お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2007年10月15日月曜日

東福寺の塔頭雪舟寺(芬陀院)


臨済宗大本山東福寺は京都の中心から離れているため、長い間行くことがなかった。久々に出かけてみると、境内の中を通り過ぎていく車、自転車、人。中には犬を散歩させている人やトレーニングをしている人も。そんな風に東福寺の境内が日々の暮らしの場になっているのを見ていると、近隣に住む人々がうらやましくなってしまう。 

東福寺の境内には多くの塔頭がある。南の方にあるのが雪舟寺、日下門から中門への通路の南側にあり、正式な名称は芬陀院という。 門をくぐるとまっすぐに石畳の通路がのびていて、両側には苔が植わっているのだが、長々と続いた残暑が災いしてか、苔は赤茶けていた。右手の生け垣は確かお茶の木だったはず。お寺に上がって方丈の庭が見える方に。主たる庭だけあって、こちらの苔は青々としている。朝なので、鶴亀を表しているという石組みは日陰の中にあった。
しかし、庭の主役よりも、縁側、磚敷きの基壇、軒から落ちる水滴を受ける石(名称は知らない)、そして枯山水の庭で水の流れを表すという箒目(これも正式な名称を知らない)がまっすぐな白砂という、直線の重なりに目が向いてしまう。
朝掃き清めて間もない整然とした白砂、と思って見ていたが、動物が通った跡があった。何が通ったのか、かすかに乱れているのも景色のひとつ。イタチのような野生動物だったらいいのにな。
いつも枝葉にばかり目がそれてしまうが、何故雪舟寺かというと、同寺の栞によると、寬正年間、雪舟は京に上り、芬陀院に寄寓していたそうで、請われて築造したのがこの庭園だかららしい。天気が良く日差しがきつかったので、縁側に出るよりも、 方丈の間に置いてある座布団に座って庭を眺める方を選んだ。大徳寺龍源院の枯山水の庭に比べて箒目が浅いが、私の好みはこのような浅い方だ。昔は大徳寺の塔頭でもこの程度の浅い箒目だったはず。 ゆっくりと移動しながら眺めていると、影も少しずつ姿を変えていく。
東庭へと回る。こちらは苔の上に石がくの字状に置かれた庭だった。確か吉野窓があったと探していたら、あるにはあったが閉まっていた。残念に思いながら、建物内部を見学することにした。北側にある二畳と板の間のある茶室もこぢんまりとして落ち着く。このお寺は結界も置いていない。少ないが途切れず来る拝観者たちは、静かにいろんな部屋を見学していた。
お寺の栞によると、現存の建物は何度も火災にあい、18世紀後半に桃園天皇の皇后恭礼門院の御所の一棟を下賜されて移築、更に明治32(1899)年に改築したものということなので、古い茶室ではなさそうだ。茶室の北側の庭。燈籠よりも、苔むした蹲(つくばい)がええなあ。戻ってみると吉野窓は開いていた。部屋の中に人がいるのも見えた。今の内と縁側を通って入ると吉野窓は閉まっていた。なんや、拝観者が開け閉めしてええ窓やったんや。 勝手に開けて外の景色を見る。 庭石に目を向けるとこんな感じ。しかしいまいち。栞にはこの2つの角度の中間から見た写真がある。 いつも庭は写すが、その背景がどんなだったか覚えていないことがよくあるので、今回は背後に何があるか確かめると、竹林だった。 そういえば、日下門の南東側は竹林になっていたので、その続きだろう。ということは先ほどの足跡はやっぱり野生動物かな。