今日はスレイマニエモスクから Google Earth より
トラムT1でベヤズィット Beyazıt 駅下車。駅の北側には巨大なグランドバザール(カパルチャルシュ Kapalı Çarşı)の西の端の門を入ると、
Google Earth より
メフメト二世がコンスタンティノープルを征服してオスマン帝国の首都にし、イスタンブールと名を変えた時、まずこの辺りに宮殿を建てた。現在はイスタンブール大学となっているが、この城壁はエスキサライの時のものだろうか。
『イスタンブール歴史散歩』は、大学本館が立っているエリアはメフメットⅡ世が征服後、ただちに宮殿を建てた場所である。その数年後、トプカプ宮殿が建てられ、この宮殿はエスキ・サライ呼ばれ、退位したスルタンの女たちの隠棲用の住居として使われるようになった。スルタンが死ぬと、その妻妾たちはトプカプ宮殿を出て、「嘆きの家」と呼ばれた旧宮殿に移った。だが、わが子がスルタンの位に就くと、その母親は皇太后(ヴアリデ・スルタン)として華やかな行列を連ねて、嘆きの家からふたたびトプカプ宮殿に帰るのである。この宮殿はいまは痕跡もとどめていないという。
スレイマニエジャーミイの複合施設
①モスク ②スレイマン廟 ③ハセキ・ヒュッレム廟 ④墓廟番の小屋 ⑤メドレセ ⑥医学メドレセ ⑦ダールッシファ(精神病院) ⑧イマレット(メドレセの学生や貧しい人に食事を供給する施設) ⑨タブハーネ(旅行者が無料で宿泊できる施設) ⑩ダールウ・ハーディス(ハーディス学校) ⑪ハマム ⑫コーラン学校 ⑬ミマール・スィナンの墓 ⑭東入口 ⑮入口の一つ ⑯墓廟のある庭園への入口
ビザンティン時代からある技法だが、これは⑩と⑭の間にある横長の建物でオスマン朝期のもの。おそらく商店街。
しかし、その手前の通りをのぞくと小さなドームが見えた。あれがスレイマニエジャーミイの複合施設の一つスレイマニエハマム Suleymaniye Hamam だ。
説明パネルは、スレイマニエ浴場は1557年にスレイマン大帝によって建設された。スレイマニエ複合施設の一部であるこの浴場の建築家はミマール・シナンで、シナンが「私の職人の仕事」と呼んだこその理由は、この浴場が鋳物工場の隣にあったため。浴場には「黄疸のボウル」があり、何世紀にもわたって使用されていたが、このボウルで入浴すると黄疸の患者は回復すると信じられていた。幾何学的に並ぶ煙突。浴場内の大理石台を囲むように8本の大理石の柱がある。1924年に閉鎖され、2004年に改修されて営業されているという。
『図説イスタンブール歴史散歩』は、モスクの裏の緑に包まれた庭には、シュレイマン大帝と、その妻ハセキ・ヒュッレムの霊廟が寄り添うように立っているという。
この写真はその後イスタンブールを訪れた時に撮したもの。曇りの日と晴れの日では全く違う。左がヒュッレム廟、右がスレイマン一世の廟。
右端が⑯墓廟のある庭園への入口
『Architect Sinan』は、1566年にスレイマン大帝が死去すると、大宰相ソコル・メフメト・パシャは軍から死去の知らせを隠し、遺体をイスタンブールに運び、スレイマニエジャーミイの複合施設内に埋葬した。
墓は後に息子のセリム二世がミマールスィナンに建設させ、スルタンの死後2年で完成した。
墓は八角形で、内部はドームが8本の柱で支えられている。墓廟の外側は29本の支柱で支えられたアーケードが巡るという。
この外側のアーケードはセリム二世の意向だろうか、それともミマールスィナンの思いつきだろうか。
入口は北東向きなので、棺は南西向き。メッカの方向を向けるのではなかったかな。
他の墓廟にはない外回廊が廟外側に巡っている。内部が広いせいか、ずんぐりして見える。
正面
同書は、墓の正面玄関の両側にはオニキスの柱が4本あり、壁面の両側にはイズニックタイルで装飾されているという。
玄関はガラス張りになっているので、反射してよく見えないし、
玄関から正面にスレイマンの棺とステンドグラス。
同書は、廟の扉の緑色の碑文には「最後の審判の日には死者が神のもとに戻ってくる」とあるという。
緑の扉は開いているので碑文は見えない。上の碑文は何て書いてあるのだろう。
螺鈿細工の幾何学文様
ドームについて『望遠郷』は、建物は円柱の並ぶ柱廊に囲まれた八角形で、二重のドームを持っているという。
二重殻ドーム(関連記事のページをご覧ください)は外側のドームの高さを際立たせるものなので、スレイマニエ廟の外から見えるドームがものすごく高いわけではないし、内側から見上げると半球よりも平たい。ミマールスィナンは何のために平たくしたのだろう。この天井画を描きやすく、また早く完成させるためだったのだろうか。
『Architect Sinan』は、墓の内部は、植物の模様が描かれた16世紀のイズニックタイルで装飾されている。墓のペンデンティブにあるタイルのメダイヨンには、青い地に白いスルス体のカリグラフィーで名前が刻まれている。下の窓には、青い地に白いチェリスルス体のカリグラフィーで「Ayat-el Kürsi」と書かれ、その横に二つのコーランの詩が刻まれている。詩の帯には、ビザンチン様式の模造大理石のフレスコ画があり、その上部には三重ガラスの窓がある。マラカリ技法で作られたドームと赤と白の石で作られたアーチは、完璧な調和を呈しているという。
マラカリとはこて装飾細工
スレイマニエモスクは広い上に信者以外入れないようになってたので、ミフラーブ付近にわずかにタイル装飾があるのは分かっても、写真に収めることは困難だったが、その点、墓廟は撮影するには手頃な大きさだった。
確かに上段のドームを支える八つのペンデンティブはタイルだし、下の窓の上部にはタイルによるコーランの言葉が巡り、窓の間もタイルが貼られている。
そういえば、内部に円柱のある墓廟というのを初めて見た。
それにしても、色大理石を模したアーチといい、二段の窓の間の交互に並ぶ色大理石を模した壁面装飾といい、スレイマン大帝の墓廟とも思えないし、ミマールスィナンが建てたものにふさわしくないように思われるのだが。
当時のオスマン帝国の領土では大理石が豊富に採れたはずだが、色大理石ともなると、調達が困難だったのだろうか。
『望遠郷』は、シュレマンはこの部屋に麗々しく飾られた堂々とした墓に安置されているが、墓には、在位中スルタンがかぶっていた大きな白いターパンがのっている。ターバンの威厳はこの人物にふさわしいという。
スレイマンの大きな棺にの傍に娘のミフリマーの棺。ターバンを飾ったものが男性の棺で、ターバンがないのが女性の棺なのだが、ミフリマーの棺は子供のように小さい。よっぽど小柄だったのだろうか。ドラマ『オスマン帝国外伝』でもミフリマーだけ小柄な俳優だったけれど。
もし、ヒュッレムがスレイマンよりも後で亡くなっていたら、スレイマンの棺の傍にはヒュッレムの棺が置かれていただろう。
右よりアシイェ(1689頃没)、サリハ・ディラブ(1689頃没)、ミフリマー(1522-78)とスレイマン大帝の棺には五人の子孫の棺が並んでいるのだが、娘のミフリマー以外はずっと後の人たちだった。
『望遠郷』は、ステンドグラスはサルホシュ・イブラヒム(飲んだくれイブラヒム)の名前で知られているステンドグラス作家の作品であるという。
詳しくは後日
タイルは、16世紀の半ばにイズニックで生まれた新しい様式の初期の代表作であり、チューリップの花と葉をモチーフ に、純白の地に彩度の高い青と赤茶色で描かれているという。
室内の照明では色がよく出ていない。
廟内を見学した後は外側の柱廊へ。
ロータス形の柱頭が並んでいる。
ヒュッレム廟 1558年没
説明パネルは、彼女は息子の一人がスレイマンの後に王位に就くために人生を捧げた。彼女は自分の夢が実現するのを見届けることができず、マラリアと疝痛の病気で1558年4月15日に亡くなった。彼女の葬儀の祈りはシェイフリスラム・エブスード・エフェンディによって執り行われ、彼女はスレイマニエ・モスクの特別な埋葬地に埋葬されたという。
廟の入口は西向きで棺は南向き、メッカの方向を向いている。
上部の尖頭アーチ型の石膏の窓ドームから壁面への移行部が目立たないのは、外側が八角形でも、内部を十六角形にしているからだろう。
ここにも美しいステンドグラスがある。そのいずれもが二つの円形ガラスが6段ほど並んで、その隙間を明るい彩色ガラスで構成された細かな植物文様で埋められている。
スレイマニエモスクよりもスレイマン一世の方がタイルを沢山使い、スレイマニエ廟よりもヒュッレム廟の方が多く使っているが、建立年代からいうと、モスクは1550-57年、ヒュッレムは1558年に亡くなったので先に廟が築かれ、1566年にスレイマンが亡くなって廟が建てられた。タイルの使用量は建立年とは関係はない。
せっかくなので、盛期のイズニック・タイルを。
二段のコーランの章句
百年ほどで枯渇したという鮮やかな赤い釉薬。盛り上げないと発色しなかったとか。
ヒュッレム廟を出ると、スレイマン廟の奥にモスクが聳えていた。モスクの中心線にはミフラーブがあるが、平面図でも分かる通りその線上にスレイマン廟が造られている。スルタンの墓廟といえども、そんな位置にあるのはスレイマン廟だけだと『トルコ・イスラム建築』か『トルコ・イスラム建築紀行』に書かれている。
柱廊の巡る唯一の墓廟でもある。
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参考文献
トンボの本「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同朋舎出版 1994年 同朋舎出版
「ルステム・パシャ・モスクとイズニック・タイル」
「Sinan The Architect and His Works」 Reha Günay
「Architect Sinan His Life, Works and Patrons」 Prof. Dr. Selçuk Mülayim 2022年 AKŞIT KÜLTÜR TURIZM SANAT AJANS TIC. LTD. ŞTI