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2017年9月4日月曜日

スーサ(Susa)1 アケメネス朝の宮殿


現在はシューシュと呼ばれている町のシャヴール川の東に広大なスーサ遺跡はある。
Google Earthより
博物館横の通路から坂道を登り続けて、
最初に見えたのは、平らな台地にきっちりと保存された基壇だった(ちょっと無理のあるパノラマ合成)。

『ペルシア建築』は、エラムの都スーサでは、かなり様式化の進んだ見事な3つの宮殿が発掘されており、それらの年代は前1000年をややさかのぼるものと推定できる。もっとも、遺跡自体は前4000年以来の歴史を持っている。一般にエラムの建築といえば、非焼成の煉瓦を主材料とし。外装にのみ赤煉瓦を使った例が多い。前12世紀ともなると、装飾として施釉煉瓦が普及し、チョガ・ザンビルでは青色と緑色、スーサでは青色と黄色のものが用いられた。またエラム建築のなかには壮大な基壇の上に建てられる神殿があった。この場合、内部が正方形もしくは長方形の神祠となるほか、高さはときに二階建て以上のこともあり、煉瓦造りの円柱を立てて木造の屋根を葺くのが普通である。スーサの宮殿では、エラム時代のアパダーナに見られるヴォールトのスパンがしばしば5mを超え、ときに8mに及んでいるという。
しかしながら、現在ある遺跡はほとんどがアケメネス朝期のもの。
同書は、前521年になると、カンビュセス2世の跡を継いだダリウス1世が、スーサの地に壮大な実務上の首都を建設せんと決意し、ペルセポリスについては、行政の中心というより、むしろ精神的な焦点、つまり国家の祭儀場としてこれを発展せしめることにした。
スーサにおけるダリウス王の壮麗な宮殿は一つの中庭を囲んで建てられたものである。
最初に着手された作業は明らかに敷地の整備と大規模な基壇の築造であった。この基壇は205X150mという広さを持ち、中央に35.4X35.9mの中庭をそなえるものであった。床面は煉瓦の破片を混ぜた石灰で舗装されたうえレッド・オークル(赭土)で磨き上げられ、また、四周には非焼成煉瓦からなる高い強固な壁がめぐり、この壁は突出した塔を伴っていた。一方、周壁の外側にはシャヴール川から十分な水を引き込んだ深い堀があり、この堀がいくぶん高くなった敷地をほとんど難攻不落なものとしていたのであるという。
残念なことに、『ペルシア建築』は日本で出版されたのは1981年だが、著者A.U.ポープは1969年に没している。原著はそれ以前に出版されたのものなので、現状とはかなり違った平面図が記載されている。

同書は、しかし、アケメネス朝の手になるスーサは、今日、たかだか興味ある廃墟といったものにすぎぬ。外敵によって蹂躙され、さらにササン朝のシャープール2世によって破壊されたからである。そればかりか、長年にわたって地元の住民たちもササン朝の先輩たちを見習い、こうした古い建物を新しい建物のための石切場として役立ててきたという。 

遺跡の説明板は、スーサにあるダリウス大王(在位前522-486年)の宮殿はアケメネス朝建築独特のものである。
高さ18m、13hの広大な砂礫の基壇の上に、ダリウス1世は、南に私的な宮殿、北に公的な謁見の間(アパダーナ)という2つのユニットからなる複合建造物を造った。双方は南北の関係にあるという。
Google Earthより
遺跡の説明板
①多柱式広間(アパダーナ) ②ダリウス大王の玉座の位置(柱の間の小さな■) ③柱廊 ④アパダーナの角の塔 ⑤中庭(東から1、2、3、4とする) ⑥王の居室 ⑦役人室 ⑧王族の居室(Google Earthの画像から、残っていないらしい) ⑨護衛の詰所 ⑩通路 ⑪出入口 
宮殿建立を記念する楔形文字銘文 A:アッカド語 B:エラム語 

宮殿 246X155m
説明板は、宮殿もまたダリウス1世によって建立された。構造付近から発見された粘土板や石板の文書や彩釉レンガによって分かるのは、これらの建物はハディシュあるいはタチャラと古代のペルシア語で宮殿を表す言葉で。その平面は隣接する中庭とそれを囲む部屋があり、アケメネス朝の建築では特異なものだが、アッシリア初期やバビロニアの宮殿をモデルにしている。入口は東にあり、大きな中庭に通じている。この中庭の西側には、他に3つの中庭が東西方向に並んでいる。宮殿の内部にあるレンガ造の階段は装飾的なレンガで覆われた。
平らか少し浮彫のある彩釉レンガは、アケメネス朝の近衛兵、召使い、架空の動物その他は、建物の基礎(腰壁)の装飾であったという。 
ペルセポリスやチョガ・ザンビールなどと違って、広いが平たいので、写真を写すにも難儀する。その上ロープが張ってあるので近づけない所もある。

⑥王の居室あたり

⑦役人室 比較的小さな部屋が並ぶ
⑦役人室を左に回り込んで、
⑩部屋と部屋の間に通る通路(東西方向)の一つ。

⑤-4:西端の中庭(まだ中庭とは断定されていないらしいけど)
中庭と、その南に多くの部屋に分かれている⑦役人室
宮殿の西側。柱礎が転がっていたりして、こんな方が遺跡らしい。

⑤-3:中庭
向こうにあるのは、発掘のために造られたスーサ城。
中庭と東側の建物基礎
⑩狭い通路を東へ

レザーさんとその一行は通路の先で左へ向きを変えている。
⑤-2:中庭
手前(北側)が大きく崩れている。
ここで沢山のものが発見されました。
レザーさんの言葉に思い当たるものがあった。スーサ遺跡からは、ハンムラビ法典碑など、バビロニアの多くの石碑が出土している。それは、前12世紀のエラム王シュトルク・ナッフンテにより戦利品としてスーサに運ばれたもの(『世界美術大全集東洋編16 西アジア』より)という。中エラム時代の遺構がこの下にあるということかな。

①アパダーナ(謁見の間) 109X109m
説明板は、見学コースで一番北にある。その入口は南側で、宮殿のすぐ近くに面している。宮殿とは庭を隔てている。58X58mの広間は36本の円柱があり、四隅には塔が、3方には6本の円柱が2列並ぶ柱廊がある。4つの柱礎には、アルタクセルクセス2世の銘文があり、アパダーナがダリウス1世によって建立され、アルタクセルクセス1世(在位前465-425年)の時に火災に遭い、アルタクセルクセス2世が再建したという。
全体としては、ペルセポリスのもの(76.2X76.2m)よりもスーサのアパダーナの方が大きいが、広間はペルセポリスの方(59.4X59.4m)が少し大きい。
三方の柱廊では円柱の柱礎は丸く、アパダーナ内部では正方形に玉縁という柱礎となっている。しかも、その円柱の先には、ペルセポリスと同じように、双頭の動物の柱頭がのっている。
矩形の柱礎は地面と同じレベルになってしまったり、残っていても玉縁まであるものは見当たらない。
北の端に屋根が2つ。その下には、
ペルセポリスにあった双頭の牡牛形柱頭とほぼ同じもの。
ペルセポリスとの違いは、ガラスケースに入っていないので、近寄って写せること。
頸部に十二弁のロゼット文、肩にたてがみのような巻毛も。
顎の付け根に大きな渦巻
背中の渦巻。一つ一つが微妙に形が違っている。途中から渦巻の方向が変わっていた。気付いていたら、左右対称に写したのに。
そして、柱廊にあった高い鈴型の柱礎と、少しだけ残った円柱。ペルセポリスのアパダーナにあった柱礎と似ているが少し違う。
かつての姿。
アパダーナの広間を通って出て行く。
東端には双頭の牡牛形柱頭の残骸が置かれていた。葉っぱのような装飾は、ひょとすると頭頂部?
おそらく南東の角塔あたりは、屋根付きの円柱や柱礎などの破片の保管場所となっている。
説明板は、アパダーナ広間の発掘を通して、支柱の残骸がここに集められた。整理、保存、復元の場所となっているという。

⑤-1:一番大きな東の中庭(南側から北側を眺める)
中庭の東側には窪地を囲んで三方が壁面になっている。
左側の壁の想像復元図(後方にはアパダーナの塔の一つが見えている)
説明板は、中庭の壁面は、アケメネス朝時代の兵士やライオンのモティーフを彩釉レンガで表していた。東の中庭の床2mほど下には、8個の礎石が北壁の基礎に並んでおり、おそらく、木製の柱(旗立てかも)の台座として使われたという。
その柱穴。


     ハフト・テペ遺跡← →スーサ2 エラム時代の宮殿まで

関連項目
スーサ3 博物館
ペルセポリス5 博物館からアルタクセルクセス3世の墓
ペルセポリス1 正面階段からアパダーナへ

※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館

2017年7月31日月曜日

タンゲ・チョウガーン(Tang-e Chowgan) サーサーン朝の浮彫


今日はシーラーズからアフワーズへの長距離移動の日。出発は午前7時だったので、さすがに朝散歩はできなかった。
Google Earthより
まずはビーシャープールへ向けて山間部を疾走。
Google Earthより
澄んだ水の流れる川、これがホシュク川?
またしても古代テチス海の地層のある山々。
これからザグロス山脈へと入っていく。
背中にトサカのある恐竜のような山が出現。
と思ったら、ここで写真ストップ。
立っている先には木が生えたり、石ころが転がっていて遺跡風。
しかし、ここで重要なのは、下の方に見えている両側の山の間。
レザーさんは、ここからアレクサンドロス大王がやってきて、ペルセポリスの方に攻めていった、歴史的に重要なところなんですよ。アブルハヤートといいます。
再び屏風のように続く山並みを見ながらの移動。
そしてレザーさんの話は続く。1万人のマケドニア軍は家族も連れてやってきて、スーサを征服して1年間滞在しました。その後ペルセポリスへ行きました。ペルシア人は25万人もいたのに勝てなかったんです。
再び切り通しが見えてきた。さっき停まって撮影した、アレクサンドロス軍が通っていったアブルハヤートだ。
バスはどんどん高度を下げて、アブルハヤートの切り通しへ。
しかし、後日『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』を読んで、このルートではないことが分かりました。
そして平地に下りてきた。
新しい町もあれば、郊外には羊の群もいる。
山も険しさがなくなってきた。
町を通り過ぎて
ナツメヤシも現れ、

ビーシャープールに到着。
Google Earthより
宮殿址は背後にあり、正面はタンゲ・チョウガーン(チョウガーン渓谷)。サーサーン朝期の浮彫があるという。
わずかだが水の流れる小川を挟んで、向こう岸の地層が斜めになって、スパッと切れたような崖がすごい。
地層だけが目に入っていたが、よく見ると、人工物がある。ひょっとすると城塞?こんなところにも!
ガイドのレザーさんに尋ねると、事も無げに「城塞です」。遺跡だらけ、城壁や城塞だらけのイランでは、驚くほどのものではないらしい。
丸みのある石を積み上げて造られている。明かり取り窓か矢狭間の並んだ壁や、丸い監視塔の痕跡も。

川の北岸を歩いていく。

シャープール1世(第2代、在位241-272)の三重の勝利
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、中央のシャープール一世のところには3人のローマ王が描かれているという。
崖のある程度上の、しかも曲面に刻まれているこの場面は、タンゲ・チョウガーンでは一番大きい。
『古代イラン世界2』は、シャープール1世はローマ帝国と三度戦い、戦況を有利に進めていたが、それを誇示した戦勝図をナクシェ・ロスタムとビーシャープールに残している。後者では国王と敗者のローマ皇帝たちを中心にサーサーン朝の騎馬軍団が描写されているが、多数の軍勢を描写する方法は上下遠近法、重層法といった西アジアの伝統的絵画様式が用いられているという。
シャープール1世は上から3段目、中央からやや右寄りに登場し、その左側の5段にペルシアの騎馬軍団がびっしりと並んでいる。
3段目と4段目の騎馬軍団
シャープール1世に降伏したローマ皇帝3人が騎乗の皇帝に赦しを請うている。ゴルディアヌス3世、フィリップス・アラブス、ウァレリアヌスの3帝。ひざまずいているのは、ナクシェ・ロスタムの戦勝図と同じウァレリアヌス帝かな。その上に天使がディアデムのようなものを持って空中に浮かんでいる。
シャープール1世の馬に踏み付けられているのは誰だろう。
右側は1段目と2段目がローマ軍団。
すでに馬は奪われ、捕虜として連行されているのだろう。それぞれ貢ぎ物を担いでいる。
3段目の皇帝たちの背後。
トーガを着た将軍たちが並んでいる。
4段目もローマ軍
二頭立ての戦車には人は乗らず、奥に丸い石のようなものをかかげた人物がいる。
5段目もローマの兵士たちだが、浮彫の下の方が横にえぐられて、頭部が失われた像も多い。

奥へ歩いていると、崖のえぐられた部分が続いている。
『世界美術大全集東洋編16』は、下方にあった灌漑用水路によって浮彫りの下部が浸食されたという。
日本の塔のへつりのような河食地形かと思っていたら、人工的なものだった。

バハラーム2世(第5代、在位276-293年)の騎馬謁見図
ビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、バフラーム二世がアラブ族の使節を迎えている場を描いているという。
バフラーム2世はディアデムのリボンと短いマントを風に靡かせ、行縢(むかばき)を着けて、右脚後ろに矢筒を下げている。左前肢だけを上げ、頭部を下げた馬も尾は三つ編みにされている。鎖で繋がれた房飾り(諸王の王の標識)はアルダシール1世の王権神授図のドングリ形浮彫とは形が違う。
アケメネス朝時代、ペルセポリスの浮彫に表されていたアラブ人の使節団はヨルダンとパレスチナから来ていたが、サーサーン朝ではどこから来た人たちかはわからない。
馬の手前の2人の人物は襞の多く長い衣装で、衣端のジグザグの重なりが、アケメネス朝期とは異なり、曲線的な描写となっている。
馬2頭と3名の奥にはヒトコブラクダ2頭と3名が登場している。

最後の2つの浮彫が見えてきた。
浅い水の流れと柳や葦、こんな写真だけを見ていると日本にいるようだが、現地は暑かった。

バハラーム1世(在位273-276年)騎馬王権神授図 
『世界美術大全集東洋編16』は、この浮彫りは、国王の頭部の王冠がナルセー王(在位293-303)によって改変され、向かって右の帝王の馬の足下にササン朝の皇太子(バフラム2世の息子のバフラム3世)の横臥した死骸が付け加えられている。このような異常な点が存在するが、浮彫りそのものは、ササン朝摩崖浮彫りの最高傑作と評価されている。もっとも鮮明に示すのが、立体感に富んだ人物像と馬の写実的描写であり、とくに馬の筋肉表現が秀逸である。このような様式の特色は、この作品にシャープール1世が捕虜としたローマの彫刻家が関与していることを示唆していようという。
アケメネス朝期では、ペルシアの属州となったイオニアから来たギリシア系の人々が建築や彫刻に従事したが、サーサーン朝時代では、戦いに負けたローマ人捕虜の中に彫刻を得意とする人たちがいたのだろう。
同書は、向かって右側の帝王がバフラム1世であることは、太陽神ミスラの旭光冠をかぶっていることから判明するという。
旭光冠は光を上部に放つような形で、大きな球体(宇宙の象徴、同書より。ガイドのレザーさんはまとめた髪の誇張と言っていた)を載せている。
同書は、アフラ・マズダー神(ホルムズド)は城壁冠を被っている。その右手でディアデム(環)を握り、
それをバフラム1世に授けようとしているのであるが、環に結ばれたリボン(鉢巻き)は風にたなびき、バフラム1世はその端をつかんでいるに過ぎないという。
ディアデムのリボンはわかりにくいが、『世界の大遺跡4』の図版では、神の手の背後から出たリボンは、ナクシェ・ロスタムの王権神授図に見られる横縞ではなく縦縞で、横に翻った後、バフラーム1世の掌の前を通過し、横縞となって斜め上に伸びて天井にまで達している。

シャープール2世(第9代、在位309-379)の戦勝図は高い位置にあるため用水路による浸食被害は受けてないものの、手前の岩が邪魔。
ビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、シャープール二世によるクシャーン朝の制圧と併合を記念して造刻されたといわれている。上下二段からなり,王は中央上段で玉座に座っているという。
シャープール2世とその周辺
シャープール2世はペルシアの浮彫では珍しく、正面を向いて坐っている。その左には、右手を王に向けて恭順を示す人たち。
王の斜め左下には王の馬を牽いている人物と馬の背後に4名。後ろには長剣を降ろした兵士。
王の右に並んでいるのクシャーン朝の人々?
その下には王に献げものをする人の後ろに子どもが奉納品を持って立っている。

 シーラーズ ハムゼ廟とバザール←  →ビーシャープール1 アナーヒーター神殿


関連項目
敵の死体を踏みつける戦勝図の起源
銀製皿に動物を狩る王の図
サーサーン朝の王たちの冠
サーサーン朝の王たちの浮彫

※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 長澤和俊監修 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「アレクサンドロス大王東征路の謎を解く」 森谷公俊 2017年11月30日発行 河出書房新社