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2026年5月8日金曜日

アイザノイ遺跡北部


フリギア渓谷の西方にあるアイザノイ遺跡全体の地図 Google Earth より
今回はアイザノイ遺跡北部
マッケラ Macella L列柱通り M Tarihi Köprü Yolu N音楽堂 Erion O水場 Pゼウス神殿 Zeus Tapınaĝı Q浴場 Hammam と運動場 Palaestra 競技場 Stadion 円形劇場 Tiyatro 


続いてQ浴場へ

浴場とパレストラ複合施設 平面図は説明パネルより(好みで上を北にした)
説明パネルは、後2世紀半ば頃、アイザノイの有力一族であるクラウディウス家によって建設され、ビザンティン時代に拡張され、いくつかの付属施設が追加された。遺跡は1926-28年にかけてD・クレンカーによって初めて調査され、浴場部分は1978年から1982年にかけて部分的に発掘・修復された。小規模な帝政様式に属する浴場では、建物の中央に❹冷浴室(フリギダリウム)と❺温浴室(カリダリウム)が左右対称に配置されている。両浴室の周囲には、様々な用途に使われた複数の部屋があるという。
①下部のアーチ ②後陣のある部屋 ③冷水プール ④冷浴室 ⑤温浴室 ⑥パレストラ(運動場) ⑦ハイポコースト(床下暖房)の跡? ⑧後陣のある部屋
②と⑧の後陣のある建物は、ローマ時代にはバシリカと呼ばれ、後に教会堂の建物にも採用された。それについてはこちら

①下部のアーチ
アーチの上には半円形の後陣(アプシス)になっている。ここが暖房の焚き口だったとか。

②かなり広い部屋で、アンカラのローマの公衆浴場の遺構でG・Iにあたるのかも。

入口側には、アプシス(後陣)からは、ヒュギエイア女神の大理石像が発掘されたという。
ヒュギエイア女神の大理石像 説明パネルより

両側の等間隔に並ぶ白っぽい切石積みの柱の上はやや黒い石がのっている。この高さがヴォールト天井へと移行する起拱点かな。

右前方に③冷水プール

④冷浴室を通っていく。


遺跡は段々高くなって、

小高いところから③冷水プールと柵の外の今は畑となつた⑥パレストラを眺める。
2019年に完全に発掘された冷水プール(ナタティオ)は、18×4.7mの大きさで、深さは1m。かつて運動場として機能していたパレストラ部分は、110×145mという。

床下暖房の跡だろうか。
その反対側には温浴室に続く部屋があって、等間隔に草の生えていないところがある。床下に等間隔に平レンガを積んで、暖めた空気を送るハイポコーストだったのかな。
2本の板は扉口の痕跡。

その遺構を横から覗く。

右前方にこれから見学するS劇場が見えた。

この辺りはかなり大きな何かの凹型の断片が散乱しているが、建物の石材だろうか、それとも石棺の蓋? 建物の石材とは違うグレーの石で同じような大きさのものが散乱している。

人が歩いてきた方まで行くと、半円形の⑧後陣があった。


入口方向。右前方にはPゼウス神殿が見え隠れ。
平レンガが積まれた部屋の基礎は④冷浴室だろう。

右手の遺構の外を回って道路へ戻る。


続いてR競技場とS劇場へ。
ここが地図の丸い部分で発掘調査の人たちが車でやってくるロータリー。

こんな風に見ると、ローマ劇場の前に広がる出土品を置くだだっ広い場所のようで、


上空写真と平面図(現地説明パネルより)のようなものだとは想像できなかった。
Rスタディオンは細く長く、その先に劇場がキノコの傘のよう。
Sアイザノイはローマ時代の遺跡というが、劇場の座席が180°以上あるのはギリシア時代の劇場ではなかったかな。
劇場については後日忘れへんうちににて

何時の日か観客席が復元される日を待つ石材が並ぶスタディオンの間の通路を、

長々と歩いて行くと皆右へと向きを変えるのは、


円形劇場のだいぶ手前に柵があって入れないからだ。
黒っぽい石積みは劇場のスケネ(舞台背後の壁)

スケネ立面図 説明パネルより

土手?に上がり劇場へ。

オキアイ氏たちはもうあんなところまで行っている。

みんな待ってくれ~


やっと追いついて、当時の通路を通って

劇場の観客席を見える場所へ。
ギリシア時代の劇場のように斜面を利用して造られている。そして何故か黒い塗料を上から流したように観客席が上部から黒く変色しているのが不思議。

発掘調査した時すでに観客席は露出していて、こんな風に崩れていたのだろうか。発掘後に地震があったのだろうか。

下りていく時に眺めたスタディオン。

このあくり精密に造られたとは言えない三連アーチは何だったのだろうか。



駐車場付近まで戻るとゼウス神殿の円柱が全部見えた。


翌朝最後の朝食。巣蜜は豪快に減っていた。

もちろん私も控え目?に戴いた。


その後エスキシェヒル駅から特急 YHT でイスタンブールへ。

座席も快適だった。


地図 Google Earth より
❶エスキシェヒル Eskişehir ❷ブルサ Bursa ❸チャナッカレ海峡 ❹アリフイエ Arifiye ❺イスタンブール Istanbul ❻イスタンブール空港 


かなりイスタンブールに近づいた頃のマルマラ海。マルマラ海はボスポラス海峡で黒海と繋がり、❸チャナッカレ海峡(ダーダネルス、古くはヘレスポントゥス)によってエーゲ海と繋がっているが、どちらも狭いので、滅多に荒れることはないという。

 フェリーで見た修復中のハイダルパシャ駅 Haydarpaşa まで乗ると思っていたのに、まだ建設途中のようなソーウトリュチェシュメ  Söğütlüçeşme 駅で下車した。

ここからはバスで空港まで。
ソーウトリュチェシュメ Bカドキョイ kadıkyoi Cハイダルパシャ駅 Dチャルムジャ塔 Eボスポラス第一大橋

チャルムジャ塔  Çamlıca Kulesi
晴れた日は黒海も見えると言うが、見学した日は大雨だった。

Eボスポラス第一大橋
トルコでは7月15日殉教者の橋 15 Temmuz Şehitler Köprüsü と呼ぶイスタンブールのアジア側とヨーロッパ側を結ぶ橋。現在では第三大橋までできている。予定ではその第三大橋を通って空港まで行くことになっていたが、混雑しているということでこの第一大橋を通ることになった。


巨大な⑥イスタンブール空港に到着
ここで現地ガイドのオキアイ氏とお別れ。
オキアイ氏のお祖父さんはサウジアラビアまで行ってイスラーム教の勉強をしてきたそうである。子供の頃、お祖父さんから言われたのは「イスラームで大切なのは寛容と喜捨だよ。喜捨は人前でせずに隠れていなさい」だという。オキアイ氏は、今ではその寛容さがなくなってきていると思いますと語った。
その頃は現在のような情勢ではなかったが、現在ではそれはムスリムたちに対して言えるだけではない。
イタリアを旅していた時の現地ガイドは、「キリスト教は不寛容な宗教ですから」と言っていた。それは古代のローマ帝国が多神教で、余所の宗教がローマで流行したりして、寛容な時代だったことの比較ではあるのだが。


     アイザノイ遺跡南部


関連記事
ユシキュダルを歩く(チャルムジャ塔)

参考にしたもの
現地説明パネル

2026年3月27日金曜日

ゴルディオン宮殿遺跡


ゴルディオン博物館の見学後はフリギア時代の都市遺跡へ。

ゴルディオン近辺図 Google Earth より
ⓐMM墓 ⓑ博物館 ⓒゴルディオンの古代遺跡


説明パネルは、前9世紀末頃、ゴルディオンの支配者たちは城塞の高さを初期フリギア時代の水準より4-5m高くする計画を立てた。この計画には、50万立方m以上の粘土の移動が必要だった。前800年頃には、既にこの新たな計画の準備が進められていたが、その頃、この地で大火災が発生した。この火災の原因は不明で、襲撃の証拠はなく、都市の住民は全員避難した。
ゴルディオンの支配者たちは建設計画を続行し、新しい城塞の設計図は基本的に以前のものと重複していた。古い配置を丁寧に繰り返していることから、機能の継承が示唆されている。例えば、テラス付き建物群は、その上にある以前の建物群と同様に、食料と繊維の生産の中心地だった。新しい建物群は互いに連結されておらず、独立して配置されていた。これはおそらく、火災の急速な延焼を防ぐためだろうという。
初期フリギア時代の宮殿建物群と新しい時代の建物群の比較 説明パネルより
青が初期の宮殿、赤が新しい宮殿


門から時計回りに初期フリギア時代の宮殿の周囲を巡った。 説明パネルより
初期フリギア城塞の門(前900-800) ❷下の町 ヘレニズム時代(前3-前2世紀) ❸テラス付き建物群を眺めるポイント ❹展望ポイント ❺サカリヤ川の展望ポイント ❻❼展望ポイント ❽❾メガロンの展望ポイント ➓門の展望ポイント


入口から坂を上っていくと、奥の城壁の前で現地ガイドのオキアイ氏が説明しているが、それより下にも石垣があるのだった。

初期フリギア城塞の門 前900-800年
説明パネルは、石壁は今も約10mの高さを保っている。門は比較的簡素で伝統的な設計で、まっすぐな廊下が内側の端にある門へと続いている。この門は、前800年頃に城塞が再建された際に、意図的にほぼ無傷のまま埋められたため、鉄器時代のアナトリアで知られる門群の中で最も保存状態が良い。
再建された中期フリギア城塞は、以前のレベルよりも4-5m高く建設された。新しい門は古い門の上に建てられ、そこから突き出ている。以前の門よりも壮麗だったが、保存状態ははるかに劣っているという。

上空より俯瞰した門 説明パネルより

発掘調査の様子 説明パネルより

復元図 説明パネルより
門は両側に二つの堡塁が築かれ、貯蔵庫としても使用されていたという。


一旦遺跡の入口側に戻り、外周を時計回りに進んで行ったので、先ほどの門がまた見えた。

柵に沿って市域の周囲を巡る。


❷下の町 ヘレニズム時代(前3-2世紀)
説明パネルは、かつて中期フリギアの泥煉瓦造りの砦が置かれていた丘で、ペルシアの攻撃で破壊された。その周辺地域(「下町」)の発掘調査により、前3-2世紀にかけてヨーロッパから移住し、ゴルディオンとその周辺に居住していたケルト人の部族、ガラテア人に関する最も重要な証拠がいくつか得られた。現在は要塞化されていないシタデル・マウンドには、ガラテア人が立派な建物を建て、その中には贅沢な家具が備え付けられていたものもあった。前89年、M・マンリウス・ウルソ率いるローマ軍がこの地域に侵入した際、ガラテア人は町を放棄したという。
この辺りでは当時の遺骨が多数発見されたという


作業場付き家屋(TB1)から望む❶門とMM墓をはじめ小さな墳丘墓群も見えている。

❸テラス付き建物群 Terrace Buildings 
説明パネルは、広い通りを挟んで向かい合う2棟の細長い多棟の建物で構成されている。建物は前800年の大火で焼失したが、発掘調査で建物内の遺構が発見され、内部で行われていた作業の一部を再現することがでる。
テラスでは、ひざまずいたりしゃがんだりしながら、挽石を使って穀物を粉に挽いた。挽石の一部は今も奥の壁に残されている。また、羊毛を紡いで糸や撚糸にする者もいた。さらに、織機で織物を織ったり、鉄の針を使って布を縫い合わせたりする者もいた。
各ユニットの控えの間は厨房として機能し、日干しレンガと粘土でできた蜂の巣型の大きな窯があった。これらの作業は、原材料を城塞に運び、加工・分配する中央集権的な宮殿経済の一部を形成していたと考えらる。すべて稼働していた当時、この地区には300人近くの者がおり、そのほとんどは女性だったと考えられているという。
整然と並んだ建物の区画。女性たちはここで日中働き、夕方になると「下の町」の各家へと帰っていたのだろう。


❹大通りの展望ポイントより
説明パネルは、初期フリギア城塞の二つの主要部分のうちの一つ。このエリアには広い大通りがあったというが、大通りは見えない。

説明パネルで撮影している場所が大通りの上だったのだ。
『GORDION MUSEUM』は、前700年頃、フリギアの城塞の大部分が大火で焼失した際に、建物とその内容物が無傷のまま残ったことから明らかだ。この破壊は、おそらくキンメリア人によるフリギア侵攻に関連して発生し、ミダス王はこの出来事に関連して亡くなった可能性があるという。
初期フリギア城塞の門(前900-800) ❸テラス付き建物群を眺めるポイント ❹展望ポイント ❺サカリヤ川の展望ポイント ❻❼展望ポイント ❽メガロンの展望ポイント


七番目のテラス付き建物


右手の遺構を眺めながら次の展望ポイントへ。

その途中にも周壁の遺構(説明パネルに黒い線で示されている)が見えた。


❺サカリヤ川だというのが右端の橋で分かる程度。


サカリヤ川とクシュテペ 説明パネルより

説明パネルは、城塞は、通常「下町」と呼ばれるさらに広大な地域に囲まれており、広大な外部要塞システムによって守られていた。この要塞は、厚さ3.50mの石の土台の上に築かれた、高さ4mの日干しレンガの壁を特徴としており、そのすぐ前には防御用の堀が設けられていた。現在では侵食された日干しレンガに埋もれているこれらの壁は、現在も遺跡が残る二つの砦につながっていた。一つは北端(クシュテペ、別名「鳥のマウンド」)で、もう一つは南東(クチュク・ホユク、別名「小さなマウンド」)という。
A:クシュテペ Kuştepe B:クチュクホユック Küçük Höyük C:ゴルディオンの街

サカリヤ川の流れの変遷とゴルディオンの街 説明パネルより
1:中期フリギア時代(前800-540年頃)の城塞とその周辺 
サカリヤ川は集落の東側を流れている。
2:後1000年頃まで
長年にわたり、特に遺跡の東側を流れる小川によって、川の平野には3mもの堆積物が堆積し、川がマウンドに押し寄せ、壁や建物が浸食された。
3:現在の流れ
何世紀にもわたる農業に関連した浸食によって引き起こされたこの影響により、最終的に川は西側の現在の位置に移動せざるを得なくなった。


続いて東方向へ


❻遺跡の中心部を眺める展望ポイント
切石積みの遺構が再び現れた。先ほど見えた周壁の続きだろうか。遠くには❶入口の門や❸テラス付き建物群が見えている。

説明しながらどんどん先に進むオキアイ氏、撮影しながらどんどん遅れていく私。トラベルイヤホンでオキアイ氏の説明は聞こえているので分かった気でいるが、自分が見ている場所と違うので、一向に記憶できない。



❼メガロンが見える展望ポイント。
説明パネルは、マウンドの発掘調査では、高さ12m、長さ少なくとも50mの日干しレンガの基壇が発見され、その上に四階建ての兵舎群が建っていた。この要塞は前540年代のペルシア軍の包囲によって破壊された。ペルシア人が都市への侵入のために建設した攻撃斜面は、マウンドの右側(南側)に今も保存されており、要塞の壁の表面には何百もの矢じりが埋められていたことが発見されたという。

テラス付き建物(TB)群のこちら側にはメガロンが並んでいる。

メガロンの位置 説明パネルより
❶入口の門 ❼❽❾➓はそれぞれの展望ポイント メガロンM2・M3


修復中の門と丘陵に並ぶ墳丘墓群


❽メガロンの展望ポイント
M3とM2の間には初期の囲い壁があった。

その囲い壁は東方へ続いていた。


❾展望ポイント
説明パネルは、前10世紀後半から前9世紀にかけての初期フリギア城塞は、アナトリア中部における鉄器時代の記念碑的建築の代表的な例。入口正面右側にあるのは宮殿地区で、開かれた二つの大きな中庭があり、厚い隔壁で区切られているという。
宮殿は修復中の門側から見て右側ということなのでこの辺り? M9はどこかな?

一番大きなメガロン3(M3)
『GORDION MUSEUM』は、床に複雑な木製梁が組み込まれ、バルコニーと屋根を支えていた。宮殿地区の中心的な建物として機能していた可能性が高いという。

説明パネルは、フリギア人が好んだ建築様式はメガロンで、大きく奥行きのある広間と、それよりずっと浅い控えの間またはポーチを備えた長方形の構造だった。そのほとんどは、石の基礎の上に日干しレンガと木材で建てられた。
城塞内で最大のメガロン3には、象嵌細工が施された木製家具など、現在アンカラのアナトリア文明博物館に収蔵されている豪華な品々が数多く収められていた。前9世紀のゴルディオンの支配者たちは、メガロン3を接待所や謁見の場として利用し、自らの富と地位を誇示していた可能性があるという。
メガロンはミケーネ時代にもあって、2本の円柱のある玄関、狭い控えの間、4本の円柱で囲まれた丸い炉がセットになっているが、ゴルディオンでは玄関と炉のある部屋のよう。
手前の隔壁のこちら側のものも平面図には丸い炉があるのでメガロン(ゴルディアン・メガロン2の平面図より)。


メガロン2(M2) 説明パネルより
『GORDION MUSEUM』は、石造りではあったものの、同様の木造骨組みを備えていた。石壁には、人物的、抽象的な様々なデザインが数多く刻まれていた。その中には、二段勾配屋根と角形の屋根冠(アクロテリア)を描いた建物のファサードがある。展示されている実際の石造アクロテリアは、メガロン2の近くで発見されたもので、建物の屋根冠だった可能性がある。これは、アンカラやアフィヨンとエスキシェヒルの間のフリギア高原にあるフリギアの建物ファサードの描写で知られるタイプのもので、フリギアの女神マタル(「母」、キュベレとも呼ばれる)に関連する記念碑という。
説明パネルは、メガロン2は、ゴルディオン博物館で鑑賞できる、色鮮やかで大胆な文様のモザイクの床を持つ石造りの建物。前9世紀に敷設されたと考えられており、これまでに発見された最も古い小石モザイクに数えられるという。
最古の舗床モザイクについてはこちら


もう少し進んだころから入口の門辺りを見たが宮殿の遺構は見えず、

先ほど反対側から見た写真ではこんな風に写っているので宮殿の遺構は分からないが、門の近くにあったのは確か。しかしこの周壁の中には神殿はなかったようだ。


➓回り込んで入口の門近く
門のこちら側の斜面に段々に積まれていた石垣の裏側が見えている。

これは門に近づいた時に見えていた石垣


振り返るとMM墓と周囲の小さな墳丘墓が見えた。


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参考サイト

参考文献
「GORDION MUSEUM」 Republic of Turkey Ministry of Culture

参考にしたもの
現地説明パネル