次はやはりテオドシウスの城壁の側にあるモスク、イブラヒムパシャジャーミイ。
『イスタンブール歴史散歩』は、門から市内に入ったところにあるイブラヒムパシャ・モスク(Ibrahim Paşa Camii)もちょっと寄ってみたい。シナンの作だけに、趣きのある魅力的なモスクである。1551年、シュレイマン大帝の大宰相の一人だったイブラヒム・パシャのために建造された。大理石のミンバルとスルタンの玉座の細工がみごとであるという。
「オスマン帝国外伝」を見ていたので、スレイマン大帝の頃に建てられたモスクの名称を見ると、演じていた俳優の顔がうかぶ。
大城壁略地図 『図説イスタンブール歴史散歩』より
①第1軍門 ②黄金門 ③第2軍門(ベオグラード門 Belgrad Kapısı) ④ ペガエ門(スィリヴリ門 Silivri Kapısı) ⑤第3軍門 ⑥レギウム門(メヴレヴィーハネ門 Mevlevihane Kapısı) ⑦第4軍門 ⑧ロマヌス門(トプカプ Topkapı) ⑨第5軍門 ⑩カリシウス門(エディルネ門 Edirne Kapısı)
次の目的地はイブラヒムパシャジャーミイなので、一番近い城門は④スィリヴリ門 Silivrikapı だが、その門は一方通行で入れないので、次のベルグラドカプ門 Belgradkapı から入って門一つ分戻った。
城壁の中でもこの辺りは畑がある。
やがて見えてきたのがイブラヒムパシャジャーミイ。
この角度を城壁から撮影したと思われる写真。簡素なモスクである。 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より
その奥にイブラヒムパシャの墓。
右側を向くと、赤い矢印の先は柵が閉まっている。何なのだろう?
門の左側(マルマラ海寄り)はどうだろう。
その先でやっぱり柵が閉まっていた。ビザンティン時代の城壁がよく残っていると思ったが、この先は途切れている。
信号待ちでゆっくりと門をくぐることになったのでじっくりと下から門の上をのぞいたり、
振り返って宦官イブラヒムパシャのモスクを眺めることができた。
通り沿いのフェンスの間にある正門から境内へ。
借景がテオドシウスの城壁とは。シャドルヴァン(清めの泉亭)は正門からも、モスクの正面からも外れている。
このモスクはキュッリエ(複合施設)としては造られなかったのだろうか。
『Architect Sinan His Life, Works and Patrons』は、ハドゥム・イブラヒム・パシャの依頼で、建築家シナンが建てた。1551年に建設さられたこのモスクは、浴場、マドラサ、墓を含む複合施設として建設されたが、複合施設の建物のうち、今日まで残っているのはモスク、イブラヒム・パシャの墓、中庭の噴水だけである という。
柱廊中央の礼拝室入口上の小ドームは両脇に並ぶ小ドームより高い。ここには正方形・八角形という移行部が見えている。
平面図 『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN』より
➊礼拝室入口 ➋主ドーム ➌ミフラーブ ➍ミンバル(説教壇) ➎スキンチ ⑥マッフィル ➐ソンジェマアトイェリ(遅れて来た人が礼拝する柱廊)
➊礼拝室入口
内側から入口上部
入口の両側には付け柱が2本。
その左手には⑥マッフィル
扉が開いているので入って階上に行ってみればよかった。
⑥マッフィルの上から見たミフラーブ壁
➌ミフラーブと➍ミンバル
二つのペンデンティブの下部に付け柱の角柱が2本。『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』は、シナンが各側壁に2つの控え壁を追加することで内部空間を広げることに成功した、単一ドーム型モスクの第1段階の例。
壁からドームまでのスムーズな移行は、外から見えないトロンプによって確保されているという。
外観は、正方形平面の建物から、窓ガラス並んだドラムの四隅にバットレスが出ているだけ。確かにスキンチの出っ張りは見えなかった。
八つのペンデンティブの間の角四つをスキンチ(トロンプは仏語)にしていて、イランなどで見てきた正方形・八角形・十六角形と上のドームの円形に近づける移行部がなく、なめらかである。
ステンドグラスは曲面でつくった三角形六つで円にするだけのシンプルなもの。
『Architect Sinan His Life, Works and Patrons』は、シナンが建設したこのモスクは、宰相の称号にふさわしいスタイルで、八角形から架構されたドームという平面で架構される以降のモスクの先駆けでもあったという
これは、ウズベキスタン、ブハラのサーマーン廟のように内部に入れば、四角い部分から円形のドームへと移行するために、四隅にアーチを架けて、八角形を導き、さらに水平な梁で十六角形を導き、その上にドームを架ける(『世界のイスラーム建築』より)のではなく、
正方形平面から四隅にスキンチを用いて八角形にし、その上に直接円形を造ってドームを架構しているということかな。
スキンチを中心に見れば、両側には正方形の二面にあるステンドグラス。このステンドグラスを撮影するのを忘れていた。
➋主ドーム
同書は、シナンが後に実現することになる、八角形をベースにしたドームプランを予見するものという。同書は、シナンはこのモスクで初めて、釉下彩で作られたタイルパネルを使用した。濃い青の背景に白い碑文が刻まれたタイルが貼られており、その周囲には植物が描かれた黒とターコイズ色の縁取りが施されているという。
➐ソンジェマアトイェリのリュネットにもトルコブルーと紺色のタイルがあった。
側廊ではなく、壁から付け柱の角柱が南北2本ずつあって、その間が壁龕になっている。
北側の壁面は角柱の奥にあるので、この白い小さな壁龕が並んでいることで礼拝室が広く見えるという。カーペットが敷いてあるので、ここに坐って寛ぐのも良いだろう。
さて、中庭をしばし散策してみよう。
このミナレットは礼拝室の角に造られている。ミナレットへの入口は柱廊の緑色の扉かな?閉まっていたが。
ちなみにスレイマニエジャーミイのミナレットも建物角に立っているが、スルタンアフメット駅近くのフィルズ・アー・ジャーミイ(1491)のミナレットは建物の外に造られている。中央アジアでもミナレットは建物の外に造られていて、しかもモスクの中から出入りするようになっていたように記憶している。例えばウズベキスタン、ブハラのカリャンミナレットのように。
ということは、建物の角にミナレットを建てるのはミマールスィナンの工夫なのかも。知らんけど。
他の墓よりは大きいが、円柱が2本立つのは珍しい。
とりあえず、「オスマン帝国外伝」のイブラヒムパシャの顔を思い浮かべながらお参りしたのだが、これが大宰相イブラヒムパシャのお墓?
ところが帰国後、これはスレイマン大帝の初期に大宰相を務めたがスレイマンによって殺されたイブラヒムパシャの建てたモスクでもなく、墓でもないことを知った。ハドゥムというのは宦官だったのだ。それにこのモスクが建てられたのは1551年なのに、イブラヒムパシャが亡くなったのはそれよりずっと早い1536年だし。
『Architect Sinan His Life, Works and Patrons』は、イブラヒム・パシャはボスニア出身で、去勢後に宮殿に送られた後、急速に昇進した。彼はスレイマン大帝の宮殿で、名誉あるバブサアデ・アーの称号を授かって昇進した。
イブラヒム・アーは、1544年にまずアナトリア・ベイレルベイに昇進し、その後第4位宰相に就任した。イラン遠征中の1548-49年にイスタンブールの地方知事を務め、1553年には第3位宰相を務めた。ムスタファ皇子の絞殺後に第2位宰相に昇進したイブラヒム・パシャは、1555年に老齢のため辞任。多くの重要な国家職を務めた後、1562年に亡くなったという。
スレイマン大帝の大宰相だったイブラヒムパシャとは別人でした。
同書はまた、パシャは礼儀正しく真面目な人物として知られていた。第3位宰相だったときにシリヴリカプに建設を委託したモスクは、1551年に完成した。1562年1月21日付のモスクのワクフ文書に記載されている情報によると、建設資金として、スルタンから寄贈された村々、ルメリアの農地、製粉所、倉庫、イスタンブールの邸宅などを充てたことがわかっている。パシャはまた、イェニカプへの旅人が利用できるよう、小学校と井戸の建設を委託したという。
ミマールスィナンがアヤソフィアのドームの補強にも用いたと、後の現地ガイドのギュンドアンさんは言っていた。これによって、正方形平面から八角形へと移行するのがなめらかに行えたのかな。
柵ぎりぎりのところからミフラーブ壁を撮影。
で、柵の向こう側はアヒルやニワトリの楽園だった。
その後アリーさんのタクシーでテオドシウスの城壁の④スィリヴリ門方向へ。
信号待ちでゆっくりと門をくぐることになったのでじっくりと下から門の上をのぞいたり、
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参考文献
「図説イスタンブール歴史散歩」 鈴木菫著・大村次郷写真 1993年 河出書房新社
「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「Architect Sinan His Life, Works and Patrons」 Prof. Dr. Selçuk Mülayim著 2022年 AKŞIT KÜLTÜR TURIZM SANAT AJANS TIC. LTD. ŞTI.
「世界のイスラーム建築」 深見奈緒子 2005年 講談社現代新書1779