次に向かったのはスレイマン大帝の父ヤウズスルタンセリムジャーミイ。
『トルコ・イスラム建築』は、1512 年に父バヤズィット二世を退位させ、41歳でスルタンになったセリム一世(在位1512-20)は、治世が8年と短かった。ヤウズ(冷酷者)と渾名されたセリム一世は、1514年にヴァン湖の東北にあるチャルドゥランの平原においてサファヴィー朝軍を撃破し、さらに進軍してサファヴィー朝の首都タブリーズを占領し、そこに集まっていた職人、芸術家、学者などをイスタンブル等に強制移住させた。後のイズニキのタイル技術は、このイランから移住した職人たちがもたらし発展させたものである。
1517 年にはエジプトのマムルーク朝を滅ぼしてシリアとエジプトをも版図に入れ、その地域からも、職人、芸術家、学者が、強制または自由意志でイスタンブルに数千人の規模で移住した。このようにして、イスタンブルには学問、芸術、技術を担う人材が集まった。オスマン帝国の領土は二倍になり、オスマン朝スルタンはイスラムの聖地マッカ、マディーナ、エルサレム、ダマスカスの統治者にもなった。しかし、セリム一世の治世の間は征服事業に明け暮れたので、建設事業にエネルギーを費やす間もなかった。
ヤウズ・スルタン・セリム・ジャーミシが建設されたのは、息子のスレイマ ン一世(在位1520-66)の時代になってからの1522年である。第5の丘から金角湾に向かって緩やかに下がる高台の先端が選ばれた。そこは、現在は運動場になっている大きな長方形の窪地であるビザンツ時代の貯水池の隣で、 金角湾と対岸の眺めがよい景勝地である。逆に、そこに建てたモスクは、金角湾や対岸のガラタ側からは丘の上に望まれる位置でもある。
建築家は不明であるが、34年前に完成したエディルネ・パヤズィット・ジャーミシについて良く理解している人であろうという。
エディルネのバヤズィットジャーミイについては後日。
ハドゥムイブラヒムパシャジャーミイ、ハセキヒュレムスルタンジャーミイと小さなモスクが続いたが、次はスルタンのモスクなので、かなり大きい建物と予想していた。
左手は窪地という風に思っていたが、ビザンティン時代の貯水池跡だったとは。
上り坂の途中に門があったので入っていった。
同書は、礼拝室は直径 24.5m高さ 32.5mの単ドーム覆われている。このドームは、エディルネのウチュシェレフェリ・ジャーミと比べると、直径はほぼ等しく、高さは 4.5 mほど高いという。
エディルネのウチュシェレフェリジャーミイについても後日。
左の木立の向こうにあるのは⑫タブハーネ
『トルコ・イスラム建築』は、ワクフ文書などの資料では、タブハーネとイマーレット、病院、コーラン学校等も備えたキュッリエの状態であったらしい。現在はモスクと墓地のみがあるという。
平面図 『トルコ・イスラム建築』より
①モスク正門 ②中庭 ③シャドゥルヴァン ④回廊 ⑤中庭の脇入口 ⑥ソンジェマアトイェリ ⑦礼拝室入口 ⑧単ドーム式礼拝室 ⑨ミフラーブ ⑩ペンデンティブ ⑪スルタン用マッフィル ⑫タブハーネ(教育を受け、宿泊可能な施設)⑬タブハーネ入口 ⑬ミナーレ
単ドーム式礼拝室で、半ドームも小ドームもない。1522年ならまだミマールスィナンが活躍する前の建物。
その門から真っ直ぐ進むとモスクの前に墓廟があった。
張り出した屋根を4本の円柱で三つのアーケードを造って支えている。面白いことに、中央の入口上には小屋根が設けられている。
左右の壁面には多彩色のタイルが貼られてるようだが、1522年にこんなタイルがあったかな? 16世紀半ばになって、ようやく青色以外に薄紫色とオリーブ・グリーンの釉薬が使用されるようになった(『魅惑のトルコ陶器展図録』より)としたら、これは後補だろう。
植物文様が金色や銀色で表されている。金箔や銀箔を貼ったのだろうか。
豪華な刺繍の掛け布
囲いは上縁が真珠母貝だけで仕上げたもの、柵の細い柱は鼈甲と真珠母貝、白い枠線は象牙だろうか。
豪華な刺繍の掛け布
アイシェハフサ・スルタン廟
『トルコ・イスラム建築』は、墓地には、スルタン・セリムのテュルベ、スレイマンの幼くして死亡した子供たちのテュルベがある。失われたが、クリミア 汗国の王女でセリム一世に嫁ぎ、スレイマン一世の母となったアイシェ・ハフ サ・スルタンのテュルベもあったというというがこれは再建されたものだろうか。
4本の円柱の立つ玄関廊
冷酷な皇帝セリムの妻アイシェ・ハフサ・スルタン(Ayşe Hafsa Sultan Türbesi 左)と娘シャー・スルタンが埋葬されている。
⑤中庭に近道となる入口があるが、できればモスクは正門から入りたい。人も少なく静かなところだったので、子供たちが遊ぶのにはちょうど良いかも。
左折して正門側へ。
①正門のムカルナスは高さがあるが、
下から見上げると、それがよく分からなくなる。
半ドームも小ドームもないのでスレイマニエジャーミイのようなピラミダルな盛り上がりはなく、シンプルな⑧主ドーム。
そしてモスクを振り返る。
そこからが大変だった。夕刻の帰宅ラッシュか、一日中こんな風なのか分からなかったが、かなりの渋滞に巻き込まれてしまった。お陰でリュステムパシャジャーミイを写すことができたけれど。
続いてムスルチャルシュ(エジプシャンバザール)
キョフテをテイクアウェイしよう思っていたのに、kusı クズ(ラム肉)があったのでクズにしてしまった。店で食べると行列に並ぶことになるが、テイクアウェイなら店内で少々立って待てば済む。冷めないように、汁がこぼれないようにパッキングしてくれ、サラダとアイランを追加したら巨大なパン(小さく写ってしまった)もセットでついてきた。
ドームをフライングバットレス(飛び梁)で補強している。創建当初のものだろうか。アヤソフィアはミマールスィナンが補強に使ったとガイドのギュンドアンさんは言っていたが。
②中庭の中央には③シャドルヴァンが(清めの泉亭)あったが、ロープが張られていて使用禁止のよう。
⑭ミナレットは中庭から見上げると、あまり高くない。
シンプルなドームだが、たくさんの窓が開けられていて青ガラスのステンドグラスが嵌まっている。
左には⑪スルタン用マッフィル、中央に⑨ミフラーブ、その右にはミンバル(説教壇)
ミンバルの手すりは幾何学文様の透彫。
内側の三角形は中央が幾何学文様、周囲の文様帯は植物文様
北壁面は側廊がなく非常にシンプル。
南壁側にはムアッズィン用マッフィル、
その上には尖頭アーチにひらひらとフリルのような装飾がある。
二重の組紐文で、六角形の亀甲繋文に九角形を重ねた複雑な幾何学文様を浮彫している。
ミフラーブは縞のある大理石
スルタン用マッフィル
十点星を構成しながら外に伸びる二重の組紐文が描く幾何学文様の浅浮彫が施されている。
リュネットにはタイルパネル
この時代にはまだないはずのくすんだピンク、黄色、黒などがあるので後補ではないだろうか。
その上には尖頭アーチにひらひらとフリルのような装飾がある。
入口側
⑤中庭の脇入口から外に出ると、金角湾対岸の街がかすかに夕日の色に染まりつつあった。
このテラスは斜面にあって遮る建物がないので、展望台にもなっている。
テラスの先まで行ってまた新市街のガラタ塔やアジア側のチャルムジャ塔を眺める。イスタンブールはアジアとヨーロッパにまたがる唯一の都市。
そして、ビザンティン時代の貯水池跡だと知らずに窪地があるのだなあと思っていたので、柵の向こうをのぞいて見ることもせずに、アリーさんのタクシーを待った。
途中で右端のベヤジット塔、スレイマニエジャーミイが目に入り、写すと人の家までが入ってしまった。失礼
まもなく金角湾沿いの道路に出た。
先日行った時とは違ってものすごい人混み。トルコでは平均年齢が30歳とも32歳ともいうことで、イスタンブールでは観光客だけでなく、住民もたくさんいて、すこく活気がある。
イエニジャーミイ Yeni Cami という17世紀に建てられた立派なモスクもじっくりと眺めることができて、
イエニジャーミイ Yeni Cami という17世紀に建てられた立派なモスクもじっくりと眺めることができて、
マルマラ海に突き出た岬を回って無事ホテルへ。お世話になったアリーさんとタクシー。
ここはキョフテが美味しい店という情報が観光客にもいきわたっていて長い行列ができる店。前回のイスタンブール旅行でもここで食べた。
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「魅惑のトルコ陶器 ビザンティン時代からオスマン帝国まで 展図録」2002年 岡山市立オリエント美術館