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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年6月4日火曜日

モーラゼイレクジャーミィ Molla Zeyrek Camii


ヴァレンスの水道橋からモッラゼイレックジャーミィの近辺地図 Google Earth より
ヴァレンスの水道橋からモッラゼイレックジャーミィの近辺地図 Google Earth より


ファーティフ複合施設からアタテュルク大通りへ行く途中からヴァレンスの水道橋 Valens Su Kemeri (Bozdoğan Kemeri) は高さを増していき、遠くにあった低く丸いドームに近付いてきた。だが、この道からは建物を見に行けなかったので、

水道橋の反対側に回ると芝生の公園 İBB Fatih Anıt Parkı が広がっていて、少し遠のくと水道橋が高く聳えていた。その下を通るのはアタテュルク大通り Atatürk Blv. 。


元の高さで残っているのはアタテュルク大通りの付近だけ。
そしてアタテュルク大通りは水道橋を過ぎるとハシムイシュジャン大通り Haşim İşcan Gç. と名を変えて、交差点を立体交差でくぐる。 


水道橋から金角湾方向に歩を進めるとイスラームの建物があった。これが遠くからドームが見えたガザンフェルアー廟 Gazanfer Ağa Türbesi 


しばらくアタテュルク大通りを金角湾方向に歩いて、この斜めの道を上がっていくと、

高い石垣が現れた。


石垣沿いに左に曲がるとモッラゼイレックジャーミィ、ビザンティン帝国時代にはキリスト教会だった建物の入口に着いた。



説明パネルは、モスクはビザンチン時代のパントクラトル修道院の教会群で、金角湾を見下ろす丘の上、テラスのある広大な敷地に建てられた。この建物はヨアニスコムネノス二世皇帝 (1111-43) の妃でハンガリー王ラズロの娘のイレーネによって建てられた。1124年皇后の死後、夫によって完成したと推定されている。建築家はニケフォロスとして知られている。修道院には、五つの部門に分かれた 50床の病院、図書館、老人ホーム、医学校、薬局、聖なる泉のエリアがあった。
この修道院はメフメト征服王によりメドレセに改築され、オスマン帝国時代にはイスタンブール初の教育機関となった。おそらく、修道士の一人部屋はメドレセのそれに変わり、その教会は教室とモスクの両方として使用された。メドレセの教授の一人であったモッラメフメトエフェンディ(あだ名はゼイレク)が、オスマン帝国時代のこの建造物の名前の由来となった。ファーテフ複合施設のメドレセが建設されたとき、この建造物はアブドゥッラーイイラーヒに与えられ、小さなイスラム修道院の形でその活動を続けた。オスマン帝国時代には、さまざまな時代のビザンチン教会が五つ、モスクとして使用されたという。

建物は今でもビザンティン風のレンガの層と石積みの層が重なったアルマシュクだが、窓の仕切りがイスラーム風。扉はあるが、ここからは入れないので、


右から回り込んでいくと建物が突き出た辺りに人がいた。

先ほどの人がたくさんいたところ。ここがモスクの入口。



平面図がないので Google Earth より
The Byzantine LegacyPantokrator Monasteryは、パントクラトル修道院は、コンスタンティノープルの中期ビザンチン聖堂の中で最大のもの。
西の入口より、ナルテックス(玄関廊)、9つの柱間のナオス(内陣)、北聖堂と南聖堂は共に正方形平面で、中央に4本の円柱にのったドーム、3部構成のベーマ(三重後陣)であったという。
モッラゼイレックジャーミィの近辺地図 Google Earth より


中に入ると大理石の扉口の枠だけが残っていて、その奥まで幾つかシャンデリアが下がっている。
説明パネルは、現存する連続した建造物は、間に礼拝堂を挟んだ二つの教会で構成されている。この修道院は、1118年頃、全知全能の神パントクラトールに捧げられた南聖堂の建設が始まった。1124年にイレーネが亡くなった後、コムネノス二世は北聖堂を建設し、葬儀礼拝堂を建設したという。
これが「南の聖堂」と呼ばれている建物。

真っ直ぐ進んでドーム下より。
入口と教会の後陣、そしてアヤソフィア同様に、その中に少し右にずれてモスクのミフラーブ。円柱と柱頭は教会時代のものなので、中期ビザンティン様式になる。

ドームを見上げたいと思っても、この巨大なシャンデリアが邪魔をする。というよりも、シャンデリアはそんなに大きくないが、ドームが小さいのだ。


後陣の天井部分


そして最奥部。
色大理石で豪華に荘厳されている。

色大理石による装飾
左 本の見開きのように、パネルとしては小さいが、左右対称に割って並べたものが多数を占めている。小さいながら6世紀のアヤソフィアに負けないくらいの徹底ぶり。12世紀の後もこのような嗜好が続いていたとは。

こちら側にも大理石のパネル。




また、モスクのミフラーブ、大理石の説教壇と木製のアンボンはこの時期に追加されたという。

後陣のミフラーブ

そして説教壇


ビザンティンの聖堂なので、ギリシア十字型で細い側祭室が左右にあって、

モスクになると、礼拝で正座するので、床にはカーペットが敷き詰められている。それが部分的にめくられていたが、窓からの光が反射して何があるのか分からない。
説明パネルは、床には、ビザンチン時代から現在に至るまで最も豊かなオプス・セクティレ技術を用いた大理石の床があるという。
この色大理石のモザイクは、The Byzantine LegacyPantokrator Monasteryにその一部が紹介されています。

端のごく一部だけ写せた。


礼拝室への入口を振り返ると、モスクになってからの木製女性用マッフィルの上に不思議なものがあった。

何だろう?


葬儀礼拝堂
そのドームは楕円形だが、見上げても分からなかった。

その隣にも楕円形のドーム。


そしてその先には上に二段の窓


南北を聖堂に挟まれた葬儀礼拝堂は4本の太い角柱で支えられている。


北聖堂は左右に側祭室のあるギリシア十字型


この辺りで、修復作業を行っている人が背後のマッフィルへの階段を登っていくのが見えたので、身振り手振りで私も上に上がっていいかと尋ねるとOKだったので、上がっていった。
すると、地上階よりも明るくて、アーチの石が描かれたものであることが判明した。



この構造はオスマン帝国時代を通じて使用され保存されてきたが、1766 年の地震で深刻な被害を受け、その期間に重要な修復が行われて現在の形になった。ビザンチン時代の色大理石ののほとんどがこの修復前に破壊されていたため、手描きの色大理石の模造作品が制作されたという。
その一例。フレスコ画もあった。

せっかくなので、あちこち拝見した。
北聖堂南側祭室


北聖堂北側祭室



キンキラのマッフィルのようなものは何時造られたのだろう。

下を覗くと不思議な形の円柱と柱頭が間近にあった。


マッフィルに出ると、柱頭が目の高さにあった。
Pantokrator Monasteryは、壁を漆喰で塗ることに加えて、北と南の聖堂のドームを支える円柱はオスマン帝国のバロック様式に取り替えられた。北聖堂のドームも何度か改変を受けた。オスマン帝国時代に何度も修復されたが、最も大きな修復は18世紀後半の火災で甚大な被害を受けた後という。

よく見るとイオニア式の渦巻きの先などに小さなアカンサスの葉文様が。



南壁側に残るのはビザンティン時代の付柱の柱頭
十字架かは浮彫に、蔓草は金色に描かれている。

南聖堂のマッフィルから葬儀礼拝堂と北聖堂

説明パネルは、
モッラゼイレクモスクの最後の修復は、2009-17年にかけて実施された。修復工事中、北側の構造物の下から上部構造物と同じ平面の下部構造物が発見されたという。
中期ビザンティン様式以前にも聖堂があったのだろう。

また、The Byzantine Legacyというサイトのパントクラトール修道院には、この地から出土して、イスタンブール考古学博物館に所蔵されているステンドグラスの断片の写真が掲載されている。これについては『地中海紀行 ビザンティンでいこう!』は、ここからはステンドグラスの断片が発掘されて、西欧でおなじみの技法の起源に関して議論をよんだという。

見学後は、来た時と反対側に出た。

すると南聖堂が見え始め、


聖堂前を通ると、続く葬儀礼拝堂や北聖堂も姿を現した。

北聖堂の向かい側にはゼイレクハネ Zeyrekhaneというテラスカフェがあったので一休み。

このカフェから見えるものが写真パネルで紹介されていた。
ガラタ橋にアジア側、チャルムジャ塔

確かに


アタテュルク大通りから続くアタテュルク橋と金角湾メトロ橋 Haliç Metro Köprüsü にガラタ塔。

ほぼそのままやん

長い電車がどんどん通るメトロ橋と屋根を修復中のガラタ塔


スレイマニエジャーミイも見える

スレイマニエジャーミイと複合施設の一部を写すことができた。

そして、モラゼイレックジャーミィの全体

その後は階段を降りて

アタテュルク大通りを地下道でくぐりシェフザーデジャーミィへ。
地下にも建材屋が並んでいて驚いた。




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参考サイト

参考にしたもの
現地の説明パネル