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2016年8月18日木曜日

バラサグン遺跡1 ブラナのミナレット


バラサグン遺跡へ向かう途中で、キルギスではあまり見なかったヒマワリ畑があった。

絵葉書セットのカバーの説明は、ブラナ博物館はトクマクの町から約12㎞にある、カラハン朝の北の首都、バラサグンの最初の都市の遺跡である。カラハン可汗国は中央アジアで最大の封建国家だった。
バラサグンの街はチンギスハンの遠征で被害を受けなかった。モンゴル軍はゴバリクという名に変えたが、その意味は「神の街」である。街は13-14世紀まで存続したが、以前のようには栄えなかった。段々と寂れて、15世紀には住民に放棄された。人々は街の名も忘れ、ミナレットと要塞の廃墟だけになっていたという。
入口には石人が置かれている。
水路を渡って
キリル文字の説明板がある。文字を一つ一つコピーして検索した結果、以下のようなことがわかったが、図に数字がなく、わからないものが多い。
1:ミナレット 2:墓 3:墓 4:墓 5:中心部の廃墟 6:石庭 7:第4墓 8:浴場 9:駐車場?
赤い数字は推測で付けたものです。
『BURANA』は、かつては王家のそして部族墓は地下にあったが、墓廟は4基ある。その一つは八角形、別のものは円形。1基の四角形の墓廟は要塞の東方にあるという。

絵葉書セットのカバー裏にはこんなイラストも。
2つの地図で、やはりこの都も城壁で囲まれていたこと、街のメインストリートは現在の遺跡への通路と同じで、門は水路の先にあったらしいことはわかった。

右手に焼成レンガの建物の遺構が。これが②③の墓らしい。
結構凹凸がある複雑な建物のよう。
西側は丸い。10-12世紀のものという。

そこを抜けると景色が開け、ブラナの塔が姿を現した。
『BURANA』は、イスラームの中央アジアへの到来はイスラーム建築という新しい型の建物をもたらした。焼成レンガは、記念物や公共の建物の基本的な建築材料となった。墓廟の建造はムスリムの人々の墓所となった。後に、先祖の墓廟を建造することが、キルギスやカザフの人々にとって特別な伝統となった。
ブラナのミナレットは人々にお祈りを呼びかけるためのものであり、また街の見張り塔となった。現在の高さは24.6m。当初は40m以上あった。螺旋階段が内部にあり、頂上までいくことができる。書物によると、ミナレットはモスクとメドレセの双方に使われたが、どちらも現在まで残されていない。しかし、バラサグンの街には幾つものモスクやメドレセの痕跡があるという。

金属製の階段が取りつけられている。他の街のメドレセやモスクのミナレット同様に、入口は2階にあるからだ。
その手前にあるのが④第3の墓。
1階は八角形になっている。

まだ施釉タイルがなく、焼成レンガを組み合わせて外壁の装飾とした時代のもの。
正方形を縦横に短いレンガで繋いだだけの文様。その下は焼成レンガ2枚ずつでT字形状にしたものを上下逆にして積んだ帯状の文様。
卍状の文様を入れて、縦横に折ったり分岐させた文様。
その下は卍のようで卍ではなかった。
これがミナレットで多用されている卍状のものを入れ込んだ幾何学文様。

塔の向こうには⑤中心部とキリル文字で検索すると出てきたが、高いので宮殿跡かも。

ミナレットに登る。
入口近くから⑤宮殿跡をのぞむ。上に立っている人と比べると、10mほどの高さだろうか。
入口は狭い。

24.6mの頂上から眺めた宮殿跡。2つありそう。

⑤宮殿跡の右向こうには⑥石人が並べられている。
元々ここにこのように並んでいたわけではなく、各地から運ばれて来たらしい。
南方には雪の少し残る山々。
雲に隠れて高い山は見えなかった。

②第1墓
③第2墓
上から見るとどちらもΩ型だった。
円筒形で円錐屋根の載る墓塔のような形だったのかな。

その隣には小さな博物館とユルトの土産物屋。右下の赤い屋根の架かる白い四角い基礎のようなものはなんだったのだろう。

これがミナレットの隣にあった④第3墓
こちらは八角形で墓塔ぽい。

ミナレットを下りる。
ミナレットの通路が狭いのは、二重の螺旋階段だからと何かで読んだことがあるが、現在ではどのミナレットも、登りも下りも同じ階段なので、すれ違うのが大変。
壁面はかなりの厚さ。
平レンガを少しずつ持ち送って、うまくカーブさせている。
この方が分かり易いかな。
下りてから見上げる。

              アク・ベシム遺跡←    →バラサグン遺跡2 石人

関連項目
ブラナのミナレットの建造時期は


※参考文献
「BURANA」 Tabaldiev Kubatbek Shakievich Megamedia

2016年2月18日木曜日

メルヴ6 スルタン・サンジャル廟


メルヴの広大な遺跡のほぼ中央、スルタン・カラにスルタン・サンジャル廟がある。
『旅行人ノート⑥』は、11-12世紀にはセルジュークトルコの首都がここに置かれ、東方の真珠といわれるバグダードに次ぐ、第2のイスラム都市として最盛期を迎えた。しかしモンゴルのチンギス・ハーンの侵攻の際に全てが破壊され、老若男女を問わず、住民は皆殺しにされた。その後メルヴは数世紀の間、住民のいない土地になり、18世紀に一時この地方の支配者バイラム・アリ・ハーンが町を再建したものの、1795年、ブハラのアミールにより完全に破壊されたという。

城壁は崩れながらもまだかなり残っている。一度城壁の外に出たが、城壁よりも高いので、スルタン・サンジャル廟はあちこちから見えた。
川を渡って、
スルタン・カラの城壁の角
それに続く城壁を見ている内に広大なスルタン・カラに入り込んでいた。
遺跡図

スルタン・サンジャル廟 Mausoleum of Sulatn Sanjar 1086-1157年 高さ38m
『旅行人ノート⑥』は、38mの高さを持つ12世紀のセルジュークトルコ時代のスルタン・サンジャールの廟。奇跡的にモンゴルの破壊からまぬがれたという。
『LUMIERE DE LA PROFONDEUR DES SIECLES』は、建築家ムハンマド・イブン・アジズ・セラフシによって建てられた。
階上廊が上部をめぐる立方体の建物は、二重殻ドームを頂いている。階上廊は焼成レンガと浮彫石膏の組み合わせの装飾があるという。
ピーシユターク(門構え)もなく、ドームと立方体の簡素な形の廟というと、ブハラのサーマーン廟(943年以前)が思い浮かぶが、そこにも階上廊がめぐっていた。その系譜にある廟ということになるが、その間にドームは二重殻となり、階上廊も二階建てのように見える。
現在はかなり修復されているのでドームも立派だが、パネルには1890年当時の外観の写真があった。
外殻ドームがなくなり、内側のドームが露出している。
西側が正面
補強のための丸太の切り口がたくさん露出している。
上部には修復されたものだが、焼成レンガによるアラビア文字の銘文帯や、尖頭アーチには幾何学的な浮彫装飾がある。

内部のドームは、スキンチで正方形から八角形をつくらずに、すぐ上に十六角形を造って円形へと移行している。
スキンチと平面の尖頭アーチの間に
小さなムカルナス状のものをつくり、その上に十六辺の一つがおかれている。
スルタンの棺は広い廟の中央に置かれていた。
廟の内壁には幾何学の文様帯や隅飾りが描かれているが、見慣れない文様だ。
『LUMIERE DE LA PROFONDEUR DES SIECLES』は、内部は、幾何学文様とアラビア文字が、白色を背景に青と赤で描かれているという。
入口側を振り返る。
実はこのフレスコ画が古いものには見えなかったのだが、修復時のものであっても、創建時に描かれたものだった。

左右の壁には同じ大きさだが開口部のないイーワーンがあって、上部には焼成レンガの帯があった。
そこには、浮彫で表されたアラビア文字の銘文と蔓草文の文様帯が巡っていたらしい。

そして、西側入口では気付かなかったので、東側開口部にあると思われるイーワーンの内側の装飾が絵葉書にあった。
オリジナルらしきものの風化具合や土台の焼成レンガが見えていることから、焼成レンガではなく、漆喰浮彫ではないだろうか。

入口横には、この廟をトルコの強力で修復したというような碑が立っていた。
しかしながら、ソビエト時代に引いた運河が近くを通っているために、地下水位が上昇しているので、廟内でも、せっかく白く塗った壁面が変色していたし、遺跡内に灌木がどんどん生えてきたという。

            メルヴ7 アスカブス廟←

関連項目
メルヴ5 ムハンメド・イブン・ザイド廟
メルヴ4 小キズ・カラ
メルヴ3 大キズ・カラ Great Kyz Kalas
メルヴ2 グヤウル・カラ Guya Ulk-Kalaに最西端の仏教遺跡
メルヴ1 エルク・カラ Erk-gala


※参考文献
「週刊シルクロード紀行14 メルヴ・アシガバード」 2006年 朝日新聞社
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
「LUMIERE DE LA PROFONDEUR DES SIECLES」 1998年 Charque