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2026年5月1日金曜日

アイザノイ遺跡南部


最後の見学はアイザノイというローマ時代からビザンティン帝国時代にかけて栄えた町。オスマン帝国の頃陶器製作で栄えたイズニクが廃れてから陶器の町となった⑥キュタヒヤから外れていった。
地図はGoogle Earth より
エスキシェヒル Eskişehir ②ミダス記念碑(ヤズルカヤ) Yazılıkaya/Midas Anıtı ③アスランタシュとユランタシュ Aslantaş-Yılantaş Ören Yeri ④アフィヨンカラヒサール Afyonkarahisar ⑤アイザノイ Aizanoi ⑥キュタヒヤ Kütahya 


Turkish Archaeological NewsAizanoiは、アイザノイは、フリギア地方に位置するアイザニティスと呼ばれる地域の都だった。ローマ人が到来する以前のこの都市の歴史はよく知られていない。おそらくこの地域への集落は前3千年紀に始まったと考えられる。これは、ゼウス神殿付近で行われた発掘調査で発見された地層によって裏付けられている。
都市の名前は、アルカスの息子の一人であるアザンに由来する可能性があり、アルカスはゼウスの子だった。彼の母は叙情詩の女神エラトで、フリギア人の神話上の祖先と考えられた。アイザノイの政治的重要性は、ビテュニア王国とペルガモン王国の間の紛争中に増した。前133年、この都市はローマ人に征服された。
初期帝政時代には、アイザノイに多くの記念碑的な建造物が建てられ、公共インフラが整備された。アイザノイの重要性は、小アジアを通る重要な交易路上の戦略的な立地と、穀物、ワイン、羊の地元生産に由来する。ビザンティン帝国初期にはアイザノイは司教区となったが、7世紀以降、その権力は衰退した。中世には、ゼウス神殿が建つ丘が要塞化された。築かれた要塞は、セルジューク朝のためにこの地域を支配したタタール人のチャヴダル家の拠点となった。この一族の名前は、現在この地の村の名前であるチャヴダルヒサル(チャヴダル家の要塞)に残されているという。

アイザノイ遺跡全体の地図 Google Earth より
今回はアイザノイ遺跡南部
マッケラ Macella L列柱通り M Tarihi Köprü Yolu N音楽堂 Erion O水場 Pゼウス神殿 Zeus Tapınaĝı Q浴場 Hammam R競技場 S劇場


Kマケッラ(中庭にある商店街)
説明パネルは、肉や魚のほか、果物、野菜、焼き菓子、オリーブオイルなどの商品を主に販売する市場複合施設だった。中央に円形構造物(トロス)があり、その周囲に商店が並ぶ正方形の広場で構成されていた。アイザノイのマケッラでは、中庭の中央に直径13.27mのトロスの遺構が今も残っているという。
トロスには2本の円柱が残っている。

マッケラの俯瞰写真 説明パネルより


マッケラから向こうにあるのは列柱の残る広い空間。

L列柱通りとストア
近年の発掘調査により、後400年頃に建てられたストア(屋根付き通路)と列柱通りの存在が明らかになった。クラウディウス帝(在位41-54年)の時代に建てられたアルテミス神殿は、全長450mの列柱通りを建設するために取り壊され、この通りはメテル・ステウネネの聖域へと続いていたという。

それは列柱通りだった。 説明パネルより(ピンボケ)

復元の様子 説明パネルより

想像復元図 説明パネルより
説明パネルは、ローマ時代に公共市場として機能していたこの地域が、文化の変化にもかかわらず、数世紀後も市場として利用され続けたという事実は、非常に興味深いという。
敷石に轍の跡がなかったのかな。馬車を通すと轍ができるので、人がひく小さな荷車だけ通ることができたのだろうか。

残った列柱は、アルテミス神殿の円柱の再利用だろう。遠くから眺めているので、円柱が1列なのか2列なのかがよく分からないが、

移動して撮影すると2列だった。想像復元図では広い通りに描かれているので、近寄るとここで見るよりずっと間隔が広いのだろう。
その右には建物の遺構もあるが、何か解明されていないみたい。


円柱の上にイオニア式柱頭と簡略化された上部構造がある。柱は大理石だろうか。ガラス作家の田上惠美子氏に戴いた旧森田銀行本店写真の大理石を模した漆喰装飾を思わせる石の模様ですなあ。
そう言えば、大理石を模した漆喰装飾というのは、知る限りではミノア文明の頃からある。これについては過去にまとめたものを4点関連記事に挙げました。

上の蔓草文様のフリーズ


逆さまに置かれたコーニスにはアカンサスの葉。



M橋 Tarihi Köprü Yolu
古代の文献でペンカラスと記されている川(現在はコジャチャイ川またはベディル川)は、ムラト山近くのエフェンディキョイの源流から流れ出ている。タヴシャンル・ドマニチ地区でオルハネリ川と合流し、ブルサのムスタファケマルパシャ地区を通り、マニャス湖に注ぐという。
その川の橋をこれから渡る。

とは言え古い方は通れないので、新たに架けられた木橋へ。


五つのアーチで支えられた古い橋は轍がとても深い。


上流の橋



橋を渡り、民家の並ぶアブドッラー・ウズジャン通り Abdullah Özcan Cd. を進んでいくと

ゼウス神殿が見えてくる。


ここから見えるゼウス神殿は壁が2面残っているだけで、内壁が露出している。


この三叉路を右に行くと、
N音楽堂
説明パネルは、ゼウス神殿の聖域壁の南東に位置するこの建物は、アゴラやドーリア式ホールなどの公共の場所に囲まれた都市の中心部にあった。建物は正方形の平面で、座席は半円形。発掘調査によると、この建物は後1世紀頃に建設され、中期ビザンティン時代にも機能し続けていたことが分かっている。当初はブーレウテリオン(評議会ホール)として使用され、後にオデオンとして使用されるようになったと考えられているという。
半円形の3段ほどの席がよく残っている。

発掘調査時の様子。ゼウス神殿との間には石積みの建物跡が出土していた。

もっと高いところまで段があったようだ。赤い平面図には沢山の同心の半円が描かれていて座席は15段ほどあり、舞台側はやや歪みのある線で造られていたようだ。

この辺りから見えるゼウス神殿


近くのO水場には大量の水を持って帰る人もいる。断水などがあるのだろうか。銘水が出るのかも。

柵の向こうには出土品が並んでいる。

墓廟の壁石は柱頭ペディメントが二つのもの、小さいが4連のものや一つのものなどバラエティに富んでいる。

上下逆に並べられた柱頭の数々。こんな風に柵の中の出土品を見ながら柵に沿ってゼウス神殿へと回り込んだ。


向きが変わるとPゼウス神殿の外観もまた変わった。
説明パネルは、市の中心部に位置するゼウス神殿は、前3千年紀に遡る丘の上に建っている。神殿の建設は、ローマ皇帝ドミティアヌス(後81-96)の治世中の後92年に始まり、ハドリアヌス(後117-138)の治世中に続けられた。神殿は簡単な修復によって今日まで残っており、アナトリアにおけるローマ時代のゼウス神殿の中で最も保存状態の良いものという。
ゼウスはギリシア神話の最高神ではなかったのかな。ローマ時代に建造されているのでユピテルなのでは?

これが正面かな。
東側の祭壇前に置かれたアクロテリオンはゼウス神を表しているという解釈があるという。

正面向き

ゼウスのアクロテリオンの想像復元図
頭上の円形のものは何だったのだろう。


平面図 説明パネルより
オクタスティロス様式の擬似八柱式平面で建てられており、短い辺に8本の柱、長い辺に15本の柱があり、35×55mの基壇の上に建っている。主要な構造は、①プロナオス(前室)、②ナオス/ケラ(主室)、③オピストドモス(後室)からなるという。
遠方から見えていたようにこれらの部屋は壁しか残っていない。


ゼウス神殿には地下室があった。 立面図は説明パネルより
その下には、アナトリアではあまり見られない高いヴォールト状の空間がある。この地下室については二つの異なる見解がある。神殿の地下室は貴重な供物を保管するために使われていたという説がある。もう一つの説は、市街地から南へ約4㎞離れたキュベレ(メテル・ステウネネ)の聖域から神殿建設後にここに移され、ゼウスとキュベレの両方が神殿で崇拝されていたというものであるという。

さてその地下室へ。

階段途中からの地下室の眺め。ところどころに明かり取りの窓がある。
10mはありそうな高くみごとなヴォールト天井

現地ガイドのオキアイ氏は熱心に解説して下さるのだが、ほとんど覚えていなくて申し訳ない。脳ドックでは異常はなかったけれど・・・


壁側には出土品が並んでいて、それを写して戻っていく。

ゼウス神殿の壁面装飾や柱頭彫刻、地下室の遺物についてはこちら



関連記事
モスクに石の模様

参考サイト
Turkish Archaeological NewsAizanoi

参考にしたもの
現地説明パネル

2018年8月2日木曜日

トゥールーズ オーギュスタン美術館 回廊はゴシック様式


その後オーギュスタン美術館へ

聖ウルスラ通り(Rue Ste-Ursule、オクシタニー語では Carrièla Santa Ursula)る。ここにもサンティアゴデコンポステラへの巡礼路の目印が、通りの2つの言語の表示の下にあった。
リュックを背負った人が前を歩いているが、この人も巡礼者かな?それにしてはサンダル履きだが。
今まで雨に濡れて深いレンガ色の街を歩いてきたら、明るい一角に出た。それが木が3本ある小さなブルス広場(Place de la Bourse)。
赤い標識にオーギュスタン美術館は左手(東)方向とあった。
左折してテンポニエール通り(R.Temponières)を直進。
聖ローマ通り(R.St.Rome)との交差点に木組み(コロンバージュ、colombage)の建物が。
聖ローマ通りの右はシャンジュ通り(R.des Changes)に、通ってきたテンポニエール通りはこの先ペイラ通り(R.Peyras)に名称が変わる。
その角の建物にはマリア像かな?日本のお地蔵さんみたいに町角にあるのは大抵マリアさんだけど、、この像は坐って巻物を読んでいるみたい。
次の小さな通りとの交差点で、前方にオーギュスタン美術館らしき建物が見えた。
右(南)はトルヌール通り(R.des Tourneur、オクシタニー語ではC.dels Tornejaires)、この先の短い通りはジャンティ・マグル通り(R.Genty Magre、オクシタニー語も同じ)。
こんな風にフランス語とオクシタニー語(オック語)で記されている。

アルザス通り(R.d’Alsace)に出て右折。通りに面した建物は修復中だったので、入口がどこかわからなかった。
南側のメッツ通り(R.de Metz)に回ると、子供の遊具があって、別の建物に来てしまったかと思ったが、目を上に移すと幾分ずんぐりした八角形の鐘楼と南西部ゴシック様式の建物が見えた。はて、入口は?
角にあった建物には入口はなかったし、時間が限られているので焦る焦る。
でも、盛りは過ぎて白い花が変色しているが、タイサンボク(泰山木)が花を咲かせていたので写す。タイサンボクはその名称から中国の木だと思っていたが、マグノリア(Magnolia grandiflora)という北米原産の樹木だった。Wikipediaによると、17世紀 - 18世紀のフランスの植物学者、ピエール・マニョル (Pierre Magnol、ピエール・マニョル) から名付けられたという。フランス人のマニョルさんの名前から付けられた名称だったとは。道草を食うといろいろと分かります。
で、フランスではMagnoliaはマニョリアと発音し、モクレンを指す。タイサンボクはモクレン科で大きな花を咲かせるので学名はMagnolia grandiflora、フランス語ではMagnolia à grandes fleurs。
やっと見つけた入口は東端にあった。

平面図(オーギュスタン美術館でもらったリーフレットより)
リーフレットによると、オーギュスタン修道院南部のゴシック建築の美しい例で、歴史的建造物に認定されている。基本的には14-15世紀(例外として1626年に完成した古典主義様式の小さな回廊)のものである。1793年、ルーヴル美術館設立の直後に、この建物は美術館となった。
今日美術館の収蔵品は4000点を越え、革命時の押収品、トゥールーズの絵画や彫刻の古い王立アカデミーのもの、19世紀に破壊されたトゥールーズの数々の宗教建造物の遺物を核として、国のコレクション保管場所街の取得品、遺贈品、寄贈品も加えられたという。
今回の目当ては③室に展示されているロマネスク様式柱頭彫刻なので、受付から回廊へと進んでいった。

入って左手の回廊にはガーグイユ(樋口、英語ではガーゴイル)が並んでいる。思い思いに口を開いて遠吠えしているみたい。
リーフレットによると、13-14世紀のコルデリエ修道院(Couvent des Cordeliers)のものらしい。
回廊も14-15世紀のものだろう。細い二列の円柱に柱頭がのり、その上に装飾的なアーチが架かっている。
八角形の鐘楼も見えて、
ゴシック期にしては楽しい柱頭が並んでいる。
有翼の人面や動物、
アカンサスの葉の間に上の重みを支える人物、
アカンサスの下でアカンサスを支える人物たち。
アカンサスの間で右手で上を支え、左手で下支える人物、
これは隅の角柱の柱頭彫刻で、アカンサスの間から人面の猛禽が蹲っているのかな。
③のロマネスク彫刻を展示している建物。
ガーグイユが見え隠れする回廊へ
その先の扉口から入っていくと、やっとロマネスク様式の彫刻がみられるのだった。

キャピトル広場← →オーギュスタン美術館 ロマネスク美術展示室

参考サイト
Wikipediaのマグノリア

参考にしたもの
トゥールーズ観光局発行の地図
「Muée des Augustins Guide des collections Sculptures Romanes」 1998年