お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年9月24日火曜日

トラムT1線 ベヤジット駅からスルタンアフメット駅界隈


今回は、数日のイスタンブール滞在中に通った時の写真をまとめたものです。
トラムT1線をベヤズィト駅からイエニチェリレル通り Yeniçeriler Cd. を
スルタンアフメット駅方面へ。
イスタンブール征服協会-ヤヒヤケマル博物館 ➋ゲディクパシャハマム ➌チョルリュリュアリパシャモスク ➍スィナンパシャの墓廟とメドレセ ➎ガズィアティクアリパシャジャーミイ ❻チェンベルリタシュの柱 ➐ヌールオスマニィエジャーミイ ➑キョプリュリュメフメトパシャジャーミイ ➒チェンベルリタシュ・ハマム ❿アブデュルハミド2世の墓廟 ⑪アフメットテヴフィクパシャの墓廟



交差点の南側は➊イスタンブール征服協会-ヤヒヤケマル博物館 İstanbul Fetih Cemiyeti - Yahya Kemal Müzesi

 この道を南下して二つ目の交差点を左へ。


南側にイスタンブール最古の公衆浴場と言われている➋ゲディクパシャハマム Tarihi Gedikpaşa Hamamı
詳しくは後日。


元のベヤズィトに戻り、通りの北側を行く。
南側にはモスクがあったが、現在はレストランのよう。


そんな風に南側を見ながら歩くと、北側に➍スィナンパシャメドレセ Sinan Paşa Medresesi まで来ていた。
こんな風に両側に歴史的建造物があるためにイエニチェリレル通りは幅が狭い。

ビリイジレル小路 Bileyciler Sk. の右手にはスィナンパシャの墓廟とメドレセ、左手には➌チョルリュリュアリパシャモスク Çorlulu Ali Paşa Camii (18世紀初頭)が斜めの道を挟んでいる。  


墓廟とメドレセの囲壁が通りに沿って長々と続いている。そして軽食の屋台がその前に並ぶ。


スィナンパシャメドレセ Sinan Pașa Medresesi よりも先に八角形の墓廟
メドレセでもらったリーフレットは、ムラト三世とメフメト三世の下で大宰相を務めた。スィナンパシャには成功物語がある。アルバニアの貧しい農家に生まれたが、非常に有能で、オスマン帝国でスルタンに次ぐ最も重要な人物になる道が開かれた。イスタンブールの王立大学(エンデルン)で学び、スレイマン大帝の食事監督として仕えた。エジプトの総督となり、イエメンとチュニジアで重要な軍事作戦を指揮した。この時代はオスマン帝国の政権が強力だった時代だった。
キプロス島の征服後、チュニジアもオスマン帝国の領土となった。1572年、スペイン海軍がチュニジアを占領し、スィナンパシャは海軍を率いてこの地を再征服するよう命じられた。彼の指揮の下、伝説の提督クルチアリパシャがこの地を再征服した。スィナンパシャは「チュニジアの征服者」という新しい称号と宰相の地位を与えられた。スィナンパシャは軍事だけでなく、政治や財政面でも成功を収めたという。

しかし墓廟の扉は開いていなかつたので説明パネルを写した。

その奥はメドレセの中庭とシャドルヴァン(清めの泉亭)。メドレセなのに回廊でお茶してるひとたちが。

現在はメドレセではなく、カルチャーセンターみたい。



その先にもモスクがあって、境内への入口が開いていたので、ほかの参拝する人達について行った。

➎ガズィアティクアリパシャジャーミイ Gazi Atik Ali Paşa Camii
説明パネルは、「セデフチレル モスク」とも呼ばれるこのモスクは、1496 年にバヤジット二世の政治家の一人であるアティックアリパシャによって建てられた。
モスクは、五つのドームで覆われ、ソンジェマアトイェリ(遅れて来た人が礼拝する場所)と、同じ軸上に主ドーム一つと半ドーム一つ、メインドームの側面に二つの小ドームで構成されている。
建物はすべて、コフェキと呼ばれる切り石で作られている。プランを少し変更すると、このモスクは古いファティフモスクに似ているかも知れない。
モスクは、ブルサ派と古典様式の移行期にあるため重要であり、火災や地震に何度も見舞われたため、修復が行われたという。
なんと、ミマールスィナンよりも前の時代のモスクだった。

正面入口に回り込む。ミマールスィナンが建てたハドゥムイブラヒムパシャジャーミイハセキヒュレムスルタンジャーミイのように、小規模のモスクなので中庭はなく、

ソンジェマアトイェリ(遅れて来た人が礼拝する場所)に挟まれた礼拝室入口で合計五つの柱間の柱廊。


主ドームは四つのペンデンティブで支えられた単純な構造。
イスタンブールでモスクを見学していて気付くのは、どの礼拝室も近年に塗り直されていること。

その奥に半ドームがあるが、大きな照明でほとんど隠れていて、その下にミフラーブとミンバルがある。


半ドームだが、平たいミフラーブ(キブラ)壁から二隅にムカルナスで曲面にしている。


左右の副室は小ドームがペンデンティブとムカルナスて架構されている。


モスクを出るとすぐにチェンベルリタシュ駅 Çemberlıtaş 界隈。
日の当たっているところは17世紀のハヌ(隊商宿)

広場には❻チェンベルリタシュの柱 Çemberlitaş Sütunu。
330年頃にコンスタンティヌス帝が建てた記念碑。

コンスタンティヌスの柱の背後から振り返ると、先ほどのガズィアティクアリパシャジャーミイのドームとミナレットが顔を出していた。


広場の北側にはバロックの影響を受けた➐ヌールオスマニィエジャーミイ Nuruosmaniye Camii 18世紀


大通りの南側には➑キョプリュリュメフメトパシャジャーミイ Köprülü Mehmet Paşa Camii 17世紀の大宰相が建てたモスク。
大雨の日にこの狭い通りを靴もびしょびしょになりながら歩いて、カドゥルガのソコルルメフメトパシャジャーミイへ行ったことを、今は懐かしく思い出す。


通りの北側には➒チェンベルリタシュ・ハマム
ソコルルメフメトパシャジャーミイへ行く時に振り返って眺めたチェンベルリタシュ・ハマムの前面を切り取られたようなドームだが、Google Map で上空から見ると後ろにはもう一つドームがある。
セリム二世の妻ヌルバヌがミマールスィナンに建てさせたという。現在でも営業している。


チェンベルリタシュ駅とスルタンアフメット駅の間には、❿アブデュルハミド2世(在位1876-1909)の墓廟 Sultan Abdul Hamid Türbe とその時の⑪大宰相アフメットテヴフィクパシャの墓廟 Ahmet Tevfik Paşa Türbe が立派な塀に護られて立っている。

大きい方がスルタンの墓廟で、焼き栗屋か、焼きトウモロコシ屋の屋台がある方が大宰相の墓廟



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参考にしたもの
Sinan Paşa Medresesi でもらったリーフレット