お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年6月25日火曜日

ベヤズィットジャーミイ Beyazit Camii とその墓廟 Turbe


カレンデルハネジャーミイを出てもと来た道を戻っていき、ベヤズィットジャーミイの複合施設のうちハマムが現在はハマム博物館となっているのでそこに寄り、その後ベヤズィットジャーミイへ。このモスクのすぐ東にグランドバザールと通称されるカパルチャルシュ Kapalı Çarşı(屋根付きの市場)がある。


イスタンブール大学周辺 Google Earth より
『トルコ・イスラム建築』は、建設に選ばれたのは、イスタンブルの第3の丘でビザンツ時代は街の中心の一つであったタブロス広場の一角である。東側には商業センターとしての市場、北側はメフメット二世が最初に建設した宮殿のエスキ・サライ(古宮殿)がトプカプ宮殿の建設後も使用されていて、まとまった広い敷地を確保できなかった。そのため、キュッリエの建物群の配置には対称性もなく、統一性も損なわれているという。
現在はイスタンブール大学の建物があちこちにある。
イスタンブール大学周辺 Google Earth より


ベヤズィット二世のハマム博物館からトラムの通りに沿って行くと、緑の建物にくっつくようにベヤズィットジャーミイが見えてきた。

そこは墓廟に近いところだったので、モスクに行く前に見学した。

ベヤズィット廟
『望遠郷』は、モスクの後ろにバヤズット二世廟がある。石灰岩でつくられ、緑大理石で飾られた簡素で調和のとれた霊廟である。1580年にスィナンが霊廟の下のほうに市場を設置した。これはのちに取り壊されたが、1960年代にそっくり復元されているという。
玄関の柱廊の屋根はバロック様式のようでがっかり。

説明パネルは、息子の皇子セリムが王位に就くことを熱望したため、彼は王位を彼に譲り、ディメトカに向かった。長い旅の途中、彼は1512年にエディルネで亡くなった。彼の遺体はイスタンブールに運ばれ、ベヤズィドモスクの廟に埋葬された。廟は息子ヤウズスルタンセリムによって造られたという。

緑大理石? 確かに。

八角形の廟は石灰岩の切石で造られ、ドームで覆われているという。
内部も改築されていた。ドームも後世のもの。

しかし、一部分だけオリジナルのフレスコ画が。


棺には螺鈿細工の柵があった。

柵には六弁花の花があしらわれいる。

木棺に浅浮彫されているのかと見紛うような薄い覆い布にコーランの言葉と植物文様が刺繍されている
コーランの言葉の他は繊細な植物文様だけ。

足側
紗のように薄い生地に刺繍してある。チューリップの花はまだ登場していない。


壁面上部にはステンドグラスが。

すごく控えめだけれど、オリジナル? まわりの枠がそれを否定している。



下側の壁面は大理石風に彩色されているが、戸棚の彫り跡がわかるようなラフで装飾のないものもええなあ。


もう一つの墓廟はセルチュクスルタン廟  Selçuk Sultan Türbesi
説明パネルは、セルチュクスルタンは、オスマン帝国のバヤズィト二世の娘で、ヤウズスルタンセリム(冷酷なセリムスルタン)の妹。セルチュクスルタンの遺体は、1508 年に死去した後、イスタンブールのベヤズィトモスクの廟に埋葬された。この廟は、兄セリムによって建てられた。
八角形の廟は、きれいに切り出された石で造られ、ドームで覆われている。入口の正面には、最近木製のポーチが追加されたという。

父ベヤズィットより先に亡くなったため、彼女だけの墓廟が建てられた。


ここもまた修復されて当時とは全くことなるものになってしまった。


窓枠は大理石だが、下部の壁面は大理石を模して塗られている。

右端は大理石の切石を積み重ねたもの。



午後4時半にアザーンがあって、モスクでの礼拝が始まるので、それまでに見学しておこうと急いだ。

ドームの外二段にわたって黒い筒状のものが四方に配されている。

ベヤズィットジャーミイは礼拝室の左右に羽を広げたような配置になっていて、中庭が突き出ている。
『望遠郷』は、礼拝場の前部の両脇には幅広い張出しがあるという。他のモスクにはない張り出しは、平面図の⑬タブハーネ(旅行者を無料で宿泊させる施設)に当たる。

ベヤズィットジャーミイ
建設年1500-06 建設者ベヤズィット二世(在位1481-1512 スレイマン一世の祖父)建築家ヤクブ・シャー・ビン・スルタン・シャー 
『トルコ・イスラム建築紀行』は、メフメット二世が建設したファーティヒキュッリエシは1776年の地震でモスクが崩壊したので、現在のモスクはプランを変えて再建したもの。イスタンブルにあるスルタンのモスクとしては、ベヤズットキュッリエシのモスクが最も古い。
ジャーミイは、アヤソフィアのプランを用いた最初のモスクで、主ドームの前後に半ドームを配置した、支柱が4本の集中プランの建物である。礼拝室の両脇にタブハーネを配置しているという。

平面図 『トルコ・イスラム建築』より
①モスク正門 ②中庭 ③シャドゥルヴァン(清めの泉亭) ④回廊 ⑤中庭への脇入口 ⑥ソンジェマアトイェリ(遅れてきた人が礼拝する場所) ⑦礼拝室正面入口 ⑧身廊主ドーム(径17.5m、高36m) ⑨半ドーム ⑩ミフラーブ ⑪側廊ドーム ⑫スルタン用マッフィル(特別な礼拝席) ⑬タブハーネ(旅行者を無料で宿泊させる施設) ⑭礼拝室脇入口 ⑮ミナーレ
イスタンブール ベヤズィットジャーミイ断面図・平面図 トルコ・イスラム建築紀行より


取りあえず写真を撮った。

モスク正面
『トルコ・イスラム建築』は、バヤズィット二世は、エディルネのキュッリエを建設してから13年後の 1501-06年に、イスタンブルにもキュッリエを建設した。イスタンブルの人口が増え、モスクをはじめとする新たな施設が必要になったのだと思う。
一般に、膨大な出費がかかる建設事業は、必要性があるから実施するのであっ て、権力者の自己顕示欲や趣味の要素があるにしても重みは少ないと考えるべきである。統治者が必要性の乏しい事業に膨大な出費をつぎ込むと、統治機構そのものが崩壊する。大モスクの建設でいえば、既存のモスクで十分であれば、老朽化していても大規模な修理をして使用すればよい。それでも信徒の収容力が不十分なら新たなモスクの建設が必要となる。
バヤズィット二世が再び「スルタンのキュッリエ・モスク」を建設したのには、イスタンブルのイスラム人口が増加した背景があると考えるべきであるという。
エディルネのバヤズィット(著者の飯島英夫氏はバヤズィットかベヤズィットかについて言及されている。エディルネまではバヤズィット、イスタンブールではベヤズィットとしておく)のキュッリエ(モスクの複合施設)についてはずっと後ほど

①正面入口

入口上のムカルナス


③シャドゥルヴァンと⑥ソンジェマアトイェリ、中央の一段高い⑦
礼拝室正面入口、⑨半ドーム⑧主ドーム
『望遠郷』は、中庭はシエナ産の緑斑岩と大理石でつくられた円柱が20本ある回廊に囲まれている。回廊のアーチは赤と白の石か黒と白の石が交互に並んでおり、その上には24の小さなドームがのっている。中庭の床はさまざまな色の大理石が敷き詰められ、その中央には美しい清めの泉亭がある柱頭や軒蛇腹には鍾乳洞状装飾の彫刻が施されているという。
整然とした造りである。シェフザーデジャーミィよりも中庭が大きく感じられるのは、中庭を囲む小ドーム群が小さいからだろうか。
ミマールスィナン以前にもこんなモスクが建てられていたのだ。

⑦礼拝室正面入口の外枠がやや装飾的


⑥ソンジェマアトイェリと中央の一段高い⑦礼拝室正面入口
柱頭や軒蛇腹には鍾乳洞状装飾の彫刻が施されているという。
モスクの円柱はドラムを重ねたものはなく、名石の一本柱。中庭には円柱を左右対称に配置している。


柱頭はムカルナス、
とここでアザーンが! なんと前日までは4時半だったのに、この日から4時になったとは。30分ほどモスクの外で待たなくては。


一端モスクを出て、東側の狭いサハフラール古書街 Sahaflar Çarşısı に行くことにした。
ベヤズット広場の方を振り返ると、どんどん人がモスクに向かってくる。男性といわず、女性といわずやってくる。職場に近いからだろうか。ベヤズィット二世に人気があるのだろうか。

『望遠郷』は、サハフラル・チャルシュス(本の市場)は古本も新刊書も扱う活気あふれる市場で、ブドウ棚を囲んで本屋が並んでいる。この市場はビザンティン時代から続く古い市場である。コンスタンティノープル征服後は、ターバン製作業や彫刻家がここで働いていた(ハッカクラス・カプスの名はこれに由来する)。本屋は18世紀の初め、バザールからこの場所に移ってきた。その直後の印刷の合法化により、彼らの商売は拡大し、市場全体が本屋で占められるようになり、本の市場の名がついた。19世紀から20世紀の初めにかけて、本の販売と配達はサハフラル・チャルシュスを通して行われていた。50年ほど前から市内に近代的な本屋が増え、市場はそのあおりを受けている。しかし、ここがトルコで最も古い本の市場であるという誇りは失われていないという。

書物だけではなく、絵画や版画などの店もある。

私がほしいと思っている系統の書籍は残念ながらなかった。



少し早めにモスクに戻ると礼拝室内はすでにがらんとしていた。

『トルコ・イスラム建築』は、モスクはエスキ・ファーティヒ・ジャーミシとエディルネ・バヤズィット・ジャーミシの両方から影響を受けて建てられた。礼拝室は中央に直径 17.5m、 高さ 36mの主ドームを4本のピアの上に載せ、中庭側とミフラーブ側から同じ直径の半ドームで挟み、両脇にそれぞれ4個の小ドームを並べている。
2個の半ドームの使用で、エスキ・ファーティヒ・ジャーミシの欠点であるキブラ軸に沿った前後の静力学的不均衡を解消したのは重要な改善といえるという。
アヤソフィアと同じように、ドームの両側面は半ドームをつくらず、窓の多い壁面(ティンパヌン)にしている。

ミフラーブ壁側には半ドーム、半ドーム下の両側にペンデンティブ。
同書は、ただし、主ドームから4本のピアに降りてくるペンデンティブが造る四つの大アーチについてみると、キブラ軸に平行な側面の大アーチの幅が、キブラ軸に直交する半ドーム側のアーチの幅よりも狭く、アヤ・ソフィアでの対処とは逆になっている。
主ドームの底部を横から支える働きとしては、半ドーム側は大アーチを半ドームがぴったりと押さえているので強いが、側面は大アーチを直接押さえているものがないので弱い。そのためアヤ・ソフィアでは、側面の大アーチをより幅広く頑丈にするとともに、巨大なバットレスで4本のピアを側面側から支えている。ところが、バヤズィット・ジャーミシではアヤ・ソフィアのような対策を講じていないうえ、大アーチの幅は逆である。さらに4本のピアを外側から支えている8個の中アーチの幅も、キブラ軸に平行な中アーチのほうが側面側の中アーチより幅広く、対処が逆である。なぜそうしたのか、私には理解できない。
このように構造的に完全ではなかったためか、1509 年と 1766年には地震で大きな被害を受け、特に完成して間のない 1509年の地震ではドームも崩れている。ミマール・スィナンの時代の1573年に修復され、ミフラーブ側の大アーチには補強アーチが付けられた。また、1999年の地震でもドームに亀裂が入り、イスタンブルで被害を受けたモスクの中では最初に修復されているという。
ミマールスィナンが修復を手がけていた。

ミフラーブは大理石、タイル装飾はない。ステンドグラスは創建当時のものだろうか。
少人数だがまだ熱心に礼拝している人たちがいたので、これ以上入り込むのは控えた。

同書は、主ドームの前後を半ドームで挟むプランは、アヤ・ソフィアのプランと同じで、アヤ・ソフィアの建設から約970年後に再び適用された。相違点はアヤ・ソフィアの両脇はヴォールトで覆われた2階建て構造なのに対し、規模の小さいバヤズィット・ジャーミシでは小ドームで覆われた1階建てであることであるという。

右の⑪側廊
奥に⑫スルタン用マッフィル、右手前にムアッジン用マッフィル
『望遠郷』は、スルタンのマッフィルは、珍しい大理石でつくられた円柱によって支えられているが、イスタンブールのほかのモスクのようにミンバルの左側ではなく、不思議なことに右側に位置しているという。

側廊の小ドーム群、奥の仕切りは女性用マッフィル

小ドームの一つ


この辺りにはさまざまなフレスコ画が描かれている。それが古いものか、修復の際に新たなものが描かれたのかが分からないところ。



父メフメト二世が建立したファーティフジャーミィと同じく、タイル装飾のないモスクだった。



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参考文献
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同朋舎出版 1994年 同朋舎出版