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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2010年3月16日火曜日

常滑やきもの散歩道を歩く3 登窯


登窯広場の向こうに登窯があった。


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説明板は、常滑の登窯は江戸時代、天保5年(1834)に鯉江方寿の父、方救が真焼け物を効率よく生産する為に導入したのが始まりといわれています。  
江戸時代の主流であった鉄砲窯(大窯)では、真焼け物を効率よく生産することが難しいため登窯の導入は画期的な出来事でした。
この陶栄窯は明治20年に建築願いが愛知県知事に出されており、その頃に築かれた窯であることがわかりました
という。 入口の足元にはサヤの蓋などが並べてあって面白い。サヤは薪を焚いて飛んだ灰が作品にかからないように入れる容器。 確かに登窯は登っているが、今まで歩いてきた丘とは別の斜面につくられている。
いろんな色の大きなレンガが並んでいて面白い。第2室しか見られないとは残念。 第2室の奧にはサヤが置いてある。ヴォールト状の天井には、窯を焚いた薪の灰がかかって陶器のようだ。
床面の左端に穴が並んでいる。ここから熱風が入ってきたのだろう。 登窯の周囲を廻るこにする。いろんな形のサヤや土管が積んである。 裏側に10本の煙突が並んでいる。これまでにあった煙突は家屋の1階の外側についていた。このような登窯はもう使われなくなったのだろう。 正面から煙突を撮りたいが、薮が迫っていて横からしか撮れない。 上から見下ろすとかなりの傾斜。右下がサヤです。
この部屋にはサヤがたくさん積んである。 数はかぞえなかったが、焚き口は煙突と同じ10個あるのだろう。
当初の窯は、薪や松葉で窯を焚いていましたが、明治30年代の後半になると第一室目の焼成に石炭が使われるようになり、折衷式と呼ばれる登窯が常滑では一般的になってきました。陶栄窯もその頃に折衷式になったと推定されますという。 少し離れて全貌を見渡すと、この登窯は別の山に造られていた。
八つの焼成室を連ねた陶栄窯は、全長22m、最大幅9.6m、最大天井3.1mと大型の登窯の部類に属しますが明治末期の常滑では、このような登窯が60基ほどもあったと記録されていますという。 その後常滑では石炭窯が一般的となり登窯の数は急速に減り現在ではこの陶栄窯が残るだけとなりました。そしてこの窯も昭和49年1月の窯出しを最後に操業を停止したという。
もう30年以上も前のことだ。 

※参考
登窯の説明板