お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年7月2日火曜日

ミマールスィナンの建築巡り スレイマニエジャーミイ Süleymaniye Camii の墓廟 türbe


今日はスレイマニエモスクから Google Earth より 
スレイマニエジャーミイ・リュステムパシャジャーミイ・エジプシャンバザールの地図 
Google Earth より


前回スレイマニエモスクに行った時は修復中で墓廟を見学することは出来なかった。調べているとハマムもあることが分かったので、ハマムと墓廟にまず行ってみた。

トラムT1でベヤズィット Beyazıt 駅下車。駅の北側には巨大なグランドバザール(カパルチャルシュ Kapalı Çarşı)の西の端の門を入ると、

そこは
カパルチャルシュ(屋根付き市場)という名に反して屋根のない通りだった。すぐ西側が前日に通ったサハフラルチャルシュという古書店街、そしてその西隣がベヤズィットジャーミイ。

カパルチャルシュを抜けると、左手は長~い城壁が続く。やがて下り坂となった。
Google Earth より
Süleymaniye Camii, Rüstem Paşa Camii, Mısır Çarşısı Google Earth より


メフメト二世がコンスタンティノープルを征服してオスマン帝国の首都にし、イスタンブールと名を変えた時、まずこの辺りに宮殿を建てた。現在はイスタンブール大学となっているが、この城壁はエスキサライの時のものだろうか。
『イスタンブール歴史散歩』は、大学本館が立っているエリアはメフメットⅡ世が征服後、ただちに宮殿を建てた場所である。その数年後、トプカプ宮殿が建てられ、この宮殿はエスキ・サライ呼ばれ、退位したスルタンの女たちの隠棲用の住居として使われるようになった。スルタンが死ぬと、その妻妾たちはトプカプ宮殿を出て、「嘆きの家」と呼ばれた旧宮殿に移った。だが、わが子がスルタンの位に就くと、その母親は皇太后(ヴアリデ・スルタン)として華やかな行列を連ねて、嘆きの家からふたたびトプカプ宮殿に帰るのである。この宮殿はいまは痕跡もとどめていないという。

やっと城壁の角まで来た。曲がると横長のアルマシュクという石とレンガを段々に重ねた技法を使った建物が目に入った。

スレイマニエジャーミイの複合施設
①モスク ②スレイマン廟 ③ハセキ・ヒュッレム廟 ④墓廟番の小屋 ⑤メドレセ ⑥医学メドレセ ⑦ダールッシファ(精神病院) ⑧イマレット(メドレセの学生や貧しい人に食事を供給する施設) ⑨タブハーネ(旅行者が無料で宿泊できる施設) ⑩ダールウ・ハーディス(ハーディス学校) ⑪ハマム  ⑫コーラン学校 ⑬ミマール・スィナンの墓 ⑭東入口 ⑮入口の一つ ⑯墓廟のある庭園への入口


ビザンティン時代からある技法だが、これは⑩と⑭の間にある横長の建物でオスマン朝期のもの。おそらく商店街。

しかし、その手前の通りをのぞくと小さなドームが見えた。あれがスレイマニエジャーミイの複合施設の一つスレイマニエハマム Suleymaniye Hamam だ。

この時は入口が閉まっていて、予約以外は入場不可と書かれていたので、見学するのに予約が必要なのかと思ったが、説明パネルを読むと現在でもハマムとして営業していて、その予約が必要なことを知った。
説明パネルは、スレイマニエ浴場は1557年にスレイマン大帝によって建設された。スレイマニエ複合施設の一部であるこの浴場の建築家はミマール・シナンで、シナンが「私の職人の仕事」と呼んだこその理由は、この浴場が鋳物工場の隣にあったため。浴場には「黄疸のボウル」があり、何世紀にもわたって使用されていたが、このボウルで入浴すると黄疸の患者は回復すると信じられていた。幾何学的に並ぶ煙突。浴場内の大理石台を囲むように8本の大理石の柱がある。1924年に閉鎖され、2004年に改修されて営業されているという。

玄関はミマールスィナン通り Mimar Sinan Cd. に面していて、角向かいにスレイマニエジャーミイへの小さな入口があった。

上り坂の上に曲がっている。


入ってみると⑮
もう一つの門の前に出てきた。


門をくぐる、と言っても高いので身を屈める必要はないので、門から入るとの方が正しい表現かも。これがスレイマニエモスク。モスクの少し手前に庭園と墓廟への入口がある。



しかし、モスクに入る前にスレイマニエ廟とヒュッレム廟を見てみたい。
『図説イスタンブール歴史散歩』は、モスクの裏の緑に包まれた庭には、シュレイマン大帝と、その妻ハセキ・ヒュッレムの霊廟が寄り添うように立っているという。
この写真はその後イスタンブールを訪れた時に撮したもの。曇りの日と晴れの日では全く違う。左がヒュッレム廟、右がスレイマン一世の廟。
右端が⑯墓廟のある庭園への入口


『Architect Sinan』は、1566年にスレイマン大帝が死去すると、大宰相ソコル・メフメト・パシャは軍から死去の知らせを隠し、遺体をイスタンブールに運び、スレイマニエジャーミイの複合施設内に埋葬した。
墓は後に息子のセリム二世がミマールスィナンに建設させ、スルタンの死後2年で完成した。
墓は八角形で、内部はドームが8本の柱で支えられている。墓廟の外側は29本の支柱で支えられたアーケードが巡るという。
この外側のアーケードはセリム二世の意向だろうか、それともミマールスィナンの思いつきだろうか。
入口は北東向きなので、棺は南西向き。メッカの方向を向けるのではなかったかな。
スレイマニエ廟 トルコ・イスラム建築より


他の墓廟にはない外回廊が廟外側に巡っている。内部が広いせいか、ずんぐりして見える。


正面 
同書は、墓の正面玄関の両側にはオニキスの柱が4本あり、壁面の両側にはイズニックタイルで装飾されているという。
玄関はガラス張りになっているので、反射してよく見えないし、

盛期のイズニック・タイルは斜め横から見るしかない。

盛り上げなければ発色しない赤に注目しがちだが、青にも複数の色がある。
それぞれの花や葉は蔓草で繋がっている。


玄関から正面にスレイマンの棺とステンドグラス。
同書は、廟の扉の緑色の碑文には「最後の審判の日には死者が神のもとに戻ってくる」とあるという。
緑の扉は開いているので碑文は見えない。上の碑文は何て書いてあるのだろう。

内部の入口側

入口の扉はイスラームらしく幾何学文様で、


螺鈿細工の幾何学文様


ドームについて『望遠郷』は、建物は円柱の並ぶ柱廊に囲まれた八角形で、二重のドームを持っているという。
二重殻ドーム(関連記事のページをご覧ください)は外側のドームの高さを際立たせるものなので、スレイマニエ廟の外から見えるドームがものすごく高いわけではないし、内側から見上げると半球よりも平たい。ミマールスィナンは何のために平たくしたのだろう。この天井画を描きやすく、また早く完成させるためだったのだろうか。

『望遠郷』は、内壁はイズニックのタイルで覆われているが、この小さな広間にモスクの二倍もの枚数が使われている
という。

『Architect Sinan』は、墓の内部は、植物の模様が描かれた16世紀のイズニックタイルで装飾されている。墓のペンデンティブにあるタイルのメダイヨンには、青い地に白いスルス体のカリグラフィーで名前が刻まれている。下の窓には、青い地に白いチェリスルス体のカリグラフィーで「Ayat-el Kürsi」と書かれ、その横に二つのコーランの詩が刻まれている。詩の帯には、ビザンチン様式の模造大理石のフレスコ画があり、その上部には三重ガラスの窓がある。マラカリ技法で作られたドームと赤と白の石で作られたアーチは、完璧な調和を呈しているという。
マラカリとはこて装飾細工
スレイマニエモスクは広い上に信者以外入れないようになってたので、ミフラーブ付近にわずかにタイル装飾があるのは分かっても、写真に収めることは困難だったが、その点、墓廟は撮影するには手頃な大きさだった。
確かに上段のドームを支える八つのペンデンティブはタイルだし、下の窓の上部にはタイルによるコーランの言葉が巡り、窓の間もタイルが貼られている。
そういえば、内部に円柱のある墓廟というのを初めて見た。

その一枚一枚の隙間が分かるほどには写せた。このスパンドレルの縁飾りには白いチューリップがあしらわれている。
それにしても、色大理石を模したアーチといい、二段の窓の間の交互に並ぶ色大理石を模した壁面装飾といい、スレイマン大帝の墓廟とも思えないし、ミマールスィナンが建てたものにふさわしくないように思われるのだが。
当時のオスマン帝国の領土では大理石が豊富に採れたはずだが、色大理石ともなると、調達が困難だったのだろうか。


『望遠郷』は、シュレマンはこの部屋に麗々しく飾られた堂々とした墓に安置されているが、墓には、在位中スルタンがかぶっていた大きな白いターパンがのっている。ターバンの威厳はこの人物にふさわしいという。
スレイマンの大きな棺にの傍に娘のミフリマーの棺。ターバンを飾ったものが男性の棺で、ターバンがないのが女性の棺なのだが、ミフリマーの棺は子供のように小さい。よっぽど小柄だったのだろうか。ドラマ『オスマン帝国外伝』でもミフリマーだけ小柄な俳優だったけれど。
もし、ヒュッレムがスレイマンよりも後で亡くなっていたら、スレイマンの棺の傍にはヒュッレムの棺が置かれていただろう。

この柵も鼈甲と螺鈿細工。

でも柵は他の二つの棺にも使われている。ひょっとして後世に造られたのかも。
左からアフメト二世(在位1691-95)、スレイマン二世(1687-91)で、

右よりアシイェ(1689頃没)、サリハ・ディラブ(1689頃没)、ミフリマー(1522-78)とスレイマン大帝の棺には五人の子孫の棺が並んでいるのだが、娘のミフリマー以外はずっと後の人たちだった。

そして忘れてはならないのがステンドグラス。
『望遠郷』は、ステンドグラスはサルホシュ・イブラヒム(飲んだくれイブラヒム)の名前で知られているステンドグラス作家の作品であるという。
詳しくは後日


タイルは、16世紀の半ばにイズニックで生まれた新しい様式の初期の代表作であり、チューリップの花と葉をモチーフ に、純白の地に彩度の高い青と赤茶色で描かれているという。
室内の照明では色がよく出ていない。

純白の地ではないが色は鮮やか。赤茶色ではなく鮮やかな赤だと思うが。


壁裾には大理石か何かの石を模したような模様。



廟内を見学した後は外側の柱廊へ。
ロータス形の柱頭が並んでいる。

スパンドレルには菊のような装飾があるが、ガイドのギュンドアンさんに尋ねると蓮とのこと。そして、あちこちのモスクや墓廟で見かけたのだが、礫岩が風化して礫へと戻っているような気がする。


ヒュッレム廟 1558年没
説明パネルは、彼女は息子の一人がスレイマンの後に王位に就くために人生を捧げた。彼女は自分の夢が実現するのを見届けることができず、マラリアと疝痛の病気で1558年4月15日に亡くなった。彼女の葬儀の祈りはシェイフリスラム・エブスード・エフェンディによって執り行われ、彼女はスレイマニエ・モスクの特別な埋葬地に埋葬されたという。

簡素な柱廊玄関。ガラスのために分かりにくいが、スレイマニエ廟とはことなる模様のタイルパネルになっている。

入口からは棺は見えないが、タイル装飾は見える。
廟の入口は西向きで棺は南向き、メッカの方向を向いている。

入口の上部にもタイル装飾
『望遠郷』は、規模は少し小さいがタイルははるかに美しい。ドームのドラムは八角形の軒蛇腹から少し引っ込んでおり、長い碑文が刻まれているという。

当初のものだろうか。


ドームには全く装飾がない。

上部の尖頭アーチ型の石膏の窓ドームから壁面への移行部が目立たないのは、外側が八角形でも、内部を十六角形にしているからだろう。

ここにも美しいステンドグラスがある。そのいずれもが二つの円形ガラスが6段ほど並んで、その隙間を明るい彩色ガラスで構成された細かな植物文様で埋められている。

そして中央の下方に一本の糸杉が必ずある。糸杉は真っ直ぐに成長することから、イスラームでは聖なる木とされていて、(NHKの『工芸の森トプカプ宮殿 植物に秘められた物語』より)トプカプ宮殿には沢山植えられていたし、タイルのモティーフにもされていたが、ステンドグラスでは初めて見たように思う。


スレイマニエ廟の濃厚な色彩に比べて心の静まる霊廟だが、不思議なことにメッカの方向を示すミフラーブが窓の間に八つあるのだった。
透彫のある木枠にはヒュッレムの棺だけ。

その隣の小さな棺はヒュッレムの息子でスレイマン大帝の跡を継いだセリム二世の息子メフメト皇子、その隣にはスレイマン大帝の妹ハティジエの娘

スレイマニエモスクよりもスレイマン一世の方がタイルを沢山使い、スレイマニエ廟よりもヒュッレム廟の方が多く使っているが、建立年代からいうと、モスクは1550-57年、ヒュッレムは1558年に亡くなったので先に廟が築かれ、1566年にスレイマンが亡くなって廟が建てられた。タイルの使用量は建立年とは関係はない。

せっかくなので、盛期のイズニック・タイルを。

二段のコーランの章句

コーランの章句とリュネットの組み合わせ
リュネットにはハターイ(花の縦断面図、『ルステム・パシャ・モスクとイズニック・タイル』より)

ミフラーブには木に咲く五弁花やチューリップ


その拡大 アナトリアやその周辺樹木で五弁花と言えばアーモンドが一番に浮かぶ。曲がりくねった幹の下にはチューリップやカーネーションの花があしらわれる。枠の文様帯には六弁花の花と葉が、蔓になることなく続く。


下には一面の花や葉の文様

百年ほどで枯渇したという鮮やかな赤い釉薬。盛り上げないと発色しなかったとか。

タイルについては後日


ヒュッレム廟を出ると、スレイマン廟の奥にモスクが聳えていた。モスクの中心線にはミフラーブがあるが、平面図でも分かる通りその線上にスレイマン廟が造られている。スルタンの墓廟といえども、そんな位置にあるのはスレイマン廟だけだと『トルコ・イスラム建築』か『トルコ・イスラム建築紀行』に書かれている。

柱廊の巡る唯一の墓廟でもある。




関連記事

参考文献
トンボの本「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同朋舎出版 1994年 同朋舎出版
「ルステム・パシャ・モスクとイズニック・タイル」
「Sinan The Architect and His Works」 Reha Günay
「Architect Sinan His Life, Works and Patrons」 Prof. Dr. Selçuk Mülayim 2022年 AKŞIT KÜLTÜR TURIZM SANAT AJANS TIC. LTD. ŞTI