お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2019年12月5日木曜日

ポンペイ 市民広場近辺


アボンダンツァ通りを突っ切ると⑨市民広場(フォロ)に当たる。

市民広場付近(『完全復元2000年前の古代都市ポンペイ』より)

⑨市民広場 ⑩バシリカ ⑪アポロ神殿 ⑫穀物取引所 ⑬ユピテル神殿 ⑭フォロの浴場 ⑮カリゴラの凱旋門 ⑯フォルトゥナ・アウグスタ神殿
広場からはヴェスヴィオ山がよく見えるが、市民たちが眺めていたのは3000m級の山だった。後79年の噴火で山体崩壊して、こんな1000m強の山となってしまった。
前回は広場の東側を見学したので、今回は西側を。

フォロの南西角に⑩バシリカ
『完全復元2000年前の古代都市ポンペイ』は、ここには市政の最高責任者である二人役の統括する裁判所が置かれ、裁判や商取引が行われていた。つねに大勢の人が出入りしていたため、いつのまにかつどいの場になっていた。
壁に残っていたオスク語の落書きからみて、建設時期は前2世紀後半、つまり古代ローマのバシリカとしては現存する最古の例であるという。
正面玄関のファサードには、玄武岩製の石段が4段あり、その上に玄武岩製の柱礎と4面の柱頭をもつりっぱなイオニア式円柱が4本立ち並んでいたという。
渦巻きが四隅から飛び出して力強いが、古代ギリシア時代のイオニア式柱頭からはかなり違ってきている。
大きなホールの内部は、28本の円柱からなる長方形の2層式ポルティコに囲まれている。これらの円柱は溝彫りをほどこしたイオニア式で、高さはおよそ11m、側壁に並ぶ24本の半円柱と1本1本が向き合うように立っている。
オプス・ラテリキウム(レンガ積み)の列柱は、この建物特有のもので、縦溝を彫った柱身は、五角形の先端を引きのばした日輪形のレンガ積み上げでつくられているという。
このような列柱廊のあるバシリカから、キリスト教時代のバシリカ式教会堂が生まれた。
バシリカの西側は背面の壁際に突きだす形で壁に囲まれた2階建ての四角い部屋が設けられ、同じ広さの地下室もついている。
高さ2mの基壇上にある1階は、バシリカの中央に面して開放され、裁判所として用いられていたという。

バシリカ北壁の崩れた部分から覗き見る。
⑪アポロ神殿
『完全復元2000年前の古代都市ポンペイ』は、前80年にスッラのを送りこんだ入植者たちがカピトリウムの3神に対する信仰をしいるまでは、アポロ神が町の守護神とされていたのである。
前2世紀、市民広場を囲む公共施設の建設を機に、周辺の土地調査が行われ、アポロ神殿は、敷地を削減するかわりに全面改築されることになった。
ドーリア式のポルティコは62年の地震の後にイオニア式につくりかえられたという。
あんなところにアポロ像が。思っていたよりもずっと小さく目立たない。
こんなに小さな像だったとは。
あちらにはアポロと双子のディアナ女神の像が。
どちらもレプリカだとか。
正面階段を側面から見ていると、ディアナがいた。
上半身だけが残って痛々しい。

⑫穀物取引所
現在では出土品の収納所となっている。
コンポジット式柱頭も
付け柱も
そして大量のアンフォラ形土器
丸彫りの像、墓碑だろうか小さな子供と犬の浮彫の龕は。
こんな作品も。

⑬ユピテル神殿
同書は、この神殿は前2世紀の昔から市民広場の設計図に組みこまれていた。
現存する基壇の3mほど手前を試掘した際、建設当初の大きな祭壇(4.30X6.60m)が発見されたことから、この神殿にはもともとユピテル神が祭られていたと思われる。ところが、前80年になってまもなく、大きな変化が訪れた。スッラの命令でローマから入植した人々の存在が市民の生活にも影響をおよぼしはじめたのである。神殿はカピトリウムにかわり、ローマのカピトリウムの丘で崇拝されていたユピテル、ユノ、ミネルウァの3神が祭られるようになったのである。
正面に6本、側面に4本並んでいたコリント式の細い円柱は、ヌケリア産の灰色凝灰岩の表面を非常にきめの細かいしっくいで塗り固めたものである。精巧な柱頭は2つのパーツを組み合わせた形だった。
神室の床面は、中央がオプス・セクティレでおおわれ、帯状の縁取りと側廊の柱間は、白黒のモザイクになっていたという。
その左の凱旋門はアウグストゥスのために建てられたという説もあるらしい。

神殿右のゲルマニクスの凱旋門を抜けると左側にカフェテリア、続きにフォロの浴場
正面に⑮カリゴラの凱旋門、その右側に大理石の基壇が見えている。

⑯フォルトゥナ・アウグスタ神殿
同書は、神殿はフォルム通りとフォルトゥナ通りの交差する角にあり、南側の基壇の下やうしろなどにオプス・シグニヌムで装飾された床面が少しずつ残っていることから、かつてはここに商店や家が建てられていたと考えられる。
神殿はエトルリア系イタリア様式で、前1世紀末に建造された。西向きのファサードには大きな階段があり、途中に幅は広いが奥行きのせまい踊り場が一つある。その下の階段中央に基壇が設けられ、祭壇が置かれている。
本殿は、コリント式の円柱が正面に4本、側面に3本立つ前室(プロナオス)からなり、基壇のうしろ半分を占める神室の背面の壁には大きなアプシスが設けられたという。
オプス・シグニヌムについて東京大学学術資産アーカイヴズポータルでは、テラコッタの粉末を混ぜた防水漆喰と説明している。
平面図
A:フォルム通り B:フォルトゥナ通り C:正面階段 D:祭壇 E:前室(プロナオス) F:神室 G:2柱式アプシス H:記念像をおさめる壁龕 I:神官団の部屋
⑰ファウノの家についてはこちら
⑱ウェッティの家についてはこちら

ポンペイ 円形闘技場からアポンダンツァ通り← →ポンペイ エルコラーノ門周辺

関連項目
ポンペイ ウェッティの家
ポンペイ ファウノの家
フォロには二階建ての柱廊
フォロ隣の市場に第4様式の壁画
フォロの浴場は意外に小さかった

参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」 サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス