お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年7月30日火曜日

トルコイスラム美術館はイブラヒムパシャの旧邸宅 1


スルタンアフメトジャーミイ(ブルーモスク)のアトメイダヌ広場を挟んで向かい側に大きな建物がある。現在はトルコイスラム美術館となっているが、スレイマン大帝の若い頃に大宰相となったイブラヒムパシャ Ibrahim Paşa の邸宅だった。
ただし、ドラマ「オスマン帝国外伝」のスレイマン大帝の妹ハティジェと結婚して住んだ邸宅とは全く違う。それよりも、実際にはイブラヒムパシャがハティジェと結婚したのは史実ではないらしい。

イブラヒムパシャの邸宅はアトメイダヌ広場で行われた行事という記事にまとめていて、広場の向こうからイブラヒムパシャの邸宅から皇帝が見物している場面が、オベリスク越しに描かれている。
アトメイダヌ広場には、3本の柱が立っている。広場はローマから東ローマ帝国にかけてヒポドローム(戦車競技場、ベンハーでやっていたような)として造られ、オスマン朝ではパレードの会場として使われ、現在では旧市街に集中する観光名所への通り道となっている。
イスタンブール アトメイダヌ広場 Google Earth より

イスタンブールに滞在中何度もこの広場を通ったので、何枚か写真があるはずと探したがこんなものしかなかった。全体が写っていないが、大きな邸宅である。
オスマン帝国外伝という130話以上もある長いドラマでも、イブラヒムパシャと妻でスレイマン大帝の妹のハティジェ Hatice と共に暮らした屋敷としてその邸宅は時々出てきたが、実際の建物とは全然違っていた。

入口でミュージアムパスで受付を済ませて進んでいくと、階段が待ち受けていた。


上り詰めたところにライオン像が一体。
アナトリア・セルジューク朝時代(トルコではルーム・セルジューク朝をこう呼ぶ) 13世紀 コンヤ
説明パネルは、アナトリア セルジューク朝時代の最も重要な宮殿建築物の一つであるコンヤのアラエッディン・キオスクの入口に元々あった二体のライオンの彫刻の一つという。


左の階段を上ると中庭が広がっていた。
正面の大きな建物から時計回りに眺める。Google Earth ではグレーの建物。

西角
プールではなく、下階に太陽光を通すためのガラス面。雨降りなので多少の水は溜まっている。


北角
大きな尖頭アーチの柱廊が続く。現在はガラス張り。左下は泉水場、庭園の植物に水をやるための水でも汲んだのかな。
雨なのでガラス面を確かめに行く気も失せてどこから入るか見回している。

結局、上がってきた階段側が入口だった。



建物に入るとさらに階段が待っていた。

こちらが進行方向だが、階段から反対側の窓際へ。


モスクの霊廟や外側にはこのような形式の石棺をみかけたが、これは木製・・・ではなかった。

棺 マムルーク朝時代、1487年 大理石 1907年、アレッポ周辺のアンザリエ神殿より将来
ISLAMIC ART』は、碑文から石棺はアレッポ知事オズデミルとその妻のもの。洋式化された植物文様とスルス体で書かれた碑文が特徴という。
大理石の板を組み合わせてつくられている。


その左壁 

ラッカとサマッラー アッバース朝期 754-1258 
ISLAMIC ART』は、サマッラーはアッバース朝の都市の中で重要な位置を占めている。サマッラーはバグダッドの近く、チグリス川のほとりに造られた。この都市では、バグダッドの円形で規則的なプランは放棄され、地形に合わせた縦長のプランが採用された。
発掘調査により、蛇行するチグリス川と平行に広がっていた都市の大部分が明らかになった。発見されたものは、アッバース朝のモスク、宮殿、墓、住宅建築で、その豊かな装飾芸術が判明した。
サマーラは、836年にアル・ムタシムによってアッバース朝の指揮下にあるトルコ軍の「軍事都市」として建設され、883年に放棄されたという。
サマッラーの地図、外側に螺旋階段のあるマルウィーヤ・ミナレット Malwiya Minaret と同地の大モスクの写真などが大きなパネルで紹介されている。

オプス・セクティレのモザイク片とその部品 アッバース朝、9世紀 大理石

モザイク用に成形された大理石片と、タイルとしか思えない大きな出土品だが、9世紀にこのような施釉タイルがあったとは思えない。


大理石の柱頭彫刻
ISLAMIC ART』は、植物のモチーフで装飾されたアッバース朝時代のこの柱頭の上部には、ヘブライ語で「彼らは聖三位一体の名においてこれらの柱を建てた」という碑文がある。
これは、イスラム以前の文化と初期のイスラム美術との関係の別の側面を思わせる。つまり、部分的に古代メソポタミア、ヘレニズム、ローマの文化に属するものが、ウマイヤ朝とアッバース朝の時代に世俗建築と宗教建築の両方で再びつくられ、再利用されたということだという。


展示室は小さく、通路に出ずに次の部屋に行ったりしたので、何番目の部屋かわからなくなった。

大理石の浮彫 9世紀 8X36㎝
同書は、サマラの宮殿で使用されていた窓の周囲にあった白い大理石の断片という。

木製の浮彫にも似たようなものがあった。

木製の柱頭彫刻 つくりかけかも


二彩の盤または皿



フレスコ画の断片 8世紀
同書は、バグダッド近郊のサマラにあるジャウサク・アル・ハカニ宮殿で1912年に発掘された際に発見され、博物館に持ち込まれた初期イスラム時代の珍しい作品という。
連珠文と小鳥がわかるくらい。

中でも人物の顔が表されているのには驚いた。


制作途中の壁画?


その部分
隙間からのぞき込むような人の顔


ラッカの出土品 アッバース朝期
ISLAMIC ART』は、アッバース朝時代のもう一つの重要な都市はラッカだった。アレッポの東、ユーフラテス川のほとりに位置するラッカは、近東で最も古い中心地の一つである。アレクサンダー大王によって建設されたこの都市は、最初はカリニクム、その後レアンタポリスと呼ばれた。
639年にアラブ人に征服された後、東に沼地があったことから、沼地、泥を意味するラッカに名前が変更された。796年にハール・ウン・アル・ラシードが首都をラッカに移した後、この都市は急速に発展した。バグダッドがその発展の例となったこの都市には、モスク、宮殿、塔、高い泥の城壁などの重要な建築物があった。1321年に破壊されたこの都市は、二度と回復することはなかったという。

灰白色の施釉陶器類


ラスター彩を思わせるものも。



ダマスカス文書の部屋
『ISLAMIC ART』は、マスカス文書は、イスラム初期の数世紀に書かれたコーラン・アル・カリームの最初の写本として認められたコーラン文書を保存した数千ページからなるコレクション。また、イスラムの書物芸術の最初の例である巻物も保存されている。
ダマスカスのウマイヤモスクから持ち込まれたためダマスカス文書と名付けられたこのコレクションは、10世紀(8世紀末-19世紀)にわたって収集された。イスラム初期の数世紀に羊皮紙(革製)に書かれたコーランのページの記録は、イスラム教におけるワクフ(創立)の伝統について知ることを可能にし、記録に記されているイスラム時代の最も古い年である876年まで遡ることができるという。

あるコーランの表紙。



左手に曲がると長い通路。両側には絨毯が立てて展示され、窓のない片側に展示室が続いている。


祈祷用敷物 19世紀 羊毛 93X130㎝ 南西アナトリアのアイドゥン産



アルトゥク朝時代 THE ARTUQID PERIOD 1108-1409 の展示室 
同書は、アルトゥク朝は、ハサンケイフ、ディヤルバクル、マルディン、メイヤファリキン、ハルプトを支配したトルコ人の王朝。偉大なセルジューク朝のスルタン、アルパルスランの下で仕えた指揮官、アルトゥク・ベイにちなんで名付けられた。アルトゥク朝の国家組織、制度、統治方法は、セルジューク朝のものと似ていた。
国家はアナトリアのトルコ化とイスラム化に多大な貢献をした。トルコ人以外に、アルトゥク朝の支配下にあった地域には、アラブ人、シリア人、ギリシャ人、アルメニア人、そして小さなユダヤ人コミュニティがいた。それぞれの民族は独自の言語を話した。アルトゥク朝は中央アジアとイスラムの建築を組み合わせ、貴重な建物を造った。アルトゥク朝の経済発展と並行して、統治者、政治家、宮廷関係者、慈善家らは、必要に応じてモスク、メドレセ、炊き出し場、修道僧の宿、墓、病院、浴場、市場、宿屋、橋、キャラバンサライ、城壁などを国土に建設し、この地域の文明の発展に貢献したという。

青銅製大鍋 13世紀初期 65X49㎝

器体胴部に模様がある。渦巻く蔓草の文様を描いてたのが、工人の代を重ねるうちに何を描いているのかわからなくなったのか図式的になってしまっている。そして柱頭のようなものは人の顔。顔の下の蛇のように曲がりくねった体は何だとみていたら、手足ではなく、少しずつ異なっている。これはアラビア文字なのだった。


ジズレのウルジャーミイの扉口 13世紀初頭 300X224㎝ 北側ファサードのちょうど中央にある入口
説明パネルは、ジズレ、または古い文献では「ジェズィレ・イブン・オメル」と呼ばれているこの町は、水路の変化によって形成された島にある古い集落で、アナトリア南東部、チグリス川の西にある。
カティプ・チェレビの著書『ジハンヌマ』によると、アラビア語で島を意味するジェズィレという名前は、川の洪水で町が取り囲まれたときに橋で交通手段が提供されたため、ウマイヤ朝のカリフ、オメル・ビン・アブドゥル・アジズによって付けられたという。ジズレの最盛期は10世紀だった。チグリス川の河川貿易のおかげで町は繁栄し、ウマイヤ朝とその後のザンギー朝にとって重要な中心地となった。
1969年にこのモスクの二つの内の一つのドアノブ剥がされて盗まれたことで有名な建物であるという。

扉はブロンズのよう。12点星を中心にして四方八方へと広がっていく幾何学文様に金属の組紐文が鋲で取り付けられている。その間のロセッタなどの幾何学形のものには細かな植物文様が施されていて、やはり鋲で留められている。
左扉には把手があるが、右扉にはない。こちらが盗まれた方だ。

説明パネルは、ジズレのグランドモスクは、アナトリア南東部のチグリス川のほとりに位置し、中世の最も重要な科学と文化の中心地の一つだった。最盛期はウマイヤ朝とザンギー朝の時代で、都市建築とウルジャーミイの扉と扉の取っ手は、12 -13世紀のアナトリア美術の最も重要な例という。
この時代、すでにイスラームの世界で造形に動物を用いることをしていたのだ。真ん中の動物はライオンだろうか。その左右に向かい合いながら互いに背後を向いているのは龍だろうか。肢は2本のようだが。肢の付け根にくるりと回ったものは何? その外側には小さな羽根があって、大きく開いた口に入っている。
それだけではない。ぐるりとひねった長い尾は下の方で先が交差し、そこから別の生き物の頭部が出現したりして、なんかケルトっぽさも感じるが・・・


アイユーブ朝時代 EYYÛBİLER 1071-1250 の展示室

木の柱 13世紀 ダマスカス
どこの都市のどんな建物に使われていたかは不明

これはおそらくアラビア文字でコーランの言葉を浮彫したものだろう。その中に蔓草が入り込んだりしている。


陶器類

左端の陶器類
左前はラスター彩の鉢 12-13世紀
右奥は壺 13世紀
右前は蓋なしの容器 13世紀

ラスター彩の壺

ラスター彩の水差し


カップ類


カップ 陶器
六つ輪っかで構成する七宝繋文を曲面に丁寧に描いている。


カップ エナメル彩ガラス 12-13世紀
右には人物が描かれているが、左は全くわからない。

果物入れ 13世紀 ラスター彩
ゴルガーン出土の混合用容器(12-13世紀)に似ている。




大セルジューク朝時代 Great Seljuk Empire Period 1038-1157 の展示室
ISLAMIC ART』は、大セルジューク朝は、ガズナ朝が大敗した後、トゥグルル・ベイがスルタンに即位した際に建国されたテュルク系国家で、最盛期にはホラズム、ホラーサーン、イラン、イラク、シリア、アラビア半島、東アナトリアを支配していた。領土は東はバルハシ湖とイシク湖の農業盆地から西はエーゲ海と地中海沿岸、北はアラル湖、カスピ海、コーカサス、黒海から南はアラビア半島を含むアラビア海まで広がっていたという。

セルジューク朝時代の作品は、かつて訪れたイランで見てきたような陶器が並んでいて、懐かしく鑑賞した。

鳥の絵の鉢 セルジューク朝 11-12世紀
このような絵の鉢または大皿についてはこちら

ラスター彩の器やタイル


鉢 12-13世紀 ラスター彩
セルジューク朝は支配層がテュルク系なので、日本人と同じ平らな顔族。
イランの現地ガイド、深目高鼻のレザーさんは、セルジューク朝の陶器を見て、この頃はテュルク系なので顔が丸かったと言っていた。そして、トルコの現地ガイドギュンドアンさんは、セルジュークトルコがアナトリアにやってきた時はまだ顔は日本人のように平たかったのですが、その後混血が進んで今のような顔になりましたと言っていた。

瓶子 12-13世紀 ラスター彩
ラフな組紐文の間に、肩部は人物、胴部は四点星(手裏剣のよう)、その下には鳥のようなものが描かれている。

八点星形タイル 12-13世紀 ラスター彩
二人の女性が野原で寛いでいる。周囲の青いものはアラビア文字っぽく描いたもの。


鉢類 12-13世紀

ラスター彩騎馬人物文鉢 
騎馬人物が反時計回りに4人、その間には石畳文に描いた1本の木。見込みにも騎馬人物が描かれているらしいのだが、光が反射してよく分からない。

ミナイ手(ハフト・ランギ)人物文鉢
ハフト・ランギについて『砂漠に燃えたつ色彩展図録』は、ペルシア語で七色を意味し、となりあう色と色が交じり合わないように、まず境を溶剤で線描し、線に囲まれた面に色を発する釉薬を挿して焼き上げる方式であるという。
見込みに玉座に坐った王または貴族とお供、その上下に向かい合うが頭部はそっぽを向ける鳥たち。その上には逆さまのやはり向かい合う人面鳥
この向かい合うが頭部はそっぽを向くというモティーフは、かなり古くからある。
それについて詳しくはこちら

八人の楽士たちに囲まれて低い椅子に坐る人物



マムルーク朝時代 MAMLUKS PERIOD 1250-1517 地図なし
『ISLAMIC ART』は、マムルーク朝は、エジプトでトルコの元奴隷兵士によって形成された軍事貴族国家。オスマン帝国がマムルーク軍を破ったことで、267年続いたマムルーク朝は終焉を迎えた。
マムルーク朝は偉大な文明を築き上げた。彼らは多くの点でオスマン帝国より先を行き、リードした。
巨大なコーラン、ガラスと真鍮の吊りランプ、彫刻が施された木工品、コーランの一部を入れる箱、家庭用品は、マムルーク朝の芸術において重要な位置を占めているという。
館内で最初に見た一対の大理石の棺がこの時代のものだった。

水差し 15世紀 
注ぎ口が鳥の頭部になっている。おそらく水を入れるために、頭頂部にはおおきな口があるのだろう。

施釉陶器の見込み 14世紀
紋章をモティーフにしているという。


モスクランプ 14世紀 47X35㎝ エナメル彩ガラス
胴部に幾つか緑色の把手(耳)がついている。『ISLAMIC ART』の図版には、3本の鎖の吊り具がかけてある。

吊り鎖のついたモスクランプと蓋 エナメル彩ガラス


胴部と蓋
ボディが透明なガラスだったことがわからないくらいまめに装飾されている。蓋にも3箇所鎖が取り付けられている。モスクランプは、蓋をして使用するものなのか。

モスクランプ
頸部の透明な緑ガラスは、胴部では濁った抹茶色に見える。これもエナメル彩ガラスなのかな。


蝋燭立て 15世紀
モスクの礼拝室でメッカの方向を示すミフラーブの両側には巨大な蝋燭またはそれに似せた照明がある。この蝋燭立てはきっとどこかのモスクにあったものだろう。
円の外側には突き出たり、途切れた線がある。小さな渦巻きの間に丸い穴をあけてそれが曲線を描いている。同心円の中にはそれぞれ植物文様が刻まれている。


ティムール朝時代 Timurid Period  1370-1507 の展示室
ISLAMIC ART』は、ティムールはホラズム、東トルキスタン、イラン、アゼルバイジャン、インドのデリー・スルタン国、イラク、シリア、黄金の群れ、オスマン帝国を含む広大な帝国を獲得した。彼の征服はトルコの歴史に深い影響を与えた。そして最終的に、1402年のアンカラの戦いでオスマン帝国を破り、オスマン帝国の空位時代を引き起こした。
1402年のアンカラの戦いでティムールがユルドゥルム・ベヤズットを破り、その後アナトリアを征服したことは、オスマン帝国の歴史において忘れられない出来事である。
ティムール朝時代の最も重要な作品は、間違いなく本だった。製本技術を非常に重視したティムール朝のスルタンは、個人の図書館に本を発注したという。

写本カバー
 『トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録』は、植物文様や幾何文様などの精緻な文様モチーフだけで構成されるテズヒープ(イルミネーション)と呼ばれる文様絵画。写本の見開きページや巻頭・巻末あるいはページの外枠を装飾するテズヒープ は『コーラン』を飾る絵画としてイスラーム世界では高く評価されている。また このテズヒープはイスラーム美術を特色づける建築や諸工芸品を飾る多彩な文様モチーフの原型として、イスラーム美術の中で重要な位置を占めている。テズヒープを得意とする画家は特にミュゼッヒプ(文様絵師)と呼ばれたが、彼等が宮廷の工房長に就任することも珍しくなく、オスマン帝国絵画においてテズヒープがいかに重要視されていたかが窺えるという。

菱形のような枠を縦横に配し、同じ植物文様で埋めている。その色や地の色によって表情に富んでいる。



写本カバー
トプカプ宮殿の宝物庫裏の柱廊に描かれていたシームルグとは異なる鳳凰が一対で空を舞う姿が描かれている。


コーラン写本カバー 
樹木の下でくつろぐ鹿という穏やかな場面を描かれている。

コーラン写本 
『トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録』は、イスラームの写本装飾は書家、文様絵師、画家の他に料紙に金の砂子ちらしを施す職人、ハルキャーリと呼ばれる金泥の下絵を料紙に描く画家、ページに区画をひく職人、そして表紙を製作する職人など多くの人々の手をへて完成する一つの総合芸術である。
写本の表紙はイスラームの世界においては、ティームール帝国(1370-1507)時代に著しい発展をみた。皮に細かな透し彫りを施したもの、皮に金箔を押したものなど、その精巧な技法には目をうばうものが多い。オスマン帝国のスルタンは、これらティームール帝国の秀作の多くを所有していた。オスマン帝国の表紙装飾はティームール帝国の表紙を手本とし、技法的には皮を透し彫りしたり、浮き出し文をつけたり、金箔を押したものが多い。その文様としてはここでも各時代の細かなテズヒープが使用された。素材として金や宝石類が使われたり、また刺繍が施されたり、漆絵が用いられたりしたこともあった。熟達した技術と芸術的感覚を要求された表紙職人は、工房でも高い位置を占めていたが、16世紀のメフメット・チェレビとその一族はなかでも高名であったという。



サファヴィー朝イラン時代 Safavid Period 1501-1760 の展示室
ISLAMIC ARTは、サファヴィー朝を建国したシャー・イスマイールの祖父は、サフィ・アル=ディン・イシャクという名のアゼルバイジャン人。彼はトルコ語のみを使用した。オスマン帝国の統治者はペルシア語で詩を書いたが、シャー・イスマイールはトルコ語で詩を書き、トルコ語を非常に重視した。
オスマン帝国との絶え間ない戦争のため、シャー・タフマースブ一世は1548年にタブリーズからカズヴィーンに宮廷を移した。その後、シャー・アッバース一世(アッバース大王)は、その都市を放棄し、イラン中央部の旧市街エスファハーンのすぐそばに新しいエスファハーンを建設した。この移転により、国はよりペルシャ的な性格を帯び始めた。最終的に、サファヴィー朝はイランの国家を建国することに成功した。
この時期には、陶芸や織物などの手工芸が発達し、ミニチュア、製本、装飾、書道の芸術が大きく進歩した。16世紀には、絨毯織りは遊牧民や農民の芸術から、生産と生産に基づく機能的な産業へと変化した。タブリーズはこの産業の中心地で、アルダビールの絨毯は王朝専用だったという。


コーラン写本
『トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録』は、1514年イランに遠征しサファヴィー朝支配下にあった タブリーズを征服したセリム一世(1512-20)は多くの絵画をイスタンブルに持ち帰った。現在なおトプカプ宮殿博物館に画帳として保存されているこれらの作品の中には、中央アジア、中国など東方絵画の影響を強く残した作品も多く、当時のイランとトルコとの絵画に対する趣向を知る上で貴重であるという。
それなのに写したのはこの1冊だけ・・・

ミルクプディングの容器 17世紀初期 真鍮 24X43㎝


サファヴィー朝イランの作品はあまり写していなかった。


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ラスター・ステイン装飾ガラス


参考文献
「ISLAMIC ART THE MUSEUM OF TURKISH AND ISLAMIC ARTS」 ANATOLIAN CULTURAL ENTREPRENEURSHIP 2019


「トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録」 編集:東京国立博物館・中近東文化センター・朝日新聞社 1988年 中近東文化センター・朝日新聞社