お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年8月6日火曜日

トルコイスラム美術館はイブラヒムパシャの旧邸宅2


そして西端には聖遺物が展示されていた。

大きな建物の内部を描いている。

同じ建物の続きだろうか。説明パネルを写していなかったのでよく分からない。


刺繍の縦長のもの。棺のカバーかも。

これらの作品の通路を挟んで反対側に展示されているのがこれ。カバーにこの作品が反射して見にくかった。
刺繍でカリグラフィーが表された長~い布。


続いて入ったのは広い建物で、天井が高く広々としていた。

最初はアナトリアの君侯国と初期オスマン朝時代 Principalities and Early Ottoman Empire  11世紀末-14世紀前半
『ISLAMIC ART』は、オスマン帝国はブルサ征服後ルメリに渡り、エディルネを占領してバルカン半島への扉を開き、イスタンブールを征服して世界帝国となった。この成功の鍵は、いくつかの首長国を除いてアナトリアの統一を確保し、ビザンチンを排除したことであった。16世紀初頭から拡大政策を追求したオスマン帝国は、広大な地理とさまざまな宗教や人種の国々を支配する帝国へと変貌したという。

壁には絨毯類が掛かっているが、一番に目に付いたのは、

中央のガラスケース。

ケース上部には、あまり発色の良くない染付の容器類が上に展示されていた。
この展示コーナーこそイズニク陶器の初期のものだった。詳しくは後日忘れへんうちににて。


中央アジアではモスクやメドレセ、墓廟のファサードにそびえるイーワーンに見られたアラビア文字と一重蔓の組み合わせの彩釉タイルの断片が展示されていた。

タイル 16世紀
トマトの赤と呼ばれている釉下彩が盛り上がっている。
トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録』は、1555年に建設されたスュレイマニイェ・モスクのミフラーブ(メッカの方向を示す壁龕)の縁飾りや壁面タイルに初めて用いられた盛り上がった赤色は、年代決定の手がかりとなりうるという。

タイルの碑文断片 15世紀

断片の碑文断片 15世紀
釉薬というよりも透明ガラスが分厚くかかっているように見える。

施釉タイル 15世紀




アナトリアセルジューク朝 1177-1318 の展示室 地図なし
同書は、1071年のマンジケルトの戦いの後、トルコ人のアナトリアへの定住は加速した。セルジューク朝の司令官クタルム=スレイマン・シャーは1075年にビザンチン帝国からイズニクを奪い、この都市を首都とし、独立を宣言した。こうして建国されたアナトリアのセルジューク朝は、イルハン朝が最後のアナトリアのセルジューク朝のスルタンを廃位した1318年まで存続した。
クルジ・アルスラーン一世は、十字軍との戦いの後、イズニクを放棄して中央アナトリアに撤退し、コンヤを首都とした。ギヤセッディン・ケイフスレフ二世率いるセルジューク軍がキョセ・ダーの戦いでモンゴル軍に敗れたため、毎年貢物を納めることになった。モンゴルからの圧力が強まる中、アナトリアのセルジューク朝は反乱を何度も起こしたが、失敗に終わった。実際、反乱の一つで、彼らはマムルーク朝のスルタン、バイバルスに助けを求めた。バイバルスは軍を率いてアナトリアに進軍し、1277 年にエルビスタン平原でモンゴル軍を破った。しかし、バイバルスが帰国した後、モンゴル軍は多くの人々を虐殺した。その後、アナトリアはモンゴルの完全な支配下に入った。彼らは自らが任命した知事を通じてアナトリアを支配した。アナトリアのセルジューク朝は、最後のスルタン、マスード二世が 1308年に死去した後消滅したという。


モスクでの礼拝用絨毯 一人分の区画がある。
上:15世紀後半 コンヤ
中:17世紀初期 コンヤ
下:16世紀後半-17世紀初期 ウシャク


タイル碑文断片 13世紀 コンヤ
説明パネルは、私たちからすべての悲しみを取り去ったアッラーに栄光あれ。私たちの主は、本当に寛容で、感謝の気持ちを抱く方であるという。
13世紀にこのようなタイルが制作されていたとは。

不明 染織
円ではなく八角形が並んでいるところがイスラームっぽい。

絨毯 コンヤ 13世紀


絨毯 コンヤ 13世紀



左:戦士の浮彫 13世紀 コンヤ 91X89㎝
右:グリフィンの浮彫 12-13世紀 100X86㎝
腕の付け根から大きな翼が出ている。

グリフィンの浮彫 13世紀
上:肩衲衣にパルメットを包んだ布のような翼がある。その端は二つに分かれている。
下:右肩から出た翼は半パルメット文となって長い胴部に伸びている。右後ろ肢にも半パルメット。


土器類

甕 12-13世紀 ディヤルバクル  
植物文の間から人の顔がのぞいたり、樹木の間に立っていたりと不思議なもの。

甕 12-13世紀
植物文様の間に人の顔が表されている。火鉢のようなものかと想像する。

奥は水差しと容器の断片 
左下:甕の断片 12-13世紀
上段に人の顔が並んでいる。

浮彫の装飾がある水差し

その一つには首のところにフィルターがある。このようなフィルターは、MIHO MUSEUM で2003年に開催された「エジプトのイスラーム文様」という特別展でたくさん見た。
『エジプトのイスラーム文様』は、飲料水用の小壺はクッラまたはクーズと呼ばれる。これらは、素焼きの土器が一般的で、精巧なものほど器壁が薄く仕上げられている。これに水を注ぐと、水分が素焼きの器壁に浸透して器壁外面に滲み出す。この滲み出した水が高温度の外気に触れて蒸発する時、器壁外面から気化熱を奪い、内部の水を冷却するのである。この効果を高めるため、クッラはマシュラビーヤと呼ばれる組木格子細工の出窓など風通しの良い場所に置かれた。
エジプトでは、この小壺にフィルターが付けられる場合が多かった。フィルターの機能に関しては、水を飲む時、口縁部に口をあてて小壺を傾けると、フィルター面がちょうど目の前にくることから、純粋に装飾のためとする説、壺の中にゴミが入らないように濾過器の役割を果たしたとする説、水を飲む時、水が一気に流れ出さないように、水量調節の役割を果たしたとする説があるという。
フィルターについてはずっと以前に記事にしていたと思っていたがまだだったので、いつの日にかまとめてみたい。


オスマン朝時代 1299-1924 の展示コーナー
オスマン帝国について『ISLAMIC ART』は、オスマン帝国はブルサ征服後ルメリに渡り、エディルネを占領してバルカン半島への扉を開き、イスタンブールを征服して世界帝国となった。この成功の鍵は、いくつかの首長国を除いてアナトリアの統一を確保し、ビザンチンを排除したことであった。16世紀初頭から拡大政策を追求したオスマン帝国は、広大な地理とさまざまな宗教や人種の国々を支配する帝国へと変貌した。
1402年のアンカラの戦いでティムールがユルドゥルムバヤズィトを破り、バヤズィトの4人の息子に国を分割するという政策をとったことで、オスマン帝国は 11 年間の混乱に陥った。この兄弟間の王位争いは、フェトレト時代(空位期間、1402-13)として知られている。
1453 年5月 29 日の征服者スルタンメフメト(メフメト二世)によるイスタンブールの征服から始まり、スレイマン大帝(1453-1579)の晩年に終わる古典時代は、拡張期と呼ばれている。古典期の様式は16世紀から18世紀までを代表する。この時代は、多くの芸術分野、特に建築において様式の統一が達成された時代だった。
宮廷を皮切りに、建築、装飾、書道、細密画、陶器、織物、絨毯織り、金属細工、照明、ガラス、木工など、さまざまな芸術分野で共通の作品が生まれた。重要な建築作品は、特にイスタンブールなど、国の重要な中心地で制作されたという。


写本
『トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録』は、オスマン帝国においても、他のイスラーム世界と同様に、写本の装飾は美術の粋を集めて行われた。書、それを飾るテズヒープと呼ばれる文様絵画(イルミネーション)、挿絵のミニアチュール、そして表紙が美しい調和をもって完成された写本は芸術作品として高く評価されたという。

「歴史の真髄」 1583年 61.7X41.3㎝
『ISLAMIC ART』は、スルタン・ムラト三世に献上するために準備された写本の18bページ。禁断の果実を食べたために楽園から追放されたアダムとイブが、16世紀のオスマン帝国の衣装を着て、26人の双子の子供たちと一緒にいる様子が描かれているという。
右上が旧約聖書のイサクの犠牲というのが分かるくらい。当時は多神教の世界だった中東の商人だったムハンマドは、ユダヤ教徒やキリスト教徒たちの影響を受け、神の啓示がってイスラームを創始したとされている。最初はユダヤ教の一派だと思っていたのだとか。それで旧約聖書の預言者はイスラームの預言者でもあり、キリストもマリアも預言者で、最後の預言者がムハンマドとされている。


オスマン朝時代には様々なカリグラフィーが展開した。

コーラン第6章 1540-50年 
『トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録』は、イスラーム世界において、書は神(アッラー)の言葉を記すものとして高く評価され、その初期から書家達はより美しい書体の完成にしのぎをけずった。葦のペンを用いて煤から作られる黒によって書かれるイスラームの書道では、垂直線・水平線を基調としたクーフィック体、曲線と線の抑揚を巧みに取り入 れたナスヒー体、流れるようなスルス体などを基礎として極めて多くの書体が考案されたという。


スレイマン大帝の勅令 花押(トゥーラ tuğra) 1520-66年
『トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録』は、トゥーラは、オスマン帝国のスルタンの花押として独特の文字と構成をもって書かれた。父帝の名前、スルタン自身の名前や尊称などを組み込ませ複雑にからみ合わせた文字からなるこの花押は、スルタンが即位すると定められ、文書や貨幣などに付けられた。初期のトゥーラは文字だけであったが、バヤジット二世の時からテズヒープ(文様絵画、イルミネーション)が加えられて、より絵画的な様相を呈するにいたり、また大きく書かれるようになった。スルタンの勅令書(フェルマーン)は上部に金や紺を基調に色とりどりのテズヒープで飾られたトゥーラが書かれ、その下にディーヴァーニーといわれる公用書体で流麗に本文が記されているが、それは文書としてだけでなく充分鑑賞に値する美術作品でもあるという。
どうやらスレイマン大帝自身がサインしたものではなく、能書家や絵師などが作成したもののよう。

花押も流麗だが、それを取り巻く繊細な文様が素晴らしい。


中央:コーラン収納箱 1505-06 82X56㎝
右:書見台

左:コーラン収納箱 16世紀後半-17世紀前半
同書は、アヤソフィアからトルコ・イスラム美術博物館にもたらされたこのコーラン収納箱は全体が象牙、真珠の母貝、黒檀、金属線象嵌で装飾されていたという。
詳しくはこちら

蓋の内側
平たいタイルに描かれていた植物文様が、こんな凹面にも整然と描かれている。


二階の外階段から中庭を眺める。入館したとき小降りだった雨は、見終わると本降りになっていた。

向かいにはオベリスクなどが並んだアトメイダヌ広場の向こうにスルタンアフメトジャーミイ(ブルーモスク)が見えた。


雨なので外に出ずに下階へ。

そこにはキリム織機と、

大きなキリム(平織り絨毯)が並んでいた。






れぞれに趣のある色合いと文様だったが、黄色い照明の加減で良く撮せなかった。


最後に街のコーヒー売り
『ISLAMIC ART』は、エチオピアからイエメンに、その後イエメンからトルコの土地に持ち込まれたコーヒーは、日常生活に取り入れることは容易ではなかった。1517年、イエメンの知事オズデミル・パシャがイスタンブールにコーヒーを持ち込み、短期間で人々に受け入れられた。
そのコーヒーは、ポットで淹れることから「トルココーヒー」と呼ばれるようになった。コーヒーは台所の場所に取って代わった後、邸宅、家屋、コーヒーハウスで提供されるようになったという。
大量に造ったコーヒーを大きな金属製の容器に入れて背負い、そこから小出しにしたコーヒーをカップに入れて売り歩いた。

カフヴェ
同書は、コーヒーハウスは、登場以来、社会関係を形成し、社会の変化を反映する公共の場となった。コーヒーハウスの最初の例は、16世紀初頭にメッカ、カイロ、ダマスカスに現れた。
オスマン帝国の年代記作家イブラヒム・ペチェヴィによれば、コーヒーとコーヒーハウスは、1555年頃にアレッポのハケムとダマスカスのシェムスによってイスタンブールにもたらされたという。




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参考文献
「ISLAMIC ART THE MUSEUM OF TURKISH AND ISLAMIC ARTS」 ANATOLIAN CULTURAL ENTREPRENEURSHIP 2019年
「エジプトのイスラーム文様」 2003年 MIHO MUSEUM
「トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録」 編集:東京国立博物館・中近東文化センター・朝日新聞社 1988年 中近東文化センター・朝日新聞社
魅惑のトルコ陶器 ビザンティン時代からオスマン帝国まで展図録」 2002年 岡山市立オリエント美術館