『Architect Sinan His Life,Works and Patrons』は、スレイマン大帝とヒュッレムの一人娘、ミフリマーの正確な生年月日は不明だが、1522年に生まれたと考えられている。ミフリマーは、月と太陽を意味するミフルマとも綴られ、幼少期から宮殿で非常に厳しい訓練を受けた。
1558年、ミフリマーはまず母ヒュッレムスルタンを亡くし、その後、大宰相に昇進した夫のリュステムパシャの浮き沈みの激しいキャリアは、1561年に彼の死とともに終わった。1566年、父スレイマン大帝の死後、セリム皇子が即位したとき、ミフリマーは依然として影響力を持っていた。
ミフリマーは、父がプロヴディフに与えた10の村と鉄鉱山から多額の収入を得ており、非常に裕福だったため、兄のスルタン・セリム二世に金貨5万枚を贈与した。夫のリュステムパシャから相続した財産とは別に、ミフリマーの財産は、リュステムパシャの弟で海軍総司令官のシナンパシャから相続した財産も加わり、さらに高額になった。セリム二世の3人の娘の結婚費用を支払ったミフリマーは、兄セリムの後に即位したムラト三世の時代も権力と影響力を維持した。
ミフリマーには、リュステムパシャとの結婚でオスマンという息子とアイシェヒュマンシャーという娘がいた。息子については不明だが、娘ヒュマンシャーをグゼルジェアフメドパシャと結婚させたことは知られている。ミフリマーは、イェニチェリだったアフメド・パシャを義理の息子として選び、スルタンの第二宰相に昇進させた。
ミフリマーの国政に対する影響力は常に明らかであり、慈善活動に非常に熱心だったことでも知られていた。ミフリマーは、アラファト山からメッカに水を運ぶために50万金貨を費やし、エディルネカプとユシキュダルに二つの大きなモスク複合施設を建設した。1578年1月25日に若くして亡くなった彼女は、スレイマニエにある父親の墓に埋葬されたという。
当時で56歳まで生きたら、まあまあの長寿ではなかったかな。
『トルコ・イスラム建築』は、碑文がないので建設年は明確でないが、1562-65年の間に建設されたらしい。スレイマン一世とヒュッレムの娘で、大宰相リュステム・パシャの妻であるミフリマー・スルタンが完成したという。
ミフリマーは1561年に夫リュステムパシャが亡くなった後、リュステムパシャジャーミイを1562年に完成させ、続いてエディルネカプに新たなモスクを建立した。
ミフリマースルタンジャーミイの古い空撮 THE ARCHITECT AND HIS WORKS より
下写真はテクフル宮殿博物館にあったエディルネカプと城壁、そしてミフリマースルタンジャーミイの建物の模型。
アリーさんのタクシーで、テクフル宮殿博物館から城壁に沿ってミフリマースルタンジャーミイへ。途中で修復中のコーラ修道院(現カーリエジャーミイ)がちらっと見えるかと期待したが、全く見えなかった。
テオドシウスの城壁側から眺めたミフリマースルタンジャーミイ
ミフリマースルタンジャーミイは、礼拝室よりも中庭の周囲に三方にわたるメドレセが大きい。これがメドレセの壁。
南東のミフラーブ壁の窓にはステンドグラスが並んでいる。
⑪北側廊
本来ミナーレ(ミナレット)は、高い所に登って祈りの時を知らせる(アザーン)ためのものなどで、1基あれば良いのだが、複数備えたモスクが多かった。リュステムパシャジャーミイのミナレットも1基だが、ユシキュダルのミフリマースルタンジャーミイはミナレットは2基だった。
第6の丘にあるミフリマースルタンジャーミイの古い空撮 THE ARCHITECT AND HIS WORKS より
第6の丘にあるミフリマースルタンジャーミイの古い空撮 THE ARCHITECT AND HIS WORKS より |
テオドシウスの城壁側から眺めたミフリマースルタンジャーミイ
ミフリマースルタンジャーミイ平面図 『トルコ・イスラム建築紀行』より
リュステムパシャジャーミイはシャドルヴァンや回廊、メドレセはないが、モスクに対して幅広のテラスというのはリュステムパシャジャーミイの平面と共通している。
➊南・北・西からの入口 ➋三方に柱廊 ➌中庭 ➍清めの泉亭 ➎南・北にメドレセの教室 ❻ソンジェマアトイェリ(礼拝時刻に遅れてきた人が礼拝する柱廊) ➐礼拝室への入口 ➑礼拝室 ➒ミフラーブ(メッカの方向)❿ミンバル(説教壇) ⑪側廊(上階は女性用マッフィル) ⑫皇族などのマッフィル(特別席)
フゥヴズィパシャ通り Fevzi Paşa Cd. で タクシーを降りた。
『トルコ・イスラム建築』は、イスタンブルの市壁のエディルネ門のすぐ内側に建設されたキュッリエのモスクである。市内の中心部から離れているが、イスタンプルでは最も標高が高い第6の丘の頂で、エディルネやヨーロッパ側から来た人々が通過する場所に建設した
という。
ミフリマースルタンジャーミイ周辺図 Google Earth より
モスクのキュッリエ(複合施設)として創建されたが、イマレット(メドレセの学生や貧しい人達に食事を提供するための慈善施設)はどこにあるか分からなかった。
少し南にミフリマースルタンハマム Mihrimah Sultan Hamam が現在でも営業しているようなので、幾つかあった施設は、地震の度に再建されないものがあって、数を減らしていったのだろう。
イスタンブール ミフリマースルタンジャーミイ周辺図 Google Earth より |
ミフリマースルタンジャーミイは、礼拝室よりも中庭の周囲に三方にわたるメドレセが大きい。これがメドレセの壁。
椅子はほとんどないが、静かなので寛げる場である。
➌中庭には植え込みと大きな➍シャドルヴァン(清めの泉亭)があった。
正面から柱廊と礼拝室の立ち上がりを眺めようとしたが、シャドルヴァンが大きすぎて柱廊は小ドームしか見えず、
スレイマニエジャーミイやシェフザーデジャーミィで見てきたようなドームへの移行部がなくて、主ドームと重量塔、そして窓の多いティンパヌンだけ。
柱廊の中央から➐礼拝室の入口へ。
柱廊の中央から➐礼拝室の入口へ。
➑礼拝室に入ると、たくさんの窓と大きなモスクランプの吊金具
同書は、このモスクの礼拝室は、ドーム架構法を最も単純化した集中プランの空間を創出していて、スィナンの独創性が最も発揮さ れている建物の一つである。主ドームは直径約20m、床からの高さ約37mである。そのドームの重量は、四方の大アーチが作るペンデンティブを介して四隅のピアが支えている。スレイマニエ・ジャーミシやシェフザーデ・ジャーミシで使用した、大アーチを横から支える半ドームも、ピアを横から支えるバットレスも、すべて取り去って、主ドームの裾が横に拡がろうとする推力に対しても、4本のピアのみで対抗させている。
礼拝室から天井を見上げると、ドーム天井と四隅のペンデンティブだけで、他の構造体はないという。
ドームと四方の明るいティンパヌン、左がミフラーブ壁、右が入口側 『トルコ・イスラム建築紀行』より
➒ミフラーブと❿ミンバル
地上階の窓の上のリュネットがタイルかと思ったが、壁画だった。夫、リュステムパシャの建てたモスクとは大違い。同書は、四方の大アーチの下のティンパヌンはカーテン壁で、いずれも5段の並びで窓が開けられている。この手法はスレイマニエ・ジャーミシの側面で使用されているが、ここでは四方すべてであり、またティンパヌンの面積に占める窓の割合は増やされている。
両脇のティンパヌンの下は、スレイマニエ・ジャーミシのように2本の花崗岩の円柱を支柱とした三連のアーケードとしている。その円柱の間隔は、スレイマニエでは両脇より中央が広いが、ここでは等間隔である。三連のアーケードの後ろに直径約6mの等しい3個の小ドームの並びで覆われた側廊を設け、約35mX24mの横長の礼拝室を創出しているという。
二階の女性用マッフィルにも装飾的な結界が続いているが、当初のものか不明。
地上階の側廊の手前に立ちはだかる2本の太く長い円柱は、上のティンパヌンを直接支えていて、アヤソフィアが数本の円柱を二段に積んで二段の窓のあるティンパヌンを支えているのとはだいぶ違う。
そう言えば、このモスクを建設したミマールスィナンは、アヤソフィアのドームを修復した時に外側のバットレスを造ったと、後日ガイドのギュンドアンさんから聞いたが、ミマールスィナンがアヤソフィアのどこかを修復した時に、何時か自分はアヤソフィアのドームを超える大きなドームを造りたいと思ったというのを何かの本に書いてあったことを思い出した。
北西側の入口上部
入口の両側は⑫マッフィル
二段目に中央が大きく両端が小さいヴォールト天井と、その上中央に半円アーチを造って両側のペンデンティブをつなぐ大アーチを支えている。
同書は、この、4本のピアのみでドームを支える型式は、その後多数のモスクで適用された。特にヌール・オスマニエ・ジャーミシ (1749-55)が建設された以降は19世紀後半まで大流行した。このミフリマー・スルタン・ジャーミシは、最初の試みであったので構造上の強度が不十分だったためか、地震による被害を繰り返し蒙っている。最近では1999年の地震による被害がイスタンブル市内のモスクでは最も甚大で、修理に10年近い期間を要しているという。
そして、ミフラーブ壁も装飾といえばステンドグラスだけ。ステンドグラスについては後日忘れへんうちににて。
この礼拝室には見学者がミフラーブ壁に近づけない柵がなかったので、ミンバルの装飾を横から見ることができた。
❿ミンバルの装飾
手すりの下は十二角形の輪っかのまわりに同じ形の輪っかを六つ巡らせて中心に六点星をつくる標準的な透彫。蔓草(ルーミ)を優美に繁茂させた浮彫の中には六点星のまわりに六角形を六つ配した透彫の大きな円形。
靴を置いているので正面入口から出ると、ここにも木の扉に象嵌細工。
外に出て、左手からモスクの周囲を巡ってみることにした。
小ドームもつくりは様々
アーケードを通り過ぎたところに➊南入口への階段。第6の丘の頂部がここにあったからだろうか。
モスクと複合施設の平面図 『Architect Sinan』より
➊モスク ➋グゼルジェアフメドパシャ Guzelce Ahmed Paşa の墓と校舎 ➌ハマム
上方の『THE ARCHITECT AND HIS WORKS』の空撮写真で、➋は屋根がなく、➊と➋の間は草茫々になっていた。この写真には➌のハマム下端に写っている。
モスクの外廊下を歩いていると、柵で囲まれた庭のようなものの先にアルマシュクの建物があった。
➋ミフリマーの義理の息子、グゼルジェアフメドパシャの墓と校舎
入口がわからず、中には入れなかった。
ミフラーブ壁側
スレイマニエジャーミイのようなピラミダルな盛り上がりは見られない。小ドームなどがないので、ミマールスィナンは見栄えを考えて重量塔左右に階段状のバットレスのようなものを付け足したのだろうか。
この広い場所には何があったのだろう。たいていは庭園があるのだが。
関連記事
参考文献