お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年6月11日火曜日

ミマールスィナンの建築巡り シェフザーデジャーミィ Şehzade Camii


アタテュルク大通りをくぐってヴァレンスの水道橋の方へ

ヴァレンスの水道橋付近の地図 Google Earth より 
ヴァレンスの水道橋付近の地図 Google Earth より

金角湾側から見たヴァレンスの水道橋

アタテュルク大通りを過ぎるとヴァレンスの水道橋はすぐに低くなつてしまう。

低くなった水道橋をくぐって

一段高くなったところから

すでにキュッリエの一部メドレセの屋根が見えている。


シェフザーデジャーミィのキュッリエ平面図 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より
『トルコ・イスラム建築』は、1543年6月に定礎を行い 1548年に完成したこのキュッリエは、スレイマ ン一世と寵妃ヒュッレムとの間に生まれ、1542年11月に天然痘に罹り 21歳の若さで死亡した王子メフメットのために建設されたとされている。「シェフザーデ」は「王子、スルタンの息子」の意である。
モスク、メドレセ、タブハーネ、キャラバンサライ、イマーレット、コーラン学校、シェフザーデ・メフメットのテュルベから成るキュッリエは、ファーティヒ・キュッリエシには及ばないものの、ヤウズ・スルタン・セリム・キュッリエシやバヤズィット・キュッリエシをも凌ぐ壮大なものである。
2万4千㎡の広大な敷地は、アヤ・ソフィアからバヤズィット・キュッリエシ、ファーティヒ・キュッリエシ、エディルネ門へと続く稜線上にあり、街を貫く大通りの脇にある一等地で、しかも地盤の良い平坦な場所である。
ステファノスは、初めはスレイマン一世自身のキュッリエとして計画されたと紹介しているという。
モスク メフメト廟 リュステムパシャ廟 メドレセ タブハーネ(旅行者が短期間無料で宿泊できる施設) キャラバンサライ イマーレット(メドレセの学生や貧しい人達に食事を提供する施設、ガイドのギュンドアン氏はイマレットと言った) コーラン学校
シェフザーデジャーミィのキュッリエ平面図 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より


シェフザーデジャーミィのキュッリエへ。

境内に入ると、モスクの方へと石畳の道が誘う。木立に囲まれていい雰囲気。

ちょっとバックして正面からモスクの正壁。


シェフザーデジャーミィの正面の入口は妙に細長く感じた。

複雑なムカルナスを見上げる。


モスク平面図
『トルコ・イスラム建築』は、ミマールスィナンが本格的に手がけた最初の巨大プロジェクトである。モスクについて、ミマールスィナン自身は「徒弟時代の作品」としているが、一体化した広い礼拝室を実現し、外観も美しい傑作だ。
主ドームの四方に半ドームを配置、支柱が4本の集中プランで、静力学的均衡を考慮しつくした堅牢な建物。以後のモスク建築に最も大きな影響を及ぼした建築であるという。
①モスク正門 ② 中庭 ③ シャドゥルヴァン ④ 回廊 ⑤ 礼拝室正面入口 ⑥ ソン・ジェマアト・イェリ ⑦ 半ドーム ⑧ 主ドーム ⑨ミフラーブ ⑩ エクセドラドーム ⑪ 隅のドーム ⑫ ペンデンティブ ⑬ 主ドームを支える柱 ⑭ 中庭への脇入口 ⑮ ミナーレ ⑯ 礼拝室への脇入口 ⑰ スルタン用入口
イスタンブール シェフザーデジャーミィ平面図 トルコ・イスラム建築より


正面に③シャドルヴァン(清めの泉亭)、⑤ 礼拝室正面入口、⑥ ソンジェマアトイェリ(礼拝に遅れてきた人のための部屋)柱廊の小ドーム、ごくわずかに半ドーム、そして礼拝堂の大ドームという積み重なりが見えるが、中庭が小さいせいか、周囲の回廊が迫ってやや狭苦しい。

入口より左の④回廊

入口より右の④回廊
扉が並んでいて開くと個室がありそうだが、平面図を見ると窓だった。

⑮ミナーレ(ミナレット)と⑤礼拝室入口


⑤礼拝室入口のドームとムカルナス



礼拝室に入ると、

⑧主ドームは四つの⑫ペンデンティブの上にのり、

各ペンデンティブは4本の⑬複合柱で支えている。

右の2本の円柱、手前の柱にはムアッジン用マッフィルが付属する。

左の2本の円柱、計4本の円柱は八角形に近い形に見える。

おかしな写し方をしてしまった。⑧ドームを支える四方の⑦半ドームの下にはそれぞれ小さな⑩エクセドラドームが二つある。

反時計回りに半ドームとエクセドラドーム

エクセドラドームを見上げる。その下のムカルナスは未完成のよう。


ミフラーブ壁側の⑦半ドーム、その下両側には⑩エクセドラドーム。


ミフラーブにはタイルは使われていない。
窓はステンドグラスだが、あまり凝っていない。

ミフラーブ壁最上段のステンドグラス
並のような線が簡素で美しい。左の小さな方もじっくり見ると曲線が凝っている。しかし、どらかと言えば若い女性向けに感じる。


ミンバルの細かな細工。


全体は石の透彫

しかし、金泥あるいは金箔を貼った蔓草は彩色された板に施されているようだ。



東側の⑪隅の小ドーム下
二階には皇帝用マッフィル

その下に来てみた。一石柱ばかりではなく、細い木の柱も使われていた。



礼拝室を出て墓廟へ

モスクの南面
どっしりとしているが、壁面の縁の透彫のせいで華やかに見える。

モスクの東面(ミフラーブ壁側)

ミナーレ(ミナレット)も装飾的。組紐文のようなものや花を表したようなものも。 


メフメト皇子廟 Şehzade Mehmet Türbesi 
THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』は、シナンが最も取り組んだタイプの墓プランは八角形をベースにしたものだった。外側と内側の両方が八角形で、軒の入口で飾られた墓の中で、次のものが挙げられる。バルバロスハイレディンパシャの墓(1541)。シェザーデメフメトの墓(1543)、溝付きのドームとドラム、ファサードの多色の石造、タイル、内部のこて装飾細工(マラカリ)が注目に値するという。

溝付きというよりも畝のあるドームと短いドラム。それだけでなく、葉っぱのような装飾が巡っている。それは陶器にあるような三つ葉のモチーフよりも装飾的

柱廊玄関にはタイルパネルがあるが、ガラス張りのため全体を写すのが困難。ここには赤い色がない。まだ赤い釉薬がない時代のものだろうか。

中に入ると、中央にメフメトの棺、左右にも棺が安置されている。中央がメフメト(1521 -43)、右の白いターバンは末弟のジハンギル( 1531-53)、右はメフメトの娘ヒュマンシャースルタン。
しかし、メフメトの棺の上にある木製の透彫のものは何?

説明パネルは、メフメトの石棺の上部には四脚に象嵌を施した玉座があるという。

八角形から全体にムカルナスのドラムを介して円形にし、ドームを架けている。このムカルナスがこて装飾細工(マラカリ)でつくられているのだろう。

ドームの下には16枚のステンドグラス

全てを写せたのではないが、

礼拝室よりも華やかなステンドグラスが並んでいた。

説明パネルは、16 世紀の青、紺、緑、黄、白の植物文様のタイルが、その下には青地に白いアラビア文字の銘文を記したタイルがはめ込まれているという。
内部のこて装飾細工(マラカリ)というのは、どうやら壁体とドームの移行部のムカルナスのことのようだ。

廟内のステンドグラスはモスクのものよりも色彩豊かで文様も華やか。それについては後日忘れへんうちににて。


リュステムパシャ廟 Rüstem Paşa Türbesi
説明パネルは、リュステムパシャは1500年代にサラエボで生まれたとされている。資料によると、彼は私室で教育を受け、その後リカブ・アー(スルタンの使用人で、馬のあぶみの革を保持したり、鞍セットの掃除を担当したりする)になったことが示されている。彼は後に州の総督を務めた。在職中、スレイマンとヒュッレムスルタンの娘ミフリマースルタンと結婚した。
パシャは当時の有能な政治家であり、アナトリア総督、 大宰相を二度務めた。 彼は皇帝とともに多くの遠征に参加した後、1561年に死去した。 彼はミマールスィナンによって建設されたシェフザーデジャーミィのキュッリエ内に造られた墓に埋葬されたという。
何故ここに墓廟が建てられたのだろう。エミノニュにあるその名を冠したモスクは、完成年が一定しない。
『トルコ・イスラム建築』は、碑文がないので建設年は明確ではない。多くのワクフや個人等から多数の商店や土地を買い取って、エミノニュの商業センターの一角にキュッリエの用地を確保して建設した。完成を見ずに1561年に死亡したので、妻のミフリマースルタンが1562年に完成させたとされているという。
建設途中で亡くなったためか、リュステムパシャジャーミイはキュッリエがない。そのため、まだ存命であったスレイマン大帝(1566年没)がシェフザーデジャーミィのキュッリエ内に廟の建設を許可したのかも。

柱廊玄関のある廟で、その柱頭は蓮の花を表している。


彼の建てたモスク同様一面がタイル張り。
リュステムパシャと息子が埋葬されているという。


ハティジェスルタン廟 Hatice Sultan Türbesi
シェフザーデ廟の近くには他にも墓廟があって、その中の一つがこのハティジェスルタン廟である。ハティジェスルタンと言えばスレイマン大帝の妹かと思ったが、スレイマンのひ孫メフメト三世(1595-1603 ブルーモスクを建てたアフメト一世の父)の娘だった。
説明パネルは、ハティジェスルタンが自身のために墓廟を建設したという。




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参考文献
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication