『仏のきた道』は、甘粛省天水市は古くは秦の始皇帝の祖先の地といわれ、その周辺には多くの古跡がある。もともと甘粛省は砂漠と黄土高原に連なる樹木の少ない荒地の多い土地柄だが、この天水市周辺は、「小江南」と呼ばれるほど、天然の沃土と自然の風光に恵まれ、気候が温和で雨も多く、河川や湖沼豊かな別天地であるという。
朝起きるとどんよりとした空で、景色を眺める余地のない天水の街。著者鎌田茂雄氏が訪れた頃の天水からは新市街が広がり、見違えるような高層化の街となっている。
耤河を渡る。
交差点で止まって待つバイク。寒いので前にカバーを付けたこういう格好は、よく見かけるものだった。
あまりにも遅いので、バスは甘泉鎮という町の道路に入り込んだが、混雑しているわ、道端に広げた店が続くわで、なかなか進めない。
左折すると道はすいていた。
自家製の小さなパン(餅というのかな)を売りに来た人も
見学は麦積山東崖からとなる(赤い数字は見学または通りすがりに見た窟)
通路を左に向かい、まずは特別窟の44窟を見学することになった。
33窟 如来坐像 宋(960-1127)
37窟 隋(581-618)
両脚を台座から降ろした倚像で、衣端には曲線的なジグザグの折り目が認められる。
中尊の右に控える菩薩は、珍しく胸で手を重ねている。
『仏のきた道』は、天水市を出て耤河を渡ると、田園風景が開ける。煙草や麦畠が続く中にひときわ美しいのが薄紅色のそば畠であるというが、すでに開発は進んでいた。
最初は快適に進んでいたが、徐々にスピードが落ちてきて、道路工事で車線が規制されしまった。交差点で止まって待つバイク。寒いので前にカバーを付けたこういう格好は、よく見かけるものだった。
左折すると道はすいていた。
自家製の小さなパン(餅というのかな)を売りに来た人も
『仏のきた道』は、天水県麦積郷に入ると竹林や大木の緑が多くなり、やがて小さな川の河原を渡ると麦積山が見えてきた。麦積山はその名の通り収穫した麦束を農家の庭先に積み上げたような形をしている。麦積山のあるこの地は天水市の東南45㎞、天水県麦積郷の南部、秦嶺山脈の西端にあり、長安と河西回廊を結ぶシルクロードの要路である。
麦積山は秦嶺山脈の小隴山中にある150mほどの孤峰である。群山に囲まれて雲雨の中に見え隠れする麦積山の風景は、文人たちに「麦積煙雨」と詠まれて秦州八景の一つとされている。あたりに奇勝が多く、麦積山風景区を形成しているという。
『仏のきた道』は、麦積山は唐の開元22年(734)の大地震で、崖の中央部が大きく崩れて東崖と西崖に分断された形となった。現存する洞窟は東崖に54、西崖に140、併せて194ある。後秦、西秦、北魏、西魏、北周、隋、唐、五代、宋、明、清の11代の王朝期につくられた泥塑、石雕像7200体と約1300㎡の壁画が残されているという。
最初に見えるのは西崖。
いったいどこに北魏らしさが残っているのだろう。宋代に修復したというが、着衣はそうかも知れないが、容貌は宋代らしくもない🤔
上の方の長い通路で西崖区と東崖区が繋がれている。
しかし先はまだ長い😑 天水を出発する時は5℃だったので、標高の高い麦積山はもっと気温が低いだろう。
そしてこれが東崖区。ここでも修復が行われている。その下には東崖大仏が👀
仏三尊像 隋代(581-618)開鑿 南宋(1127-1279)重修
しかし先はまだ長い😑 天水を出発する時は5℃だったので、標高の高い麦積山はもっと気温が低いだろう。
『仏のきた道』は、大龕に三尊坐仏、小龕に一仏二菩薩や交脚菩薩、思惟菩薩が彫られている。菩薩像はすらりとした姿で、健康的で美しく、裸体に近い造形は古代インドの様式を伝えている。大仏の姿は西北遊牧民族の壮健で寛容な帝王の風格が写されているという。
如来は隋代の顔ではないが、宋代の顔でもないやん🤨
右上には千仏が並んでいて、3窟とされ、北周(557-581)ている。
『仏のきた道』は、麦積山の山麓前面に彩色の山門があり、瑞応寺の扁額が見える。現在の建物は明代の建造だが、南宋の地方誌に「瑞応院は麦積山に在り、後秦の烑興(ようこう)、山を鑿ち千崖に万象を修し、崖を転じて閣となす」とあり、古典や古碑の記載にも、麦積山石窟の創建は後秦の烑興の時(394-416)であるとされている。
北朝時代の塑像が多いことと、その塑像の美しさにおいて、中国四大石窟の一つに数えられるという。
瑞応寺の左側に見学路がある。
後秦(394-417)-西秦(385-431)
『仏のきた道』は、天水を西秦が統治したとき、玄高という名僧が麦積山に道場を開き、100人余りの僧がここで修学したといわれる。また長安の僧で釈曇弘という秦の僧もこの地にきたという記述があり、麦積山が仏教の禅観修行の道場であったことがうかがわれる。
このように麦積山は古くから仏教の聖地であり、涼州や長安を結ぶ交通の要衝でもあった。隋の文帝が仁寿元年(601)に麦積山に至り、「浄念寺」という寺名を賜った。
また、宋の大観元年(1107)、麦積山の山頂の舎利塔の下から霊芝38本が穫れ、瑞祥とされて瑞応寺の名を賜った。以後その寺名が現在に至っているという。
西崖から東崖に開鑿された石窟と、それを結ぶ通路や階段。
改めて13窟とされる東崖大仏とその周辺を見る。4窟は修復中で養生が掛かっていて、その上部に穴がたくさんある。石窟全景図に描かれているように元は木造の楼閣が造られ、鴟尾もあったらしい。
階段となり、斜め左へと向かっていくと、正面には3段の小さな窟が。
そして、その上には再び緑の養生や東仏三尊像が見えてきた。通路を左に向かい、まずは特別窟の44窟を見学することになった。
その上方には、途切れた桟道や階段が複雑に通っている。これが木製ならばやや心配だったが、コンクリート製だった。手すりもしっかりしているし😊
その右側には東崖大仏。下から2番目の桟道には一つだけ仏龕があって、仏像が見えている。人のいる桟道の上に如来坐像が見えている。
宋代の仏像や仏画は私の好み。すっきりしてどこにも誇張した表現はない。西崖大仏のあの顔貌とは全く違う🤔
40窟 北魏(386-534)
44窟へ向かう間にも小さな仏龕や大きな窟をのぞきみすることができた。
通肩の着衣は体に貼り付くように表されてる。組んだ脚の下には長い裾が垂れているが、例のギザギザの衣端は見られない。
金剛力士しか写らなかった。
説明パネルは、西魏時代(535-556)に開鑿した。西魏文帝の皇后乙弗氏の寂陵であるという。
詳しくはこちら
44窟 特別窟
『天水麦積山』は、20窟の下に位置する。石窟は崩壊し、後部の像のみが残る。正壁の龕内には如来坐像一体のみ。龕の外左右には弟子が一体ずつある。如来は1.6mあり、高い肉髻は渦巻き状になっているという。
研究員に鍵を開けてもらい、実物を鑑賞することはできたが、撮影はできなかった。
詳しくはこちら
37窟 隋(581-618)
説明パネルは、平面四角形の洞窟。現存する一仏二菩薩像は、潤いがあって荘重で重厚で質素であるという。
中尊は田相に縫い合わせた大衣を通肩に着て、両脚を台座から降ろした倚像で、衣端には曲線的なジグザグの折り目が認められる。
中尊の右に控える菩薩は、珍しく胸で手を重ねている。
窟不明
如来坐像が三体ならび、その奥隅には菩薩が立っている。像の特徴から、39窟と同じ北周期の造像とみた。
『天水麦積山』は、小さな龕で上部に庇が出ているという。
『麦積山石窟』は、正壁には如来坐像が上下に5体ずつ並ぶ。形の整った浮彫の千仏が矩形の中に表されているのは、北周に出現した新しい形式である。如来はほとんどが禅定印を結び、獅子の守る須弥座に坐す。着衣や天蓋はさまざまに変化がある。左右の側壁には上下それぞれ二菩薩が浮彫されているという。
当初は蓮台のようなものもあったのではと思わせる何かを付け足した穴が並ぶ。
見上げると左脇侍の細長い指が何かを握っている。
階段から反対側には文字が。読めないけれど😅
もっと高くなると三尊の黒目が象嵌であることに気付いた。そして、左脇侍が手のひらに蓮の花をのせていることも。
見上げると左脇侍の細長い指が何かを握っている。
10窟 隋
右手の親指と人差し指で支えているのはパルメット👀 条帛の端がパルメットになっているのだろうか。
参考文献
「仏のきた道 中国の仏教文化を探る」 鎌田茂雄 1997年 PHP新書
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社