オルシヴァルからサンネクテールへ
ゲリ湖 Lac de Guéry が見え、
湖沿いに走るのかと思ったが、分かれてミュロルの町に入り、その後お城が目に飛び込んできたが、ピントを合わせきれなかった。。ミュロル城 Château de Murol という。
この城も玄武岩の岩崖の上に築造されている。
そしてやっとサンネクテールへ。
町に入っても家や宿屋が散在しているので、道沿いにそれを眺めながら、バスはぐりぐりと丘の上へ向かっていった。
古そうな泉水を見つけたので写そうとしたら、その間にもカーブを曲がってしまって、全く目立たない写真になった。
北翼廊には扉口はなく、側廊の中程にある。それにしても小さな窓。
日の当たる後陣側へ。
日の当たる後陣側へ。
サンネクテール聖堂の平面図
『世界歴史の旅 フランス・ロマネスク』(以下『フランス・ロマネスク』)は、教会は聖オストルモワンヌの布教と行をともにした聖ネクテールを祀っている。3世紀のはじめごろにこの地にいて、コルナドールの山に教会を建てた。彼自らはそのかたわらに埋葬された。その徳を偲んで巡礼者が集まったが、この教会の管轄は少し離れた所にある「ラシェーズディユー」におかれていている。12世紀になってこの土地をオーヴェルニュ伯ギョーム7世から寄進され、現在の教会がつくられた。そのことは教皇勅書にもあるという。
サンネクテールという名前は、おそらく開発された温泉場よりは、むしろ有名なチーズの産地として世に知られている。直径50㎝くらいの大きさである。ルイ14世もこれを賞味したという。
この教会は長さ37m、幅11mの小形であるが、みごとな調和をもっているのである。「大革命」で被害を受けるが、19世紀の後半に修復された。ラテン十字形であり、したがって翼廊をもち、三つの祭室と周歩回廊がある。翼廊にも左右一つずつ祭室をもつ。洗礼者志願室を除けば四つの梁間がある。両側に二つの側廊をもっているという。
三つの祭室に北翼廊の小祭室が付属する。後陣は一段高く、二層の八角形の採光塔の下にはオーヴェルニュ地方の教会の特徴であるマシフ・バーロン massif barlong がある。
後陣の北側面には二連アーチが二組でそれを支える円柱は各3本。
柱頭彫刻は、右端が素弁のアカンサスだが、他の五つは装飾的なアカンサス由来の葉文様で細身。
何故か採光塔の先が切れてしまう。鐘楼の屋根は石のよう。モディヨン(軒下飾り)は巻物、頭彫刻も素弁のアカンサスばかり。
北翼廊側
三角破風(フロントン)には色石のモザイクで、八弁花のロゼット文または八点星、その下は正方形を斜めに組み合わせた菱繋文、左右は三角を組み合わせた鱗文。
聖堂の南面
オーヴェルニュ地方の教会を尋ねているが、ここで初めて西ファサード側に二つの鐘楼があるタイプに出会った。
ところでこちら側、つまり南西の通路から全体を写すには距離が十分ではなかったので、『SAINT-NECTAIRE』の図版で。
そして北東上方より見たサンネクテール聖堂
見下ろすと模型のよう。
この図版のお陰で、身廊・後陣・祭室・翼廊などの屋根が板石で葺かれていることがわかった。
北東側から見たサンネクテール聖堂 『ÉGLISE ROMANE DE SAINT-NECTAIRE DE L'OMBRE À LA LUMIÈRE』より |
聖堂の南西角の向こうにも雪山が見えた。
どんな西ファサードかと期待していたが、見上げても素っ気ない。
宝物庫 L'Armarium
チーズフォンデュです、と聞いていたが、やってきたものは、想像を超えたものだった。
回りから冷めていくので、ゆっくりと「まずは野菜から」、「生ハムを食べてから」などといっていると硬くなって食べにくくなる。
左側廊
狭い交差天井だが、窓の小さな外観からは想像できないほど明るい。
拝廊(ナルテクス)の北側円柱のそばには岩のような聖水盤。三人で四角い盤を支えている。
『SAINT-NECTAIRE』は、左側の聖水盤は、上から下まで彫刻されいる。 この盤はサン・ネクテール城の遺跡の中から発見された。 これは、1548年にネクテールドセネクタール卿とその妻マルグリットデスタンプによって城の中庭に造られた噴水の中心的なものだったという。
16世紀のものだが、ルネサンス期の写実的なものではなく、素朴なのが良い。
幅のない身廊
左右の柱頭には短く柱葉脈が表されているので、アカンサスの葉というよりも蓮華座を見ているよう。
横断アーチも交差もない半円筒天井だが、『ÉGLISE ROMANE DE SAINT-NECTAIRE DE L'OMBRE À LA LUMIÈRE』(以下『SAINT-NECTAIRE』)に記載された19世紀の図版には横断アーチが幾つか描かれている。
そして、こんなにこぢんまりした教会なのに、オーヴェルニュ地方の教会で見かけることが少なかった階上廊(トリビューン tribunes)がある。
左:身廊より西ファサードの扉口
右:ナルテクス(拝廊)上の階上廊から見たミサの様子。中央の通路を挟んで左右の椅子には3-4名しか並べないほど小さい。
身廊から右側廊前方にフレスコ画のある低い壁が見えた。何だろう?
『SAINT-NECTAIRE』は、南側通路の4番目の区画の壁は壁画で覆われており、カルトゥーシュで次のように読むことができる。「この墓の下で1673年8月26日に聖オーディトールの骨が発見された」(現代フランス語での転写)。この装飾は、だまし絵のバロック様式の祭壇画 (ねじれた柱、ペディメント、植物のスクロール、花) を特徴とし、地元の人々だけが記憶している聖ネクテールの仲間聖ボディムを記念するものであるという。
教会の建物と比べるとかなり時代は下がるが、なかなか面白い図柄である。見学していて何故気付かなかったのだろう。
サンネクテール聖堂右側廊の祭壇画 17世紀 『ÉGLISE ROMANE DE SAINT-NECTAIRE DE L'OMBRE À LA LUMIÈRE』より |
上の写真を撮っていたナルテクス上の柱頭彫刻と半円アーチ
柱頭彫刻には彩色が残っていた。左は素弁のアカンサスに丸いものが付いていて、右の方は葉の切れ目のある装飾的なアカンサス。
『SAINT-NECTAIRE』は、だまし絵の装飾(18-19世紀)。凹凸のある切石と大理石の模様であるという。
模様は妙に見えたが、凹凸は本物だと思っていた。
身廊と内陣の間、十字交差部の上にはアルク・ディアフラグム(des arcs diaphragmes ダイヤフラム・アーチ)とドーム天井。『フランス・ロマネスク』で饗庭孝男氏が「横断膜」と表現されているのも分かる。
十字交差部の見上げ
やはり、ビザンティン教会やモスクのドームのように、1対√2という正方形から正八角形への移行にはなっていない。
ビザンティン教会の初期のものはペンデンティブ(pendentif パンダンティフ)だったが、絵を描くために面を多くするのにペンデンティブの方が適しているので、とペンデンティブになったと何かで読んだことがある。
また、ドーム部を囲むようにダイヤフラム・アーチがあるが。南北の翼廊には外側にもアーチがある。これが外から塔の肩のように見えたマシフ・バーロン Massif barlong の壁面である。
十字交差部上部のダイヤフラム・アーチには小さな二連アーチ(サンネクテール聖堂では三つ、後陣側は一つ)、各円柱の柱頭はほぼアカンサス由来の葉文様。
サンネクテール聖堂十字交差部の 『ÉGLISE ROMANE DE SAINT-NECTAIRE DE L'OMBRE À LA LUMIÈRE』より |
十字交差部上部のダイヤフラム・アーチには小さな二連アーチ(サンネクテール聖堂では三つ、後陣側は一つ)、各円柱の柱頭はほぼアカンサス由来の葉文様。
サンネクテール聖堂十字交差部のダイヤフラム・アーチ 『ÉGLISE ROMANE DE SAINT-NECTAIRE DE L'OMBRE À LA LUMIÈRE』より |
内陣
『フランス・ロマネスク』は、柱頭彫刻群は103個あり、少なくとも3つの工房がこれをつくったとされる。そのなかに世に聞こえたロベルドゥスの工房もある。とくに「ゾディアック叢書」では内陣の柱頭彫刻をABCDEFとグループに分け、そのおのおの柱の4面に番号がほどこされている。その番号にそってこれを説明するという。
彩色の残る内陣の柱頭彫刻は、頑張って撮影してきました。ピンボケもあるけれど。
柱頭彫刻については後日忘れへんうちににて
サンネクテール聖堂内陣前(十字交差部)での聖職者たちによるミサの様子
奥には北翼廊の一つの窓の下に開口部のない二つの半円アーチに挟まれて、三角のアーチがある。これは司教の被るミトラ冠の形に似ていることから、ミトラアーチと呼ばれている。
その下にあるのが宝物庫
サンネクテール聖堂内陣でのミサ 『ÉGLISE ROMANE DE SAINT-NECTAIRE DE L'OMBRE À LA LUMIÈRE』より |
北翼廊
何かわからないが、キリスト降誕の場面を表しているようにも見える。
『Saint-Nectaire』は、本来は玄武岩の古い祭壇だった。内陣でかなりの位置を占めていたため、20世紀初頭に解体され、不完全ながら現在の場所に再建された。この記念碑的な遺物棚は、聖ネクテールの墓の開封によって、収められていた遺物が展示されているという。
聖ボディムの胸像
『Saint-Nectaire』は、伝説によれば、聖ボーディムは聖オーディトールとともに聖ネクテールの仲間だった。類い希な質の高いこの胸像は、以前はこれ自体が聖遺物箱だったもの。
聖人は、司祭の祭服を着、トンスラ頭の聖職者の姿で表されている。
木製の芯を薄い銅の板で覆い、金メッキを施し、打ち出し加工を施しているという。
左:聖ネクテールの腕をした聖遺物箱
同書は、15世紀末のこの作品は、銀のエンボス加工が施された容器で、モンドールの使徒の前腕の遺物を祀るために作られた。
宗教的な金銀細工の長い伝統に従って、この聖遺物箱は、遺体の一部、つまり腕の形である。長袖を着た腕にはガラス張りの開口部があり、そこから聖遺物、つまり聖ネクテールの腕を見ることができるという。
後陣の最奥の祭室には小さな聖母子像が安置されている。
『SAINT-NECTAIRE』は、サンネクテール教会が建てられた岩だらけの丘の名前からノートルダムデュモンコルナドール Notre-Dame du Mont Cornadore と呼ばれる、12世紀の威厳のある聖母像。
キリストの生ける玉座としての聖母マリア、父の永遠の知恵という神学的概念を象徴している。この表現は、5世紀に神の母マリアを宣言したエフェソス公会議に由来するもので、神の子でありマリアの子である「真の神であり真の人」であるイエス・キリストの受肉の深遠な神秘を知覚できるようにするものである」という。
ここのマリアは黒マリアではない。この大きな手は幼子を抱いてはいない。
ロカマドゥールの黒い聖母子像は左膝に幼子を乗せているが、やはり手は幼子に触れていない。
キリストを抱いているのは、オルシヴァルのノートルダム聖堂の聖母子像や、長いクッションの上に坐ったルピュイのノートルダム聖堂ポーチタンパンに描かれている聖母子像や、トゥールーズのオーギュスタン美術館の柱頭彫刻がある。
見学後は待ちに待った昼食は、町、と言っても道路を挟んで建物が一列に続く程度だが、レストランが並んでいる。入ったのはブラスリ・レ・バラダン Brasserie les Baladins で。
飲み物はトマトジュース
酸漿の実が添えてあって、ユーラシアの東の果てにも共通する実があるのだなあと
やっぱり食後はエクスプレスの濃いのをぐびり
集合時間が迫っていて写を写す余裕がなかったが、レストランの近くのお店でチーズを買った。サンネクテールのチーズはすでに買っていたので、下のガプロンドォーヴェルニュ Gaperon d'Auvergne を新たに購入。
集合時間が迫っていて写を写す余裕がなかったが、レストランの近くのお店でチーズを買った。サンネクテールのチーズはすでに買っていたので、下のガプロンドォーヴェルニュ Gaperon d'Auvergne を新たに購入。
ホテルの部屋の冷蔵庫に入れてもニンニクのにおいが漂うほどすごかった。
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参考文献
「世界歴史の旅 フランス・ロマネスク」 饗庭孝男 1999年 山川出版社
「ÉGLISE ROMANE DE SAINT-NECTAIRE DE L'OMBRE À LA LUMIÈRE」2009