お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年5月28日火曜日

ファーティフジャーミィとキュリエ Fatih Camii


本日のイスタンブール観光はコンスタンティノープルを陥落させたメフメト二世の建てたファーティフジャーミィから。

トラムT1のスルタンアフメット駅から乗車

ラーレリ・イスタンブール大学駅で下車し、大レシトパシャ通り Büyük Reşitpaşa Cd を北上。

この辺りは衣料品やテーブルカバーなどのお店が集まっている。巨大なマネキンを思わず撮影してしまった。


突き当たりは地下鉄のヴェンネズレル-イスタンブール大学 Veznecıler - İstanbul Ünıversıtesı 駅

その先のシェフザーデバシュ通り Şehzadebaşı Cd. を渡って右手がイスタンブール大学で、通りに沿ってバス停が並んでいた。ファーティフジャーミィには一本道だが、通りの名前はちょくちょく変わる。
このバスの後ろのバスに乗って、ファーティフバス停に行くことを確認して乗り込んだ。 イスタンブールカードはトラム・バス・フェリー・マルマライなど何にでも使えて便利。


ファーティフジャーミィ周辺地図 Google Earth より
イスタンブール ファーティフジャーミィ周辺地図 Google Earth より


アタテュルク大通り Atatürk Blv. との交差点に入って東ローマ帝国のヴァレンス帝(364-378)が建設した水道橋が見えたので、慌てて写したらピンボケ

その後右手に長~い壁が続いたので、ファーティフジャーミィの複合施設沿いに通っていることが分かった。
ファーティフバス停で降りて、後方と、

前方を撮影すると、何故かネスカフェの宣伝をしてしまうことに。
因みにひいたコーヒー豆を柄の長い小さな鍋で煮だしたトルココーヒーは、下にドロドロと溜まるので、うっかり勢いよく飲み干そうとすると、それが口に入ってえらいめに遭う。喫茶店やレストランでは「ネスカフェ」というものがある。はて、レストランの朝食に出てくるコーヒーはネスカフェだろうか?


その間にある参道を登っていったが、途中の建物が途切れるところにも同じように階段があった。それほど広大なところなのだ。


門を入ると先の方にモスクが見え、右手には新しく整備された立派なトイレがあった。
右から女性用上り下りのエスカレータ、車椅子用のエレベータ。その向こうに男性用上り下りエスカレータ。

振り返って、モスクとバス通りの間にあるのは数あるメドレセ。
『トルコ・イスラム建築』は、1766年の地震で、モスクの礼拝室等が崩壊し新たに建てられるなど、甚大な被害を受けたが、キュッリエ全体の様子は現在もよく保存されているという。

キュッリエ(総合施設)の平面図
『トルコ・イスラム建築』は、メフメット二世は征服10年後の1463年になって、ファーティヒキュッリエシの建設に着手。ビザンツ帝国の後継者としてのオスマン帝国の威信を示す壮大なものである。場所は街の中心から離れているが、街を縦断する大通りの脇の第4の丘の頂で、そこに建っていた聖使徒教会を取り壊した跡地であるという。

メフメト二世図(1481年没) シナン・ベイ画 トプカプ宮殿博物館蔵 図説イスタンブール歴史散歩より
メフメト二世図(1481年没) シナン・ベイ画 トプカプ宮殿博物館蔵 図説イスタンブール歴史散歩より


聖使徒教会は、アヤソフィアと並ぶ由緒ある教会で、コンスタンティヌス一世(在位 306-37)の時代に創建され、ユスティニアヌス一世(527-65)が再建。
ギリシャ十字形に5つのドームを載せていたプランで、ヴェネチアのサンマルコ教会はこれを模したもの。ビザンツ帝国の皇帝たちの墓所があり、1204年まではユスティニアヌス一世の遺体も保存されていたが、第4回十字軍による略奪以来荒廃していた。取り壊した建物の石は、キュッリエ建設の資材にし、教会の土台をそのまま利用してその上にモスクを建設したという。
ということは今のモスクの平面とかつて存在していた聖使徒教会は同じ大きさだった? アヤソフィアとどっちが大きかったのだろう?

『イスタンブール歴史散歩』は、ファティフモスク Fatih Camii の広大な境内である。
皇帝の墓はトプカプ宮殿に運ばれ、現在は考古学博物館に収められている。
モスクの建設者はメフメットⅡ世自身で、コムプレクス全体は1470年頃、完成した。学校、図書館、隊商宿、給食所、浴場等の付属施設は現在はほとんど残っていないが、記録によると、モスクの周辺には多くの聖職者の宿舎のほか、参詣者のための何百という無料宿泊所もあったという。しかし、10㎢におよんだコムプレクスも、1766年の大地震でその大部分は崩壊した。現在の建物は1772年に再建されたものである。
オリジナルのモスクを建てたのは建築家アティク・シナン(ミマール・シナンとは別人)という

➊礼拝室 ➋中庭 ➌メフメット2世廟 ➍ギュルバハル廟 ➎メドレセ ❻初級メドレセ ➐ダールシッファ(初期は病院の意だが、次第に精神病院の意になった) ➑タブハーネ(旅行者を無料で宿泊させる施設)
なんとメドレセの多いこと。
『トルコ・イスラム建築』は、キュッリエの主要部分には約320mX320mのほぼ正方形の広大な敷地を使用した。そこに、中心となるモスク部分の他、メドレセ16校、病院、夕ブハーネ、キャラバンサライ等がモスクのミフラーブを通るキブラ軸を中心軸として軸対称に、幾何学的に整然としたプランで建設されたという。
イスタンブール ファーティフ複合施設平面図 トルコ・イスラム建築より


トイレを過ぎるとモスク全体がカメラに収まらない。

入って来た門と更にあるメドレセ
境内は真っ平らではなく、少しずつ上り坂

坂の頂点はモスクへの入口だろう。境内ぜ~んぶが大理石葺き。他のキュッリエと大きさを比較しようと見学に来たのだが、この空間があまりにも広いので、奥のメドレセ群を見る気が失せた。



ジャーミィの平面図
A:正面入口 B:中庭とシャドルヴァン(清めの泉亭) C:三面に回廊 D:ソンジェマアトイェリ(遅れてきた人が礼拝する場所) E:礼拝室入口 F:ドーム G:ミフラーブ
『トルコ・イスラム建築』は、現在のファーティヒ ジャーミシは、回廊や入口、ミナレットの土台部分などの一部を除き新しく建てられたという。
イスタンブール ファーティフモスク平面図 トルコ・イスラム建築より


A:正面入口

そのムカルナス



B:中庭とシャドルヴァンとD:ソンジェマアトイェリ
清めの泉亭の屋根があまり高くないので、礼拝室入口は隠れるものの、入口の小ドームがその両側のソンジェマアトイェリよりも少し高くなっているのや、二段のドラムの上にドームが架かっているところなどが入口からよく見える。
モスクは後世の再建だが創建時のものはどんなだったのだろう。

入口から見たC:右回廊と前の回廊の円柱

E:礼拝室入口の小ドームとフクロウの顔に見えるムカルナス



礼拝室

正面のミフラーブ壁
高くて窓が多いので明るいが、創建当初はこうではなかったはず。

ミフラーブは吊り下げランプでよく見えないが大理石、ミンバルも大理石製で扉は木製。右億の角柱にはムアッジン用マッフィルが付属する。


ミフラーブ上部とステンドグラス
タイルは使われていない。

ステンドグラスの技術もミマールスィナンの頃からはだいぶ衰えている。



ドーム
『トルコ・イスラム建築』は、ファーティヒ・ジャーミシの主任建築家は、後に自身で組織したワクフの資料に載っている名によれば、シナヌッディンユスフピンアヴドゥラーである。後にミマールスィナンと区別するため、アティッキスィナン(昔のスィナン)と略称されている人である。コンスタンティノープルが征服されたときに捕虜になったが、メフメット二世によって開放された元キリスト教徒のギリシャ人という。才能を認められ、ファーティヒキュッリエシの建設を命じられた。
メフメット二世の要求は、「アヤソフィアを超えること」であったという。しかし、アヤソフィアの主ドームが直径31m高さ56mなのに対し、エスキファーティヒジャーミシのものは直径26m、高さ44mであり、規模はずっと小さい。「超えられなかった」ため、スルタンの怒りを買い、処刑されたという。


左は、右はミフラーブ壁の半ドーム
見たところ、ミフラーブに近い角柱と入口側の角柱がドームドームからペンデンティブを伝ってドームの荷重を受けているが、平面図では入口側の壁に付いている。
左奥に、細い円柱で支えられた木製のスルタン用マッフィル

ドームを支える三つのペンデンティブの間に大アーチが二つ。どちらもわずかに尖頭アーチになっている。
右の尖頭アーチの奥に半ドーム、その下には中央のミフラーブ壁は平らな壁面、左右には小さな半ドーム。
左の尖頭アーチの奥にも半ドーム、その下には三つの小さな半ドーム。
『トルコ・イスラム建築』は、1767-71年に新たに建設された現在のファーティヒ・ジャーミシでは、主ドームを四つの半ドームで四方向から支える対称的なプランで建てられている。この建物も、1999年の地震でドームに亀裂が入るなどの被害を受けた。基礎の土台部分にも問題があるのかもしれないという。
なるほど、上の平面図は確かにエスキ(古い)と明記してあった。

右壁の半ドームはわずかしか写っておらず、入口側の半ドームは写すことさえしていなかった。



礼拝室を出て墓廟へと向かう。墓廟域にビザンティン風の建物が。

良かった、墓廟域の扉は開いていた。



礼拝室にくっ付くように建っているのはマフムト一世の図書館 Sultan Mahmut Ⅰ Kütüphanesi (1734-54)



その向こうには征服王メフメト二世 Fatih Sultan Mehmet Türbesi (1481年没)の墓廟
高さよりも幅の広さを感じる。

入口は反対側
『イスタンブール歴史散歩』は、ファテイフモスクの裏にメフメットⅡ世と彼の妃ギュルバハルの霊廟がある。歴代のスルタンは即位後ただちに、征服王の勇気と力にあやかるべく、この墓に詣でるのが習慣だった。バロック様式の彼の廟は内部も極めて豪華であるという。
これも地震後に立て直された。こういうのを好む時代もあったのだなあ。モスクがバロック風に再建されなくてよかった。

天井も華麗

板ガラスで囲まれているので、窓からの光が反射する。


一方ギュルバハルの墓廟は簡素な外観。
『イスタンブール歴史散歩』は、彼の妃ギュルバハルはフランス王の娘に生まれ、ビザンティン最後の皇帝コンスタンティヌスドラガセスに嫁すべくコンスタンティノープルに送られたが、そのときすでに都を包囲していたトルコ軍に捕えられ、征服王の妃になった。スルタンはいたく彼女を寵愛し、彼女は後のバヤジットⅡ世の母となったが、決してイスラムに帰依することなく、キリスト教徒として死んだという。数奇な運命に翻弄された王女も、いまは清楚な廟に安らかに眠っている。薄桃色の花をつけた灌木が彼女の廟を飾っていたという。

内部
中国では高低差のある棺をみてきたが、オスマン帝国の棺にも傾斜があることに今更ながら気がついた。


戦士オスマンパシャ廟 Gazi Osman Paşa Türbesi は閉まっていた。


最後に見えたのはやはりバロック様式のテュルベ・・・ではなく、女子のコーラン学校だった。


この後は少しずつ下り坂

途中からヴァレンスの水道橋が現れて、


水道橋に沿ってぶらぶらと歩いていった。

先の方に丸いドームが見えてきた。


レンガの帯が石積みの間に挟まったビザンティン様式をよく残す部分。アルマシュクという技法。

その下にはアルマシュクが見られない。もっと古い時代のものだろうか。






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参考文献
「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル