重かつ厳格であると述べている通りである。しかし、ストゥッコ枠取りの周囲に描かれた連続文にはさまざまな植物モティーフや多彩な鱗文が描かれており、往時の輝きを伝えている。また、枠取り内の矩形パネルを埋める神話画や神像、人物像は流麗なタッチで柔らかな表現となっている。このこともプリニウスの伝えるとおりである。広範な装飾モティーフを駆使して、幻想的ともいえる装飾壁面で覆われたこの部屋は、第4様式の壁面装飾の基本的な要素をすべてそろえているという。
コリント式でもなさそうな浮彫漆喰による柱頭の表現がみごと。

121の廊下の天井。

八角形の広間から振り返って、八角形の一面となる三角形の空間と奥の121の廊下。
2つの角柱(または壁の端)は浅い角度をつけて密接している。

128:八角形の広間は食事の間だった。

その上にはオクルスがあるため、この部屋は明るい。
『ローマ』は、古代ローマ建築の主要例の一つで、ペンデンティブを使わない半球ドームがあり、大きなニンフェウムを含む放射状に並んだ部屋で囲まれているという。

『世界美術大全集5』は、後64年のローマの大火後にネロ帝(在位後54-68)が建設した自身の宮殿。現在のコロッセウム付近に巨大な人工の池を造り、パラティヌス丘からエスクイリヌス丘にかけて広がる広大な敷地を占め、一説には120-140haの敷地を占めていたともいわれる。敷地内には宮殿の建物、巨大なネロ像、列柱道路、人工の滝などが造られ、人工の庭園にはさまざまな動物が放し飼いにされていたとも伝えられる。いわば都心部に突如として広大な田園風ヴィッラが出現したようなもので、ローマ市民の悪評を買った。ネロ帝の死後この宮殿はさまざまな公共建築のために取り壊され、現存するのはわずかに宮殿の東側部分のみである。
全体の計画を担当したのはセウェルスとケレルで、最新の機械装置とコンクリートという新しい建築材料による新たな建築造形がこの宮殿で追求されている。その代表例が現存する八角形のホールで、おそらく夏用の食堂であったとみられる。このホールは宮殿の東翼の、南面する列柱の背後に位置し、直径15mほどで、頂部には円形のオクルス(天窓)が開けられている。オクルスの上には機械仕掛けで回転する円筒形の壁が立ち上がり、その上には小さなドームが架かっていた。そのドームの外側には星座が描かれていたという復元案も提案されているという。
前回のローマでは、ローマン・コンクリートの遺構が見たくて、まずパラティーノの丘を見学した。宮殿など大きな建造物は、ドミティアヌス帝(在位81-96)が建立した、ドームス・セヴェリアーナスタディゥムドムス・アウグスターナドムス・フラウィアで、あとはずっと後の時代の建物だった。ただ、パラティーノの丘からフォロ・ロマーノへとつづく地下通路はネロが建造したものだった。

オクルスはパンテオンのものが有名だが、現在でもカバーがなく、雨が降ると落ちてくる。ドムス・アウレアのオクルスは、発掘調査や修復などの作業があるためか、こんなカバーが付いている。さすがにデザインの国イタリア。パーツの構成も八角形を基本にしておしゃれ。
これを丘側からみたかった。
その真下には八角形の白い石。これを中心に写せないのは私の七不思議の一つだが、『世界美術大全集5』の図版では草が生えた土の地面だった。
八角形のファサードとなる面は現在は閉じられている。その両側が三角形の間で、残りの5面はそれぞれの部屋に繋がっている。
いつまでもヘタなパノラマ合成(Xについては後日)

通路・122・123室
122室
円弧ではなく八角形にしたため、上部に妙なへこみができている。パンテオンのように、円錐形平面から微妙に持ち送って完璧な半球になる以前の段階とでも言えばよいのか。
ドムス・アウレアの上にあるオッピオの丘の等倍の地層写真(左側)が置かれている。
ドムス・アウレアの以前のサイトは、右側は、古い土の代わりに、軽い流紋岩と石灰岩の砂利を敷き、公園を維持できる。草を植えることで、排水と観察、隔離というすべてのことが、見たり、触れたりすることが可能。後ろのパネルは新しい公園が1㎡750㎏の重さになることを示しているという。

124・125・126室

よく照らされていないが、124室が中央となる。
『世界美術大全集5』は、ホール外側に放射状に開く5つの小部屋の中央の一つはニュンファエウムであったという。

詳しくはドムス・アウレア 八角形の部屋と付属の部屋にて

ネロの黄金宮殿・ドムス・アウレア2 黄金の間まで
                    →ローマ ドムス・アウレア4 出口は西の端

関連項目
ローマ ネロの黄金宮殿・ドムス・アウレア1 見学前のスライドショー
ネロの地下通廊(Criptoportico Neroniano)
スタディウムはドミティアヌス期
ドムス・アウグスターナ
2-8 パラティーノの丘、ドムス・フラウィア

参考文献
「ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」 2001年 Mondadori Electa
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」 1997年 小学館