お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2015年10月5日月曜日
ブハラの城壁とタリパチ門
『旅行人ノート⑥』は、長い歴史を持つ都市は、その位置や造りが時代によってある程度変化するものだが、ブハラの旧市街の主要な建物の配置は9世紀以来ほとんど変化していない。文化面でも、ブハラは今世紀に至るまで常に中央アジアの定住文化の中心地であり続け、特にサーマーン朝の時代(875-999)には中央アジアのみならずイラン・イスラム文明全体を代表する都市だったという。
『中央アジアの傑作ブハラ』は、ブハラは強固な土壁で囲まれていた。その一部はサーマーン廟の公園及び都市の南部に残っている。8世紀にシャフリスタンという都市の中心部は四角の壁で囲まれ、7つの門があった。サマニー族によって造14世紀にトフタミシュ・ハンの軍隊、15世紀にシャイバニ・ハンの軍隊、17世紀にアヌシュ・ハンの軍隊からブハラを守り通した。ブハラの壁は1920年の最後の攻撃を乗り切った。その時フルンゼの赤軍が侵入したのだったという。
『中央アジアの傑作ブハラ』は、ブハラは、ザラフシャン川の下流に位置し、北部にキジルクム砂漠の砂で囲まれている古代のオアシスの中心都市である。鉄器時代から、商業ルートがブハラを通っている。西部はアムダリヤ川、北側はホレズム方面、東南はサマルカンド及びカシュカダリアのオアシスである。何世紀にもわたって、商業と工芸はブハラの豊かさを生み出していた。それにより、都市の中には多くの市場、工芸ワークショップ、商人の隊商宿が残っている。イスラム文明の中で、モスク、メドレセ(神学校)、ハナカ(修道院)、ミナレット(塔)、及び廟のような多くのイスラム文化の記念碑か、聖なるブハラの高い地位を表すという。
新市街のホテルからブハラの西郊にある城壁跡へと向かう。左手には古そうなモスクか廟の門構えが。
城壁の地図の7:バリアンド・モスクかな。
よそみをしていると、右側には細い水路に沿って城壁が見えてきた。シャフリサブスのアク・サライ宮殿近くの城壁と同じで、修復されたもののよう。
ひょっとしてと思って左側を向くと、やはりこちら側にも修復されたものが続いていた。
新しい建物が続く中に、少しは歴史がありそうな煉瓦造りの建物が。門構えが左側にあって、ドームも複雑に立ち上がっている。
段々低い民家が道路の両側に続くようになって、遊園地のようなところでバスは停まった。
西の方へ向かっていく。
木陰からのぞき見るようにして貯水池と、向こう岸の城壁を眺める。
これは最も新しい16-19世紀の城壁だ。
左の端には古そうな城壁が残っている。
西から城壁を辿っていって、カーブして、次に折れる少し前、見える範囲の城壁の真ん中あたりにタリパチ門はあった。
『中央アジアの傑作ブハラ』には、外側から見た門が載っていた。
門と城壁
こんな所を歩いてみたかった。時代的には新しいし、修復されたものだといっても。
かつては門の外はこんな風に賑わっていたし、中にも建物らしきものが見える。
貯水池ができる前かな。
門の航空写真。
公園には、ブハラ旧市街からこの池に流れ込む水路が。
貯水池の方へ
→ ウズベキスタンの真珠サーマーン廟1 美しい外観
参考文献
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
「UZBEKISTAN The Great Silk Road TOURIST MAP」 Cartographia 2009年
「中央アジアの傑作 ブハラ」 SANAT 2006年