ブル修道院はその街に入る手前の南東の広大な土地にあって、市街地のカテドラルの鐘楼が見える。
バスを降りて最初に目に入るのはこの後期ゴシック様式の付属教会のファサード(西正面、真西ではなく、ざっくりと西)。ところが小さなトラックが扉口付近に停まっていて邪魔!
MONASTÈRE ROYAL DE BROU というブル王立修道院でもらったリーフレットは、マルグリトドートリシュ Marguerite d'Autriche が選んだブリュッセルの棟梁ルイファンボーヘムによって1513-32年に建立された、後期ゴシックのフランボワイヤン様式の傑作という。
フランボワイヤン様式のカテドラルといえば、アルビのサントセシル司教座聖堂を見学したことがあるが、外観はこちらの方が焔のようにメラメラしているかも。
修道院は教会の右手に続いている。
平面図
リーフレットは、ブル王立修道院には3つの回廊があり、12-30人の修道士のための4000㎡もの建物がある。ルイ14世の保護下にあったこの修道院が「王立」の名をとったのは、1659年にロンバルディア州のアウグスティヌス会の修道士たちがフランスの会衆から釈放されてれたときのことであるという。
①中庭1 ②教会への入口 ③身廊 ④十字交差部 ⑤内陣の仕切り ⑥聖歌隊席 ⑦⑧⑨墓 ⑩後陣
入口は小さく目立たない。
窓の仕切りが十字架になったルネサンス様式、ということは教会の方が古い、のかな?
ロマネスク様式の回廊のように、浮彫のある柱頭をいただいた円柱が並ぶものではない。
回廊の天井はリプのある交差ヴォールト天井
通路には古い建物を飾っていた石材の断片が並んでいる。壁の途中の起拱点から三方にリブが分かれていく。その起拱点にはそれぞれ異なる浮彫があって、ゴシック様式らしくない、というのは私の知識のなさかも。
②入口 ゴシック様式の尖頭アーチでもなければ、ロマネスク様式の半円アーチでもない。へしゃがった尖頭アーチっぽいものとでも表現するか。
④十字交差部
北通路から教会に入ると、そこは南翼廊である。ということは、上に見えているのが十字交差部。奥の窓は北翼廊の壁面。交差部の左が身廊で、右が内陣になる。床はレンガ
交差部より西正面の本来の入口方向
身廊と両側の側廊とを隔てるものは円柱ではなくピア(複合柱)である。複合柱の身廊側中央から複数の線条の付け柱が上へ伸びて、身廊のヴォールト天井の横断アーチになっている。もちろん尖頭アーチである。
⑨マルグリトドートリシュ Marguerite d'Autriche (1480-1530)の墓
後陣左の側廊の突き当たりにはステンドグラスと複雑に積み上げられた群像があった。
そして窓側にはステンドグラス
左から2人目が夫のフィリベールルボーで、赤地に白十字のマルグリトドートリシュの紋章の服を着ている。
リーフレットは、この通路は、王女がプライベートの礼拝堂から人知れず居室に帰るためのものという。
聖歌隊席の中央にある。
リーフレットは、故人は2体表現されている。上の階では生きていて目を開け、儀式用の衣装を着た状態で、下の階では目を閉じてほぼ裸で復活を待っている死者の姿が表されている。それを囲む壁龕には、キリストの生涯についての予言をした古代の女預言者たちの立像が安置されているという。
この地下に埋葬されているのだろうか。
ここだけ追記
2023年6月28日の日経新聞朝刊に、服飾史家徳井淑子の「黒のモード10選」②に、ルーヴル美術館のフランス中世の彫刻展示室に置かれた「フィリップ・ボーの墓所」という作品が紹介されていた。
それを読んで、マリードートリシュの夫であったフィリベール・ル・ボー(美男のフィリベール)の墓または墓石が、この修道院聖堂の聖歌隊席中央にあったことを思い出した。
ところが、ルーヴル美術館蔵の墓所は全く違ったもので、黒く裾が地面にすれるほど長い黒衣を着け、フードを被った人たちが4名ずつ左右から板にのせたフィリベールの遺体を担いでいる。肩から提げたバッグのようなものは全てデザインが異なっているので、それぞれの家の紋章かも知れないと思った。
マルグリトドートリシュ専用だった通路を通り、教会の外へ。
説明パネルは、ブルーのステンドグラスはほぼ無傷で保存されており、まばゆいばかりの色の調和を見せています。これらは、1525-31年に、ブールとリヨンの熟練のガラス職人によって、ブリュッセルの匿名の画家の型紙(等身大の)から作られた。
素材、特にゴールドリネン、ベルベット、金襴、ダマスク織などの布地の豪華な表現に目を奪われる。それらは遠くからでも見えるような方法で構成されているが、「ガラスに絵を描く」という表現が完全に正当化されるように、細部にまで細心の注意が払われているという。
下段が「エマウ(Emmaüs エンマウス )の巡礼」
リーフレットは、ポーチの隣は、マルグリトドートリシュの居住空間だった。この最初の回廊は、1階がリブのある尖頭アーチ型交差ヴォールト、2階が平天井となっている。外の世界と修道士のコミュニティとの連絡役に使われ、また通りすがりの客人を受け入れたという。
別方向から
別方向から
南翼廊と後陣の間に立っている四角い塔については解説がない。
その後は博物館になっている様々な部屋を覗いた。
ベルナールファンオルレ Bernard van Orley による肖像画が残っている。
マルグリトドートリシュの肖像画 リーフレット MONASTÈRE ROYAL DE BROU より |
まず、マルグリトが、その身分のゆえに次々と婚約、結婚させられ、3人目のフィリベールルボーが亡くなった後は、独身を通した経緯を説明する家系図のある部屋
説明パネルは、この聖母子は19世紀末にサンベニーニュの農場で発見された。おそらく1870年に破壊された教会から遷されたものと思われるという。
それは⑱の回廊だった。
中庭を見下ろすと、いろんな柵を使って植物を飾ろうとしているみたい。
㉓の回廊と中庭
この回廊からには窓があって外側が見えた。修道士たちが畑を作っているようでもあった。もっとも現在修道士がいるのかどうかも分からなかったが。
階段があったので降りていくと⑱の中庭は人がいなくなっていた。教会の屋根が十字架の形になっていることや、修道院の構造を復習できた。
①修道院の入口 ②前庭と日時計 ③教会 ④マルグリトドートリシュの居住区 ⑤回廊と博物館 ⑥牧草地と古い果樹園 ⑦庭園 ⑧管理室
日時計には気づかなかった。畑とに見えたのは庭園でした。
修道院のある通りにはレストランが並んでいたが、バスはブールカンブレスの街中へ向かった。
バスはターミナルまで。そこからは歩いて行った。
この辺りは新しい建物が多く、レンタサイクルもあった。
テリーヌというよりはクネルに近かった。とにかく大きすぎる。
これが名高い「ブレスの鶏」クリーム煮というよりは焼いた鶏をクリームソースに漬けた感じ。
肉はしっかりしていて、黄色い脂身がないので皮も食べられる。パンがある上に長粒種のライスが出てきたので少しいただく。カマルグで作られている。イランで出てきた米とよく似て軽かった。
ソースも残さず、しっかりいただきました😋
その後、タルトはお好みのものをということなので、朝ホテルで食べなかったチョコレートにしたら、似ても似つかない形、そして大きさ。日本ならハンバーガーの大きさやん。もうすでに腹10分目を超えているのに・・・
中はピスタチオのクリームが2種類でチョコレートムースを挟んでいる。
他の方からも別のタルトをもらったりして、完食するのは大変でしたわ😣
そしてコーヒーにも小さなチョコレートが付く。すでに逆流性食道炎が心配!
リヨン オテルデュー L'Hôtel Dieu← →ペルージュ Pérouges
リヨン オテルデュー L'Hôtel Dieu← →ペルージュ Pérouges
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参考にしたもの
「MONASTÈRE ROYAL DE BROU Chef-d'œuvre d'une fille d'empéreur 」というリーフレット