お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2010年3月12日金曜日
常滑やきもの散歩道を歩く2
面白いレンガ積みの壁を過ぎ、空き地のところで矢印に従って左折。細い道を通り抜け、また矢印があって左折。もっと狭い道を歩くことになった。
この家の石垣は黒っぽくなっているが、石も窯に使われていたのだろうか。 黒い家並みが尽きる頃に廻船問屋瀧田家の西門が現れたが休館日(月曜)だった。でも門はとじられていなかったので、入っていくと庭園に出た。 通用門から出ると、口の小さな瓶がデンデン山の斜面に並んでいる。アンフォラのように油でも運んだのだろうか。
廻船問屋瀧田家の由来を書いたパネルは、常滑は焼き物の町であると同時に、江戸時代から明治前期にかけては廻船の町でもありました。常滑の船は、伊勢湾周辺の地域(尾張・伊勢・美濃・三河)と上方、江戸方面を結んで、当時の人々の生活を支えていました。
常滑を代表する廻船主の一人が瀧田家です。ここ「瀧田家」は、瀧田家が廻船業を始めてまもなく建てられた居宅ですという。
登り坂となって、瀧田家の塀沿いに歩く。 デンデン坂は土管やその破片を縦にしてびっしりと並んでいる。目が回りそうだが面白い。
細い道に突き当たって右折しすると下り坂。土管坂というらしい。やっぱり同じ文様の路面が続く。滑り止めにもなる。 このあたりは道沿いには家並みが途切れているので、少しながら伊勢湾が見える。知多半島の先端で、中部国際空港・セントレアが見えているような気もする。
左側は法面になっていて、上の段のある家のものは、こんなレンガ壁だった。長い側、短い側織り交ぜて、いろんな表情のレンガ積まれていた。長い側には虎の縞状になっているものが多い。どんなものを焼く窯で仕事をしていたのだろう。 3件並んだ中央の家の壁です。四つ角に出た。左側も同じ文様の狭い登り坂。土管や瓶の壁に囲まれている。前方は土管の文様がなくなるが、壁には瓶やレンガの並ぶ下り坂が続く。
右角には小さな休憩所があり、すべて焼き物でできている。四角い板を繋いだ説明板は、とこなめの焼き物は、西暦1.100年頃から590年の歴史をもっている。日本六古窯(常滑・瀬戸・越前・信楽・丹波・備前)のうち一番古く、一番大きいと言われているのが、とこなめである。
ダイナミックに古常滑のやきものは世界にもその例がない素晴らしいものである。平安、鎌倉、室町、江戸の各時代の壺かめの主要な窯場として繁栄し、江戸時代から陶芸作家も多く現れて、多彩な窯場に成長した。
江戸末期に始められた朱泥焼は、豊かなローカルカラーを漂わせて多くの人々から親しまれ、全国に朱泥急須が売り出されている。
大きな窯や設備が有力な武器となって、タイル、衛生陶器、陶管、植木鉢等の大型のやきものの地として又土もの陶器の特産地とこなめは全国でも有数な窯場であるという。
この四つ角を矢印に従って右折、下り坂に。 左カーブの下り坂を行く。古びた家が続いてタイムスリップしたような雰囲気になるが、それぞれが陶器の工房兼住居兼ギャラリーになっているようだ。
三叉路を矢印通り左に進む。瓶の並ぶ低い壁の先でまた二つに分かれる。矢印は左方向を示しているので左へ。今度は登り坂。 もっと狭い道になった。右側の家には、ろくろでひいたか型整形か、形作ったものを乾かす棚があった。 このような家並みを抜けたところに開けた場所があった。囲いの中の大きな甕をのぞき込み、何を撮しているのかというとガガイモの花でした。
向こうに見える新しい建物が展示工芸館。道を左折すると間もなく登窯広場。 ここに至る道は登り坂か下り坂。常滑は低い山の斜面を利用して登窯が造られたやきものの町だったというのが身を以てわかった。
※参考
常滑市製作の案内板