それで、計画の立て直しをイスタンブールに来てから行うこととなり、別々の日に訪れるはずだったところを一日にひとまとめにして、タクシーで巡ることとなった。イスタンブールに前回来た時は、「タクシーに乗らないで下さい。トルコ人の私がトルコ語でしゃべっていても、遠回りされるくらいです」と言っていたが、それは現在でも同じらしく、一日タクシーをチャーターしてもらって、安心な旅をした。
ホテルに迎えにきてくれたのはアリーさん。私が渡しておいた日程よりも、ずっと効率的な行き方があったのだろうが、私が決めた順番通りに行ってくれたし、タクシーから降りると、入口まで送り迎えもしてくれた。
何日かを公共交通機関で回ったので、ヴァレンスの水道橋が見えた時は、もうすぐファーティフジャーミィの複合施設(キュッリエ)の長い壁が出てくることが予想できた。
イスタンブール テオドシウスの城壁北東部と見学場所 Google Earth より
トプカプ宮殿や考古学博物館その他の観光施設は恐ろしく高額だが、ここはただのように安かった。
➊チケット売り場 ➋エレベータ ➌城壁 ➍テクフル宮殿跡の博物館 ➎施設 ❻テラス
入ったところが板張りで、両側に➌城壁がある。テオドシウスの城壁(5世紀)は、マルマラ海と金角湾の間に、二重の壁とその間に堀を造たが、それは左(西)側で、ずっと後の時代(13世紀)にここに宮殿を建てて、右にも城壁を築いたのだろう。
ビザンティン時代の建造物らしく、アルマシュクというレンガの層と切石の層が積み重なっていても、積み方などが左右で違う。
西の壁下部はアーチが並び、監視塔は角型。
書物にしても、インターネットで調べても、この壁面ばかり出ているので、これがどの方向を向いているのかさえ分からなかった。
宮殿に入る前に城壁前のガラス張りのところを見ると、
説明パネルはおそらく窯跡とのこと。城壁用の平レンガを焼いていたのかも、と思ってみていたが、『TURKISH TILES』は、18世紀にイズニクタイル製造を復活させる最後の取り組みは、スルタン・アフメド3世の大宰相ネヴシェヒルリの貢献によって行われた。ダマト・イブラヒム・パシャは金角湾のテクフル宮殿にタイル工房を設立した。テクフル宮殿で生産されたタイルや陶器はイズニクの影響を受けており、タイル職人もイズニクから呼び寄せられた。しかし残念ながら、これらのタイルでは、16世紀のイズニク工房が達成した品質を再現することはできなかった。タイルの地は汚れた白、釉薬は灰色がかっており、ひび割れが見られ、色は青白く生気がない。デザインは西洋化の流行のために、イズニクのモチーフはバロック風の花や、遠近法の影響を受けたカアバ神殿の描写に取って代わられている。テクフル宮殿の工房の存続期間は短く、1719-35年にしか生産されていなかったことが知られているという。
あれま。
一階は通路だと思ったら行き止まり。
宮殿へ向かうが誘惑が多い。
楣石に三葉の蔓草文様
説明パネルは、中庭にある大理石と玄武岩の円柱、礎石、柱頭などは、イスタンブール考古学博物館の発掘調査中に発見された。これらの遺物はテクフル宮殿の火災でひどく損傷した。現在は中庭に展示されているという。
宮殿の壁面
たったこれだけの幅が宮殿? この正面壁の写真は数冊の本でみていたが、それがどんなところに立っている ここから
曲線ではなく直線の七宝繋文?いや斜格子に石の三角でつくった正方形と、レンガの三角でつくった正方形が交互に並んでいる。
12世紀に建造されたにしては風化が進んでいる。バットレスではなく浮彫人物像かも。
中に入るとのっぺらぼうの柱頭を頂いた円柱が並ぶホールがあって、円柱の間を縫って長いテオドシウスの城壁の模型があった。
全部は写せないので、その中でテクフル宮殿がある場所を1枚。
西の端には不思議な画面と発掘品
小さな窯跡のよう。
その隣の遺構
二階へ
その図面と説明
説明パネルは、テクフル宮殿のタイル窯はイズニクの職人によって設置されたが、イズニクのほとんどのタイル窯とは異なり、円形の設計と断熱壁を備えているという。
01 木炭で火を起こす場所。この場所はガラスを溶かしたり、ボウルに釉薬を保管したりするためにも使用される
02 中央に複数の穴。炉の熱を上部の区画に伝える
03 焼成室
04 ドーム
05 煙突: 炉からの煙を排出する穴
06 窓: 焼成室の外側に蓋が付いた開口部。加熱プロセスと色の形成を観察するためのもの
07 棚: タイルを水平に並べる
08 トチン:棚を置く円筒形の支柱
09 断熱壁:炉内の熱の損失を防ぐ。また、石英を含む粘土自体が断熱材となり、高温を保つ
その隣の遺構
二階へ
半円アーチは平レンガと切石を交互に配したアルマシュク
平たいドームは四方から平レンガを縦に使って持ち送っている。ここには切石はない。
二階に着くと武骨な壁面とアーチが待っていた。
正面のアーチの下は物原のように陶器の破片が積み重なっていた。
二階はテクフル宮殿跡から出土した遺物の展示室になっていた。
アトメイダヌ広場の催しで行進しながら山車の上で吹きガラスを造る工人たちの細密画の部分で説明している。元の細密画はこちら
モスクランプがあるので、オスマン朝時代のガラス製品のよう。しかも19世紀のものらしい。
他にはブレスレット、水差し、頸長の壺など。
ついでにもう1枚 何しに来たんやら。
展示室の続き
陶器のコーナーにはアトメイダヌ広場の催しの中で陶器つくりの山車
この細密画は見つけられなかった。蹴轆轤で壺をつくる人、壺を台の上に並べる人など。乾いたら器体を削るという工程は描かれていない。窯から煙りが出ているが、窯の両側にいる人達はこれから窯入れするところなのか、窯出しするところなのか、よく分からないが、窯の焚口を見ると、さすがに火は点いていない。
その前面には陶器の破片が並んでいる。
テクフル宮殿の窯の最後の製品はるつぼだった。1762-63年の文書には、テクフル宮殿の宝石職人のために坩堝を製作した陶工について記されている。発掘調査では、窯の周囲から多数のるつぼが発見された。これらの素焼きの坩堝は四つのサイズがあり、手作業または型で成形された。
テクフル宮殿の外には、坩堝の保管場所があっが、現在は児童公園になっている。2000年代にその場所の家屋が取り壊された際に、埋もれていた坩堝が8000個近く発見された。
円筒形のるつぼは、ローマ時代にコンスタンティノープルで製作されたるつぼとは形状が異なり、同様のるつぼがユスキュダルのマルマライ発掘調査(2004-05)で発見された。これらの溶けた陶器は、鉛釉を補う色を混ぜたり、陶器に最終仕上げを施したりするためにも使われたと言われているという。
パネルの下に並んでいるのが坩堝
チャイハネで水パイプを吸って寛いでいる人達のパネルの下には水パイプの道具や部品、そしてチャイを飲むカップなどが並んでいた。今のガラスカップとは形が違う。
そして西壁にはカンディッリジャーミイ KANDİLLİ Camii のミフラーブが展示されていた。
説明パネルは、このモスクはカンディリ・フェリー乗り場の近くにあり、1751 年にマフムード 一世の命により建てられた。何度も修復を重ねて最終的な形が決まった。石造りの建物はほぼ正方形。ミフラーブはテクフル宮殿のタイル工房で作られたタイルで覆われているという。
カンディッリジャーミイはアジア側のユスキュダル、ボスポラス第1大橋と第2大橋の間にある。
18世紀のタイルにしては赤い色が鮮やか。
他にはハタイやサズ文様のタイルなども出土している。
左から2本のミナレットと大きなドームのスレイマニエジャーミイ、白い建物の右の1本柱はベヤズィット塔(1828年にマフムットⅡ世が火の見櫓として造らせたが焼失して造り直された)、少し離れてファーティフジャーミィ(征服王メフメト二世が創建したが焼失、再建)その右の1本のミナレットのモスクは・・・カラアフメトパシャジャーミイだろうか?
宮殿の壁の中。
『イスタンブール歴史散歩』は、トルコ語でビザンツ皇帝の宮殿を意味するテクフルサラユTekfur Sarayıと呼ばれているこの宮殿遺跡は、旧市街の北西部、テオドシウスの城壁の北、金角湾近くの現アイヴァンサライ地区に位置する。
13世紀から皇帝たちが住むようになったブラヘルネ宮殿の複合施設の一つ。造りにより二つの年代に分けられ、2番目の期間はビザンツ帝国最後の王朝であるパレオロゴス王朝時代13-14世紀初頭に造られた。
城壁に近い為、コンスタンティノープル陥落の際に大損害を受けた。その後オスマン帝国時代には、ユダヤ人家族の家、スルタンの動物保護所、イズニック陶器職人の工房、ガラス工場として様々な用途に使われながらも現在まで遺構が残っているという。
ミマールスィナンはユシキュダルにミフリマースルタンジャーミイ(1547-48)を建てたが、その後エディルネカプにもう一つモスクを建てたのだった。
北東側の城壁と金角湾橋。円筒形の監視塔の一つにトルコの国旗がはためいていて、その遠方の緑深いところが、先日行ったエユップ地区だと分かった。そして1本のミナレットはザールマフムドパシャジャーミイ?
それなら、左の2本のミナレットのあるのがエユップスルタンジャーミイだが、ソコルルメフメトパシャ廟やシアヴュシュパシャ廟のドームは木々に隠れているだろう。
その後アリーさんのタクシーでエディルネカプのミフリマースルタンジャーミイへ。
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参考文献
とんぼの本「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社