お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年7月23日火曜日

アヤイレーネ


リュステムパシャジャーミイの後はムスルチャルスを経て、トラムT1でエミノニュ駅からスルタンアフメト駅下車、アヤイレーネへ。間にはギュルハネ駅もあるが、急な坂道の上に意外と距離があるので、スルタンアフメト駅の方が楽。
リュステムパシャジャーミイからアヤイレーネ Google Earth より


リュステムパシャジャーミイから金角湾沿いの大通り Ragıp Gümüşpala Cd. をガラタ橋方面に行くと広場がある。この辺りも商店や食堂が軒を連ねている。

そこから斜め右方向を見ると、リュステムパシャジャーミイのドームとミナレットが重なって見えた。

手前の建物は、リュステムパシャジャーミイのテラスからも見えた
ブユクチュクルハン Büyük Çukur Han という古いハン(隊商宿、現在は商店街)で、壁はレンガと石材を交互に重ねたビザンティン時代からあるアルマシュクだが、オスマン朝にも採り入れられた技法。

左手には金角湾は見えないが、ガラタ塔が突き出ている。

ムスルチャルスは逆L字形 Google Earth より
リュステムパシャジャーミイからエジプシャンバザールへ Google Earth より


奥にはイエニジャーミイ(新しいモスク)という名の大きなモスクが控え、その手前のレンガ造りの低い建物がエジプシャンバザールとかスパイスバザールと言われているムスルチャルス Mısır Çarşısı 。


 正面入口から中に入る。
『望遠郷』は、イェニ・ジャミイの西側と南側の壁面に向かい合う美しいL字形の建物の市場、ムスル・チャルシュス(エジプトのバザール)は、かつてエジプトから納められた貢ぎ物によって設置されたため、この名がある。スパイスのバザールとも呼ばれており、香料や調味料、香辛料、薬草が売られている。 かつて88軒あったスパイス専門店は、現在では十数軒にすぎないが、これらの店の棚には色とりどりの香草やスパイスが並んでいるという。

お店の区画が1アーチ分で、番号と名称が上の表札にあった。昔は商店が雑然と並んでいたように思うのだが。


交差点にこんなものが。


何だろう。説明パネルは、南東(キブラ)にあるこのバルコニーは、アザンの館と呼ばれている。スパイスバザールは 二つの異なるバザールを組み合わせた複合施設。祈りの広場はこれら二つのバザールの長い辺と短い辺が交わる角にある。毎朝、商人たちは一日を始める前にここに集まり、祈りを捧げていたという。

長い辺の短い商店街側の出入口。先ほどの広場に出る。


短い辺の出入口(南)。別の広場に出て、外にも商店街は続いている。
ムスルチャルスという言葉が当てはまるお店が並んでいた。

東側の出入口


外側


一回りして再び正規の入口を入ってすぐ左にあるレストランパンデリ Pandeli へ。入口の向こうがすぐに壁! 

でもすぐ右に階段が。一面紺と青のタイル

窓際は予約席。


窓の外を写したつもりがコップにピントが合ってしまった。金角湾やマルマラ海が見える好立地。窓の外には鉄格子が嵌まっていてスリリング。何でや

さて、一品目はズッキーニの実と花の天ぷら。
イタリア料理にあるように、中にチーズを入れて軽く揚げたものを想像していたら、ボリュームたっぷりのフライだった。チェリージュースと共に。

メインは皇帝のお気に入り Geleneksel kuzu etli Hünkar beğendi 伝統的なラム料理皇帝のお気に入り 野菜とポテトのピュレと共に


これがよく煮込んであって、ほろほろ。脂身の苦手な私の一番のお気に入り。
でもこの二品で満腹!
デザートを聞きに来たので、「お腹いっぱいでこれ以上食べられません」とPOCKETALKで言うと、 大音声が部屋に響き渡り、マダムたちに大笑いされた。 


その後アヤイレーネへ。

『望遠郷』は、トプカプ宮殿の第1庭園をまっすぐ行くと、左手にピザンティン時代の聖イレーネ聖堂、アヤ・イレーネ博物館がある。ここにはビザンティウム時代にすでに聖堂が立っていた。コンスタンティヌス一世がこれを建て直し、ハギア・イレーネ(聖なる平和)に捧げた。聖イレーネ聖堂はこの町の最古の聖堂であり、聖ソフィア大聖堂が建てられるまでは、主教座が置かれていた。その後もこの聖堂は、第2回全教会会議の会場となるなど、重要な役割を果たしていた。現在の建物は、532年のニカの反乱で破壊されたあと、537年にユスティニアヌス一世により再建されたものであるという。
トプカプ宮殿を見学する時に通りがてら撮影。見えるのはいつもこちら側

モスクになったことがないのにドームの頂点には三日月。


トプカプ宮殿側から眺めたアヤイレーネ


説明パネルは、コンスタンティノープル征服後、この教会はモスクにはならず、武器や戦利品を保管する武器庫に改築されたため、内部も外部も物理的な変化はほとんどなかった。アフメト3世(1703--30)の統治時代の1726年に遡る修復碑文には、この教会がダル・ウル・エスリハ武器博物館(武器の家)に改築されたことが記されている。スルタン・マフムード一世(1730-1754)の統治時代の1744年に遡る柱廊に刻まれた二つ目の碑文には、この教会が改修され、再び武器庫として再設置されたことが記されている。19世紀まで、教会は武器庫として機能し続けていたという。
ニカの乱の後、ユスティニアヌス一世がアヤソフィアと共に再建した。アヤソフィアはドームの前後に半ドームを架構してドームの重力を軽減したが、アヤイレーネでは❻内陣の半ドームとの間に帯状の箇所が挟まっているので、4本のピアでドームを支えている。

平面図 『世界美術大全集6 ビザンティン美術』より
➊入口 ➋北側廊 ➌南側廊 ➍名称不明 ➎身廊 ❻内陣 ➐シントロノン ➑ナルテックス ➒中庭 ❿回廊
イスタンブール アギア・イリニ聖堂断面図・平面図 世界美術大全集6ビザンティン美術より


後陣側からドームのある身廊へ。

6世紀にこれだけの窓が開けられた。ずっと後のロマネスクの聖堂では窓を開けることが難しかった。半円アーチを架けることも困難を極めた。一度ローマ帝国の領土となっても、その後西ゴート族の侵入などで、ローマの素晴らしい土木技術は途絶えてしまった。しかし、東ローマ帝国は長く存続したので、オスマン朝に征服された後もその技術は引き継がれたのだった。


目立たないチケット売り場



➊の入口から入ると、➑拝廊の奥に階段が見えたが、



取りあえず➋北側廊に行へ。
➍楕円の間の円柱に続いて複合柱、その向こうに➎の身廊の列柱が。

➍楕円形の天井の部屋だが、修復のためだろうか、薄い布で上部が見えにくい。
その下は左右対称に木製の台がある。

それは拝廊からカーブした階段から上がっていき、

中央の半円アーチから至ることのできる特別な席だった。


柱頭はアヤソフィアの透彫の籠のようなものとはかなり異なっている。


そして➎の身廊も修復中で、❻後陣へと進んでいく。円柱の細いこと。

➎身廊の窓は上二段だけ見えている。


➋側廊はここで行き止まり。


❻内陣
半ドームには十字架だけの金地モザイク。そしてその下には聖職者たちが座る石段状の座席のシントロノン。

この金地モザイクは近年に修復されていた。
アプシスのモザイク イスタンブール、アギア・イリニ聖堂 8世紀中頃 トルコ
『ビザンティン美術への旅』は、アギア・ソフィアに次いで巨大な聖堂。現存する聖堂はユスティニアヌス帝の奉献になるが、740年の地震で大破し、再建された。内部、アプシス(後陣)にはイコノクラスム(聖像破壊運動)時代のモザイクによる巨大な十字架装飾が残っているという。
イコノクラスムで以前にあった素晴らしいモザイク壁画が壊され、十字架だけが表されたのだと思っていたが、地震で崩壊したとは。 


シントロノンという古い様式の聖堂だが、メフメト二世がコンスタンティノープルを征服して真っ先に訪れ、モスクにすると宣言したアギア・ソフィア聖堂の後陣にも、その時まではシントロノンがあったのかも。それがモスクにとって大事なメッカの方向を示すミフラーブを付け足すのに邪魔な石段を取り払ったとか。
シントロノンについてはこちら

半ドームと主ドームの一部


今回は修復中で、正面から見ることができなかった主ドームと半ドームを正面から見た写真(『建築巡礼17 イスタンブール』より)
確かに半ドームの金地モザイクはだいぶ傷んでいた。主ドームにも金地モザイクがあったようだが、何が描かれていたのだろう。
この写真で、アヤソフィアと同じように、側廊の二階は特別席だった。

床には、ニカの乱以前の柱頭を短い円柱の下に置いたり、不思議なマークが浮彫された石板がその下に敷かれたりしてある、しかも複数。


ドームを見上げるが、薄い幕でよく見えない。文字通り紗がかかっているのだった。

これが一番よく写ったものだが、いったい何が描かれているのか?
中心から樹木が放射状に出ている気がする。

南側廊が見上げたドーム


幅の狭いヴォールトには二重丸・・・いや、円の中に開花した花を上から見たロゼット文が描かれているらしい。


別のところには四弁花文や輪っかの中にギリシア十字など。素晴らしい出来とは言い難い。


南回廊に回ってみた。 北身廊の特別席とそれに続く列柱。
楕円形天井も幕がかかっていたて見えなかった。

南側廊の列柱

ドームの見える位置まで進んだが、やはり絵は分からない。でもペンデンティブの一つに何か残っているのが見えた。

これではフレスコ画か金地モザイクかさえ見分けられない。円の中に白い六点星、その中に金色の八点星?


そして❻内陣の十字架の周囲のモザイク
部分的にフレスコ画で補修してある。

ギリシア十字と言えば、どの線の長さも同じで「十」の形をしているのだが、これはラテン十字と呼ばれている形。ギリシア十字というものは、後の時代にできたものかも。
各線は端が広がっていて、それぞれに雫のようなものがついている。下は独楽のような突起があって、三段の凸型の上にバランスしているみたい。


南回廊を戻っていくと、➑拝廊から➍楕円の間の台に向かうカーブした階段の向こうのアーチにモザイクらしきものが見えた。

かなり大きな文様が表されていたようだ。

ただガラスのテッセラにしては形が整っていない。荒い面に描いたような印象を受ける。


➑拝廊で反対側を向くと➒小さな中庭があった。アヤソフィアではなくなってしまった回廊でアトリウムとも呼ばれるもの。
ローマのサンクレメンテ教会にもアトリウムがあったが、ここの方が古い。

回廊は二重。なぜ回廊に行ってみなかったのだろう。


➑拝廊の天井にも不思議な形が描かれているが、再建された当時のものだろうか。


左側はガラス戸で閉じられている。


ということで見学は終わり。修復が終わったらまた来よう。


                 →トルコイスラム美術館はイブラヒムパシャの旧邸宅 1


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参考サイト

参考文献
「建築巡礼17 イスタンブール」 日高健一郎 1990年 丸善
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「ビザンティン美術への旅」 赤松章 益田朋幸 1995年 平凡社