お知らせ

イラン・フランス南西部のオクシタニー地方の旅行記に続いて、南イタリアの旅に入りました。
その中で気になるものについては、忘れへんうちにに記事を載せていきます。

2008年10月29日水曜日

竹田城跡3 天守台から南千畳へ


竹田城を見に行った日は快晴だったが、初冬からは雲海に浮かぶ城跡が見られる日もあるとか。それを眺めるのは向かいの金梨山かららしい。一度行って見たいなあ。


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天守台の梯子は真下に付けられているので、下りる時も途中でフワーっと後方に倒れるのではないかと思う瞬間がある。本丸から南千畳へと向かう石段もかなり急だった。ここから石垣を右に回り込む。
竹田城の図はこちら  何が建っていたのかわからないが、小さな石垣がまっすぐ進めないように作られていて、曲がりながら進むと平殿という所に出た。そこを左に折れると南二の丸となっている。 振り返ると本丸の石垣から天守台の石垣が出っ張っているのが見えた。南二の丸の左側が通路となっている。 正門から南千畳へ。 竹田城の南の端へ。 石垣の真下を見下ろす。石垣は多少ほぼ垂直に見える。 南千畳から南二の丸の石垣に本丸の石垣が重なっている。 南千畳の目立たないくぼみから道路へ出られる。
竹田城の歴史が年表になって、駐車場の説明板にあった。
1443年 竹田城が完成、初代城主に太田垣光景が配される
1538年太田垣朝廷が5代城主に
永禄12年(1569) 羽柴秀吉、2万の軍勢で但馬を侵攻。生野銀山から此隅山城まで、10日間で18城を陥落させる
天正元年(1573) 毛利の但馬侵攻の気配を感じ、朝廷毛利方へ投じる
天正5年(1577) 秀吉、但馬を侵攻する。竹田城を攻略して弟の木下小一郎(秀長)を城代とする
天正6年(1578) 秀吉、再び小一郎(秀長)を城代としてい入れる(「信長公記」)
天正8(1580) 秀吉、弟小一郎(秀長)に命じ但馬へ侵入。秀長、竹田城を陥落させ、城を修築し人数を入れておく
この時点で太田垣氏の竹田城支配は終わる
桑山修理太夫重春、竹田城主となる
天正13年(1585) 赤松広秀、竹田城主に封ぜられる(22.000石)
慶長初期 現存の竹田城、このころに完成
5年(1600) 関ヶ原の戦い。広秀、西軍に属しその責任を問われ鳥取市真教寺にて自刀
竹田城廃城となる

という。 双翼の竹田城は遠くから眺められ壮観だが、このような縄張りの上に建物が建っていたのはごくわずかの期間やったんや。

※参考文献
駐車場の説明板(平成元年 和田山町観光協会)